将軍さまも庶民も愛した!? 江戸時代の犬の飼育事情

 現代人にとってペットはなくてはならないパートナーです。ことに犬は、番犬、警察犬などといった使役犬としてだけでなく、愛玩犬として友人や家族のようにそばにいてくれるかけがえのない存在ではないでしょうか。

 けれども、それは何も今に始まったことではありません。犬が家畜化されたのは、少なく見積もっても1万年以上前といわれます。

 一般的に歴史上での犬のエピソードと聞くと、「犬公方」と呼ばれた5代将軍・徳川綱吉を思い浮かべる方が多いと思いますが、江戸時代、実際に犬はどのように飼われたり保護されたりしていたのでしょうか。本記事で解説していきます。

『犬狗養畜傳』に見る、犬の飼育法

 世の中が落ち着いた江戸時代になると、庶民も愛玩犬と共に暮らすようになりました。そんな中、ベストセラーとなったのが『犬狗養蓄傳(いぬくようちくでん)』、犬の飼育書です。

 著者である暁鐘成(あかつきのかねなり)は寛政5年(1793)の生まれで、浮世絵師であり戯作者でもありました。『犬狗養蓄傳』のほかにも『和漢今昔 犬之草紙』などを記した愛犬家です。

 この『犬狗養蓄傳』には、現代人もなるほどと納得するような内容がさまざま書かれています。この本を開くと、最初の扉の部分に可愛らしい子犬たちのイラストが描かれており、それだけで犬好きは和んでしまうことでしょう。

「大かたは生くる物を殺し、いため闘かはしめて遊び楽しまん人は畜生残害の類なり」

と厳しい言葉から始まっていて、愛犬家の共感を誘います。全編を通じて、犬を飼育する者の心得であったり、育て方、さらには犬が病気になったり怪我をしたりしたりした場合の対処法まで、こまごまと記されています。

 与える薬に関しても、それぞれの薬ごとに服用方法が丁寧に書かれています。たとえば、

「食物にふりかけて飲ますべし」

「もし 食はざれば かつおぶしの粉 又は何でも生臭きものを少し入れて食はすべし」

などとあり、念の入ったアドバイスです。

 生まれつき体の弱い犬に滋養を与え、毛艶もよくするなど、現代でも教えてほしいような薬についても書かれています。

 病気の犬の見分け方などについても説明が及び、「尾を垂れ下げるもの」「目の色赤きもの」「舌黒く涎を流す」「鼻先かはくもの」などなど、書きつらねられています。また、「犬にかまれたるを速やかに治す薬」など、人間に対してまでなんとも用意周到な手引書ではありませんか。

「犬の性は能く恩を知り、仇を報ひ、鼻さとくして能く気を嗅ぎ、能く家を守りて非常の人を内に入れず、厳しく吠へて窃盗を防ぎ、一切の邪魅妖術を祓ふ良獣にて、往へより犬の忠功人に勝ること和漢ともに其の例すくなからず」

と言葉を尽くして犬を誉め称え、

「世の人是を養ふに慈愛あらずんば有るべからず」

と戒めています。

 このような飼育書を記した暁晩成の愛犬っぷりは言うまでもありませんが、この本がベストセラーになった当時の江戸には、それだけ愛犬家が多かったことにほかならないということでしょう。

「生類憐みの令」は犬の交通事故防止策!?

 現代でも言えることですが、ペットが増えれば当然ながらマナーやルール、そしてモラルが問題になってきます。古来、屋内で大切に飼われた猫に対して、犬は放し飼いが当たり前でしたから、当然ながら江戸の町はかなり犬の糞に悩まされていたようです。

 江戸に多いものとして、「伊勢屋 稲荷に犬の糞」という言葉があるほどで、伊勢屋という屋号の店と稲荷の祠、そして犬の糞の多さは、ある意味江戸のシンボルとも言えたようです。

 上方人も江戸のことを「犬の糞と侍ばかり」とからかったそうですが、では上方はどうだったのかというと、実際、京の町などはことのほか清潔だったようで、画家の司馬江漢が友人にあてた手紙にも「京の能き事」として第一に「往来奇麗にして犬糞なし」と書いているほどです。

 とはいえ、糞に悩まされつつも野良犬を大目に見ることには、犬に生ごみを処理してもらえるという利点がありました。日本を訪れたドイツ人医師・シーボルトは、江戸の町が綺麗なのは野良犬のおかげだとさえ言っているほどです。そのため、野良犬は今でいう「地域犬」のような扱いで、町の人々からある程度容認された存在だったのです。

 そもそも犬は、江戸時代初期にはそれほど数が多かったわけではありません。明暦の大火(1657)では人だけではなく、犬の焼死もかなり多かったようですが、そのあとは次第に増加し、日本各地で犬の飼育の禁止令や野犬の殺処分のお触れが出ています。

 綱吉の時代にはすでに相当な数の野犬がいたと推測されるわけですが、実は当時、野犬が大八車に轢かれて死ぬといった交通事故が多発していました。

大八車
大八車

 大八車は明暦の大火以降に発明され、その普及が著しかったものですが、この車は荷物を運ぶのに便利な半面、ブレーキがありません。往来にごろごろしている野犬たちが死亡する事故が、あとを絶ちませんでした。

 そんな中、貞享3年(1686)、幕府より犬の交通事故防止に関する御触書が出たのです。1項目めに、大八車や牛車で犬をひき殺すと罰せられるということが書かれていますが、2項目めこそが世にいう「生類憐みの令」で、「何事につけても生類憐みの志を肝要に」と書かれていました。

 ”野良犬も大事に扱うように” との幕府の方針で、当然 犬はどんどん増えていきます。そこで幕府が野良犬の収容所を作るなどしたため、この時期、江戸の町では犬の糞害は案外少なかったようです。もとより収容所では雌雄を分けて飼育していたため、無暗に増えることもなくそれぞれ寿命を終えて、収容所の犬たちは自然に減っていきました。

8代吉宗の時代には…

 さて、時代はやがて暴れん坊将軍・8代吉宗の治世となります。綱吉の時代、厳しい取り締まりのもと野犬の繁殖は抑えられていましたが、その後はまたしても犬の数が増加に転じていました。

 そんな中、吉宗は綱吉時代に廃止されていた鷹狩を復活させるのですが、鷹狩のおりに犬がいると獲物が警戒して出てこないため、猟の間は犬をつなぐようにと御触書が出されました。はじめは緩やかな規制でしたが、次第に厳しくなり、やがて犬溜場なるものがつくられるようになります。大きな穴を掘って一帯の犬を追い込み、鷹狩の間閉じ込めておくのです。

 やがて各大名らもそれぞれが有する鷹場に犬が入り込まないよう、さまざま御触書を出したり、近隣の村々に飼い犬の実数調査を行ったりと、厳しく管理するようになりました。村々では次第に犬は住みづらくなり、犬が0匹という村も出てきます。ことに飼い主のいない野犬は、遠くへ捨てられたと言います。

 江戸時代と一口に言っても、各将軍の治世下で犬の扱いも移り変わったことが伺えますね。

おわりに

 犬との関わり方のルールはその時々で変わっても、愛犬家が犬を愛おしく思うことに変わりはなかったようです。だからこそ『犬狗養畜傳』は江戸の人々に受け入れられ、ベストセラーとなりました。飼い犬として、あるいは地域犬として、犬たちは江戸の町で愛され、生き抜いていったのでしょう。

 江戸の庶民の中には、自分のかわりに犬を伊勢神宮へ参詣させる者たちまでいたといいます。それだけ人々は犬を信頼し、家族同然に思っていたのでしょうね。

『犬狗養蓄傳』に記された飼育のアドバイスや、綱吉による動物保護の心などには、現代の我々も大いに学ぶところがあるのではないでしょうか。


【主な参考文献】
  • 暁鐘成『犬狗養畜傳』
  • 仁科邦男『犬たちの江戸時代』(草思社、2019年)

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  この記事を書いた人
遥つくね さん
主に日本史関連を書かせていただいているWebライターです。日本史が好きで時代劇も好き。史実と創作のギャップも楽しんでいきたいです。主に戦国時代から江戸時代幕末までが守備範囲ですが、古代〜中世あたりも好きなので、勉強を深めていこうと思います。

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