※ この記事はユーザー投稿です

【史跡散策】若狭萬徳寺・武田家ゆかりの寺へ

 現在の福井県南部にあたる若狭地方は、古くから独自の文化が発達し若狭湾で捕れる海産物で発展した。文化財指定の仏像なども多く残り、「海のある奈良」ともいわれる。

 小浜市にある高野山真言宗「萬徳寺」は、国の名勝になっている枯山水庭園で知られているが、戦国時代は若狭をおさめていた武田家とゆかりのあるお寺だ。

 小浜駅から萬徳寺へ向かう途中には、若狭ツイン神社として有名な若狭彦神社と若狭姫神社がある。

若狭姫神社は拝殿本殿の横の千年杉で有名
若狭姫神社は拝殿本殿の横の千年杉で有名

 萬徳寺はけっして広いお寺ではない。境内に入ると白砂の参道の右手に国指定名勝の枯山水庭園、左手に庫裏・書院造りの茅葺屋根、正面の階段の先に本堂が見える。受付で拝観料を支払うと、スタッフの方が丁寧に説明してくれる。

正面の階段先に本堂
正面の階段先に本堂

 枯山水庭園は、真言宗のお寺らしく大日如来を模したという石仏を中心に密教の世界観を表現しているという。密教の世界観と言えば曼荼羅のイメージがあり、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅があるが、この枯山水庭園は、弘法大師・空海の金剛曼荼羅を表しているという。

 曼荼羅とは宇宙のどこにどんな仏様がいるのかを大日如来を中心に表したもので、空海は立体曼荼羅を東寺に作ったが、それでいうとここは庭園曼荼羅といった風情だろうか。

 しかし、江戸時代に入ってからの延宝5年(1677年)に小浜藩主酒井氏により築造されたこの枯山水庭園は、戦国時代にはまだなかった。若狭国守護大名の武田氏が萬徳寺を祈願所と定め、さらにのち領主になった武田信豊により若狭国では唯一の駆け込み寺となった時は、今とは別の場所にあったとされている。罪を犯した者が入り、入っている限り唯一許されるのが駆け込み寺だが、当時は死別など様々な事情で縁を切る必要があった女性が中心だったともいう。

 若狭武田氏の第9代当主、武田元明は、本能寺の変の後、明智光秀方に付いた。しかし中国大返しの秀吉によって光秀は討たれ、敵方と見做された武田元明は若狭から山を越えた近江・海津の宝幢院(ほうどういん)というお寺に呼び出され、そこで斬り殺されたとも自害に追い込まれたともいわれている。

手を下したのは丹羽長秀だが、やはり秀吉の指令による可能性が高いだろう。水上勉の歴史小説「湖笛」には、そのあたりのいきさつが細かく描写されている。秀吉本人が武田元明と面会して諜殺しているのだ。
秀吉の狙いが武田元明そのものよりむしろ正室だった京極龍子にあったと考えても不思議はない。京極龍子は近江源氏の流れを汲む名門・京極家の出身だ。良家の女子にこだわった秀吉が、なかでもその美貌で名高い龍子をこののちすぐに側室とし、松の丸殿と呼ばれるのが京極龍子なのである。

武田元明と京極龍子には3人の子がいた。武田家の居館はこの近くの若狭神宮寺にあったというが、父の武田元明が殺されると、丹羽長秀配下の追っ手が来る前にただちに逃亡してふたりがこの萬徳寺へ逃げ込み、匿われたという。

 京極龍子は確保され、秀吉のもとへ送られたが、子をめぐるこのあたりの史実ははっきりしていない。しかし、本堂にはそのころからあった本尊・平安時代作の木造阿弥陀如来座像が静かに境内を見ている。

 優しく柔和なお顔立ちで、400年以上前の出来事も眺めていたのかもしれない。定朝様の穏やかな顔立ちとまろやかな身体表現が特徴の国指定重要文化財である。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
かのまお さん
小説家&ライター。 神社仏閣やパワースポットが好き。 社寺系のゼネコンに勤務歴あり。 小説家は別名義で活動、芥川賞ノミネート。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。