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【史跡散策】関ヶ原で拠点になった大垣城の現場へ

 大垣市郭町の大垣城。JR大垣駅から徒歩ですぐだ。天下分け目の関ヶ原の戦いでは、石田三成の率いる西軍の拠点となったことでしられている。遺構は石垣、外観復元天守、同城門、同隅櫓、堀。

 築城について、 竹腰彦五郎尚綱の1500年、宮川吉左衛門安定の1535年の2説あり、確定していないという。土岐氏の被官 安定が築き、当初は牛屋村の城と称して本丸などの構えが狭く、北方から西南に流れる牛屋川を巡らして要害とし、大柵を設けて郭を広くしたので、大垣の城と名づけたともいう。

 当初、本丸と二の丸二郭にすぎなかった城は1653年、氏家直元が松の丸を郭内に取り入れ、櫓並びに総構を築き、1696年羽柴秀勝の後に入った伊藤祐盛が天守を建てた。

 天下分け目の関ヶ原の戦いでは、石田三成の率いる西軍の拠点となった。1600年8月8日、 居城佐和山を出発した三成は大垣に到着、城主・伊藤盛宗に城明け渡しを申し入れた。 盛宗は一度は拒んだものの、開城した。島津義弘、小西行長らが続々入城して連日軍議が行われた。

 一方、三成挙兵の報に家康は、黒田長政、福島正則、池田輝政といった東軍の諸将を西上させ、東軍は清洲城に集結したが、家康の到着は遅れた。清洲城に集まった東軍の先遣隊は豊臣恩顧の諸将が多く、 翻意を恐れた家康は依然として関東に踏みとどまったという。

 家康の疑心を晴らそうとした清洲城の諸将は、8月21日の夜、 木曽川を渡り、小戦の後、23日に岐阜城を陥れ、大垣西北のお勝山に陣取った。 家康は9月1日に江戸を出発、14日にお勝山に到着した。

 大垣城の西軍は東軍の関西進出を防ぐため、関ヶ原に向かった。この夕刻から大垣城の攻防が始まった。

 守るは三成の妹婿、福原長堯(ながたか)をはじめ7500名、 乱戦の末、三の丸は落ち、 夜明けには二の丸に迫られた。この頃、関ヶ原では東西両軍の戦端が開かれ、関ヶ原では7時間半で勝敗がついたが、 大垣城の戦いは続いた。

 16日になって城内の秋月、相良高橋らの諸将が東軍に寝返り、福原長堯のみが本丸に拠って奮戦を続けた。 23日、家康からの降伏勧告により、城兵の助命を条件に開城。 長堯は剃髪して自刃した。

 大垣城では、関ヶ原の合戦を中心に武士と庶民の生活、当時の大垣城下の様子を、ジオラマと地図資料の展示などで紹介している。

 1601年、石川康通が入城、1613年には八幡郭の総堀、 高橋脇竹島町南の惣堀をつくり、石川氏の後の松平氏は忠良の代に天守を改造した。大垣城の天守は四層四階の珍しいものだが、記録には四層と書かず、三層としてある。初層の根を裳腰つまり付庇とみなして、 四の数字を嫌っている。 替わって岡部氏、松平氏を経て1635年戸田氏鉄が摂津尼ヶ崎城から10万石で入城、代々続いて明治に至った。昭和11年に国宝に指定されたが、昭和20年の空襲で焼失し、現在の大垣城は昭和34年に再建されたものだ。

 大垣城址(大垣公園)に鎮座し、大垣城の旧二の丸に位置している濃飛護國神社(のうひごこくじんじゃ)は、戊辰戦争からの戦いで亡くなられた方々や戦没者、自衛隊殉職者英霊などを祀る護国神社だ。

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  この記事を書いた人
かのまお さん
小説家&ライター。 神社仏閣やパワースポットが好き。 社寺系のゼネコンに勤務歴あり。 小説家は別名義で活動、芥川賞ノミネート。

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