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【史跡散策】古渡城跡…織田信長が元服した城へ

 古渡城は1543年に織田信長の父・織田信秀が築城した。名古屋市の中心部に近く、名古屋市営地下鉄「東別院」駅からすぐだ。すぐ南は金山エリア、北側は大須エリア。現在大きな伽藍が並ぶ真宗大谷派の名古屋別院 (通称東別院)から名古屋テレビの社屋あたりまでが城址。

 敷地南側の東別院の入り口から入り、2層の門をくぐると、巨大な本堂が出てくる。

2層の門
2層の門
門の奥に見えるのは本堂
門の奥に見えるのは本堂
本堂
本堂

 境内の建物は戦後に再建されたコンクリート造り。名古屋の空襲ですべて焼失したという。本堂の本尊は阿弥陀如来。その横には渡り廊下でつながる対面所がある。

 境内は名古屋市民の憩いの場になっており、古渡城の遺構や当時を偲ばせるものは残されていない。以前に行われた発掘調査でも遺構は何も残っていないという。ただ、境内東にある新茶屋公園の池は当時の堀跡ではないかとされる。精進川に向かって急に落ち込む地形は今も分かる。

 境内の西側には、納骨堂や鐘楼が並ぶ一角がある。しかしこれらも近年になって建てられた別院のものだ。そして南西の角に、古渡城の石碑が建っている。

 古渡城は東西140メートル、南北100メートルで二重の堀を持つ平城だった。古渡は鎌倉街道(幕府鎌倉と諸国の国府を結んだ中世の道)が通過する場所であり、東側に精進川が流れ、熱田へは水運でつながっていた。信秀の時代よりさらに数百年前には、西側の名古屋台地の縁が入江となっていて、渡があったために、そこから古渡という地名になったという。

 熱田を支配するため、那古野より近いここに信秀が築いた城といわれるが、この位置のメリットは三河方面へ出陣しやすいことだろう。笠寺を通って鳴海、そして沓掛(豊明市)で境川を渡って三河に入る鎌倉街道のルートは、安城城に直結する。逆に鎌倉街道を攻め上がってこられた場合、ここが守護のいる清須方面の最終防衛地点となる。

 清須へも鎌倉街道を進めばよく、その先の美濃へ出陣するのにも便利だ。

 幼名を吉法師といった織田信長はここから西へ15キロほどの勝幡城(愛知県海部市)で生まれたという。吉法師は当時絶頂期にあった信秀の後継者として満年齢なら十二歳で元服した。当時はこの年齢で大人扱いとなる。

 『信長公記』によれば、平手政秀などが介添えした元服式での祝宴や引き出物は、たいそう見事なものであったようである。信長はこの時点で明らかに家督を継ぐ予定の者だったのだ。

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  この記事を書いた人
かのまお さん
小説家&ライター。 神社仏閣やパワースポットが好き。 社寺系のゼネコンに勤務歴あり。 小説家は別名義で活動、芥川賞ノミネート。

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