白虎隊の悲劇 なぜ少年たちは自刃したのか?その真実とは?
- 2023/10/23
幕末・戊辰戦争の最中、会津における激しい戦いの中で多くの少年たちが命を落とした。特に飯盛山で自刃した少年たちは「白虎隊の悲劇」として今に語り継がれている。
なぜ彼らは自ら命を絶ったのか。なぜこのような悲劇が起こったのか。今回は、生き残った隊士が残した言葉などから、運命の日の真実を追ってみたい。
なぜ彼らは自ら命を絶ったのか。なぜこのような悲劇が起こったのか。今回は、生き残った隊士が残した言葉などから、運命の日の真実を追ってみたい。
白虎隊とは
会津藩では、10歳になった男子は会津藩藩校「日新館」に入学することになっていた。そこでは、剣術や砲術、座学のほか、会津藩士としての心得が厳しく教え込まれる。自刃の仕方もここで学び、少年たちは心身ともに会津武士として成長していった。おそらく江戸260年の平和に慣れてしまった他藩とは一線を画していたであろう。会津藩の立場
そして幕末。京の都では、過激な攘夷浪士たちが天誅と称して多くの幕臣、公家などを斬殺するという不穏な空気に包まれた。江戸幕府は、徳川に強い忠誠を誓い続けていた会津藩の藩主・松平容保(まつだいら かたもり)に京都守護職を命じる。京都の治安維持を任された会津藩は、支配下に置いた新選組と共に、多くの志士を斬り、あるいは捕縛した。
ただひたすら幕府と孝明天皇に尽くしただけの会津藩だったが、戊辰戦争においては、新政府軍にとって最も憎むべき仇敵となる。会津藩は徹底抗戦という道しかなかった。
戊辰戦争の緒戦・鳥羽伏見の戦い(1868)において大敗を喫した会津藩は、軍制をフランス式に改革し、戦力を整えていく。その中で玄武隊・青龍隊・朱雀隊・白虎隊という年齢別の組織が結成されたのである。
それぞれの隊の構成は次の通りである。
玄武隊
50歳以上の武家男子により構成された予備隊。- 士中一番隊 約100名
- 寄合一番隊 約100名
- 足軽一番隊/二番隊 各100名程度
ちなみに士中とは武家の上士、寄合は中士、足軽は下士という武士階級を指す。
青龍隊
49~36歳までの武家男子により構成された国境守備隊。- 士中一番隊から三番隊 各100名程度
- 寄合一番隊から二番隊 各100名程度
- 足軽一番隊から四番隊 各100名程度
朱雀隊
35~18歳の武家男子で構成された実戦部隊。- 士中一番隊から四番隊 各100名程度
- 寄合一番隊から四番隊 各100名程度
- 足軽一番隊から四番隊 各100名程度
白虎隊
17~16歳の武家男子で構成された予備隊。- 士中一番隊から二番隊 各50名程度
- 寄合一番隊から二番隊 各50名程度
- 足軽一番隊から二番隊 各50名程度
ひとくちに白虎隊と言っても、約300名の隊士がいたのであるが、飯盛山で自刃したのは、士中二番隊の隊士だった。白虎隊の中には、年齢を偽って入隊した年下の少年もいたという。
白虎隊出撃から自刃まで
慶応4年(1868)8月21日。会津藩の国境・母成峠が新政府軍により突破される。翌22日、白虎隊士中二番隊に非常収集の回章(命令)が回った。(※白虎隊士中一番隊は常駐の守りに入っている)
この日を待ち望んでいたはずの少年たちだったが、実際にこのときが来ると、まだ幼い彼らのこと、家族との別れに涙を流すものも多かったという。
滝沢本陣へ
藩主・松平容保に従い、白虎隊は滝沢本陣に入った。 佐川官兵衛の指揮の下、白虎隊を含む約250名が十六橋へ向かう。当初士中二番隊が前線に出るという予定はなかった。しかし、敵方を探っていた者から戸ノ原口が手薄であるという知らせがあり、市中二番隊が急遽戸ノ原口へ投入されることになったらしい。
本陣前に整列し、容保に捧げ銃(ささげつつ)の礼を取った士中二番隊は、隊長日向内記に従って滝沢峠から戸ノ原口へと向かう。
戸ノ原口での戦は、少年たちの前方で行われていた。しかし新政府軍の先鋒が迫り、白虎隊も銃撃戦に加わっている。この時の戦いは、日没とともに休戦となった。白虎隊からは死者を出すことなく、夕食時を迎えるが、兵糧を持っていなかった少年たちに渡されたのは、握り飯1個だけであった。
取り残された白虎隊
生き残り隊士のひとり、酒井峰治によると、白虎隊は別の隊と敵を挟み撃ちにする作戦を立てたらしい。ほかの隊から離れ、白虎隊士中二番隊は、夜の闇の中で小高い丘まで進む。そこで隊長の日向が食糧の確保のために隊を離れた。早朝の戦闘に備え、夜食・朝食の用意が必要だったためである。しかし、夜が明けても日向隊長は帰ってこない。夜中から降り出した雨で少年たちの身体は冷え切っていたが、士気は衰えていなかった。当初の予定通り挟撃作戦を実行しようと考えた彼らは篠田儀三郎、原田克吉それぞれが隊を率い、二手に分かれて進軍した。
戸ノ原口の戦い
白虎隊は、戸ノ原口で敵に遭遇、応戦する。しかし、敵弾が雨あられのように撃ち込まれ、負傷者も出始めて退却を余儀なくされた。丘の露営地まで戻ったが、帰ってこない者もいたというから、おそらく数人が戦死したのだろう。彼らは再び戦うか、退却するかで話し合った。「ここで敵ともう一度戦ったところで、犬死で終わるかもしれない。それなら城へ帰り、殿を護衛し、城を枕に討死しよう」
彼らは帰城を決断、街道を避けて山道から城下を目指した。しかし、山の地形に詳しい者はひとりもいない。悪戦苦闘の末、何とか滝沢白糸神社の上へ出て、やれ安心と一息ついたところで彼らは敵と遭遇してしまう。激しい銃撃を受け、永瀬雄次が腰を撃たれた。少年たちは永瀬を助けながら飯盛山の東側へのがれた。
山裾には、弁天洞という洞門がある。戸ノ口堰から流れて来た水を城下町へ送る洞門である。その洞門は今も存在する。
当時と同じかどうかはわからないが、200m程の長さがある洞門には結構な水量があるようだ。旧暦の8月23日は今の暦では10月初めであり、おそらく洞門を流れる水はかなり冷たかっただろうし、暗闇の中恐怖もあったのではないだろうか。
その冷たい水に腰まで浸かりながら、洞門をくぐった白虎隊は、飯盛山の西側裾に出た。
飯盛山へ
城下が一望できる飯盛山の高みに登った彼らが見た光景は、炎に包まれた城下だった。生き残った飯沼貞吉の言葉からそのときの様子がうかがえる。
「城下はもはや紅蓮の炎を上げ、君公(松平容保)のいらっしゃる鶴ヶ岡城は黒煙に包まれ、天守閣なども今にも焼け落ちるのではないかと思われた」
この時点で城はまだ燃えていなかったが、少年たちは城も燃え落ちたと勘違いし、落胆して自刃したというのが定説であった。
現在の飯盛山から鶴ヶ城を見ると、想像よりも遠く、小さい姿に驚く観光客も多いらしい。当時の白虎隊が見た光景も城下から炎は上がっていたものの、城が燃え上がっている様子は確認できなかったのではないか。だが彼らは自刃した。それはなぜだろうか。
白虎隊士中二番隊自刃
彼らは言葉もなく、ただ茫然と立ち尽くした。寒さと空腹に加え、悲惨な光景を目の当たりにした少年たちは、すでに気力が尽きていた。少年たちは決意する。
「城に戻って戦いたいが、圧倒的不利な状態で無事に城へ戻れるわけもない。途中で敵に捕らえられ、恥をさらすくらいなら、潔く今ここで武士らしく自刃しよう」
疲労と怪我ですでにボロボロになっていた少年たちは、最後の力を振り絞る。はるか鶴ヶ城に向かって訣別の礼をし、刀を抜き、腹を切る者、喉を突く者、差し違える者…次々と自刃していった。
- 安達藤三郎(17)
- 有賀織之助(16)
- 伊東悌次郎(17)
- 石田和助(16)
- 井深茂太郎(16)
- 篠田儀三郎(17)
- 鈴木源吉(17)
- 津川喜代美(16)
- 永瀬雄次(16)
- 野村駒四郎(17)
- 林八十治(16)
- 間瀬源七郎(17)
- 簗瀬勝三郎(17)
- 簗瀬武治(16)
- 西川勝太郎(16)
※()は年齢
計16名が自刃。その後、遅れて飯盛山へたどり着いた4名も相次いで自刃している。
- 伊藤俊彦(17)
- 石山虎之助(16)
- 池上新太郎(16)
- 津田捨蔵(16)
彼らの遺体は、賊軍として埋葬することを禁じられていたが、地元の農民が密かに埋葬したという。彼ら19名は「自刃十九士」と総称され、現在飯盛山に眠っている。
生き残った隊士たちの明治
16人と共に自刃したものの、のちに息を吹き返した、ただ一人の生き残りとなったのが飯沼貞吉16歳である。生死の境をさまよい、ようやく回復したのはすでに会津藩が降伏した後であった。飯沼貞吉
新政府軍に捕らえられた貞吉は、長州藩士・楢崎頼三に引き取られたそうだが、1人生き残ったことを恥じてか、長い間彼の口から白虎隊自刃の話が語られることはなかった。何度も命を絶とうとした貞吉であったが、楢崎に諭され、勉学に励むようになったという。その後、貞吉は電信技士として長年勤務している。彼が白虎隊について重い口を開いたのは、晩年になってからである。
貞吉の死後、遺言により遺骨の一部は飯盛山で眠っている白虎隊同士たちと同じ場所に埋葬された。
酒井峰治
隊とはぐれた後、地元民に助けられて生き残ることになった士中二番隊の酒井峰治は、北海道へ移住している。彼の死後、仏壇から発見された文書から、峰治が白虎隊の生き残りであることが知られ、その文書は会津戦争と白虎隊を知るための貴重な資料となっている。あとがき
まだ十代半ばの若い少年たちが、飯盛山で命を散らしたこの出来事は、会津の悲劇として今に伝えられている。彼らを思うとき、第2次世界大戦における特攻隊の少年たちが重なるのは私だけだろうか。どちらも故郷を守るため、家族を守るため、(白虎隊は藩主のためも含むが)命をかけて戦った。今も世界のどこかで若者や少年たちが、守るもののために戦って命を落としていっている。この現実に私は、1人の親として心がつぶされる思いだ。幕末におこったような悲劇は、今でも続いている。
歴史を学ぶ目的の1つは過去の過ちから学ぶことにあるのに…。各国の大人たちはいったいいつになったら学ぶのだろうか。
【主な参考文献】
- 中村彰彦『白虎隊』2001年
- 星亮一『白虎隊と会津武士道』2013年
- 早川廣中『真説・会津白虎隊』2006年
- 會津藩校日新館公式サイト
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