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  • 島津義弘
 2019/02/17

「島津忠良」入道名 "日新斎" で知られた島津氏中興の祖の生涯とは

島津日新斎の肖像画

薩摩藩は、明治維新に貢献した英傑が多く輩出されますが、その代表である西郷や大久保の人格を形成したのは、薩摩の伝統教育たる郷中教育によるものは広く知られているところです。大河ドラマの「西郷どん」でも西郷の幼少期のシーンによく出てきました。

郷中教育を作り、藩主ならびに藩士たちに高潔な人間たれと、心得を掲げたのは誰でしょうか?それは、室町時代末期に薩摩・大隈・日向の平定に尽力し、薩摩藩中興の祖と言われた島津忠良なのです。

300年もの間、薩摩藩の人間形成に影響を与え続けた島津忠良とは一体どのような人物なのでしょうか。
(文=Ten-ten)

不遇であった幼少期

父善久の急死

薩摩の島津家は、本宗家と言われる本家以外にもたくさんの分家がありました。薩摩の伊作荘を納めていた伊作島津家もその一つ。忠良はこの伊作島津家の跡取りとして明応1年(1492年)に誕生します。祖父にあたる8代目久逸は、本宗家から入った養子でした。伊作島津家は分家とはいえ、本宗家に近い親戚筋だったのです。

久逸の子は善久。同じ島津分家の新納家から嫁いできた常盤と善久との間に生まれたのが、菊三郎。のちのの忠良です。不遇の幼少期の始まりは、菊三郎3歳の時。父の善久が口論となった家来から殺されてしまいます。この時は、祖父久逸が健在であったため、菊三郎が急いで跡をとる必要はありませんでした。

7歳からは当主としての人格教育のため、真言宗であった海蔵院の名僧、頼増(らいぞう)和尚に預けられます。この時の菊三郎の逸話は多く残されています。
言うことを聞かない菊三郎は、戒めのために頼増和尚に縛り付けられてしまいます。その柱は、火事で焼失したあとも再建され、藩主たちの修養の戒めとされていました。今では日置市立伊作小学校に記念として飾られています。

祖父久逸の戦死

明応9年(1500年)、忠良が9歳の時、伊作家の柱であった祖父の久逸が亡くなります。薩州島津家の本家と分家の争いに加勢をし、討ち死にしてしまったのです。それでも常盤は忠良を呼び戻すことはせず、忠良を海蔵院の頼増和尚に預けたまま自分が伊作島津家を一人で守り抜きます。

忠良は、伊作島津家を気にせずに15歳までしっかりと海蔵院での教育を受けて成人することができました。常盤は戦国時代の女にふさわしい賢母だったのですね。

15歳にして島津伊作家を継ぐ

海蔵院での修行を終えて15歳で元服すると、「忠良」と名を改め、島津伊作家を継いで第10代当主となります。

まだ若い当主である忠良には、学徳優れた教育係として母常盤の親族から選ばれた新納忠澄が指導にあたります。幼少期から相次いで父と祖父をなくした忠良ですが、堅実な母常盤、厳しい師匠の頼増和尚、人生を導く忠澄など、徳のある人物の影響をしっかりと受けながら成長することができたのです。

母、常盤の英断

常盤は忠良が元服するまで伊作の地を一人で守っていましたが、相州島津家の運久がこれに目をつけます。賢母でありながら美貌も兼ね備えていたといわれる常盤に、運久が再婚を持ち掛けます。常盤は貞操を守ってこの申し出を断ったと言われています。

この時代に貞操観念があったとは考えられていないので、儒教道徳が盛んになった後世の影響から、美談として作られたのではないかとも言われています。

ともあれ、結局のところ常盤は、争いの絶えない島津家の内部事情を考えて伊作家の存続のために、運久に嫁すことを決意します。それには条件を設けました。嫁す代わりに菊三郎に相州家を継がせるという案です。島津相州家の一族と運久はこの案を受け入れ、常盤を相州家に迎え入れたのでした。

二つの島津家を継いだ若き忠良

伊作島津家の当主であった忠良は、20歳を過ぎてから約束通り運久の跡を継ぎ、相州島津家の3代目を継ぎます。こうして忠良は、伊作と相州2つの島津家当主となり、伊作・田布施・阿田・高橋の地を治めることとなったのです。

後の島津本宗家当主となる長男貴久誕生

永正11年(1514年)、忠良と島津薩州家成久の娘、御東との間に長男が誕生します。幼名虎寿丸、のちの島津貴久です。忠良の人生はこの貴久と共に、薩摩の大きな歴史の転換期に関わることになっていきます。虎寿丸誕生以降しばらくは、忠良は二つの島津家の当主として争いのない日々を過ごします。

子、貴久が本宗家の養子に入る

分家がたくさんある島津家ですが、守護を預かるのは本宗家のみ。あくまでも本家は本宗家なのですが、当主が11代目以降から若くして亡くなるという不運が続き、弱体化してしまいます。弱冠17歳で第14代を継いだ勝久は、心もとない本宗家のために薩州出水島津家から正室を迎え、正室の弟である実久に補佐をしてもらうようになります。

この実久がクセモノ。守護職のサポートをしているうちに、自分がこの守護職を継ぎたくなってしまうのです。

だんだんとずうずうしくなり、後継者として自分を指名しろとせまる実久に対して、勝久は嫌気がさして、正室と離縁してしまいます。薩州出水島津家とのつながりを断ってしまうのです。ここで助っ人として登場するのが、伊作島津家の忠良と虎寿丸父子なのです。 本宗家を継げなかった実久は、大隈国の辺川忠直方の蜂起を支援します。この蜂起を追討したのが、忠良父子。

勝久は、子どもがいなかったため、後継ぎとして「容貌魁梧神采俊発」(見た目が立派で、風采もよく、機敏な動き)であった虎寿丸を後継者にします。本宗家において重臣たち合議の上、13歳の虎寿丸を元服させ、第15代本宗島津家の後継者とします。大永7年(1527年)虎寿丸改め、貴久の誕生です。

収まらない本宗家の跡目争い

貴久を本宗家の養嗣子にプッシュしたのはした忠良。貴久本人が自分を売り込んだわけではありません。貴久自身に魅力があったのも事実でしょうが、本宗家としては忠良・貴久父子がセットとして考えていました。

本宗家から頼まれて忠良父子が政権を譲り受けたとされているのが一般的な見解ですが、実は頼りない勝久の代わりに、相州家がクーデターを起こしたという見解もあります。軍事的支援を行うことによって、貴久を養嗣子として認めさせるという圧力もかけたのではないかとも言われています。

実際に後継を託した後、勝久は伊作の亀丸城に隠居してしまいます。髪を剃って出家をしたとされており、同時にこの時、忠良も出家をし、愚谷軒日新斎と号します。

貴久の本宗家後継に対して、やはり薩州家の実久は黙っていませんでした。日新斎親子の反勢力を募ります。その結果、大隈国帖佐の島津昌久、加治木の伊地知重貞・重兼父子が実久方につき、蜂起します。この蜂起に対して忠良は、すぐに帖佐・加治木に向かい、鎮圧します。

勝久の復活!

ところが、忠良が追討に向かっている間に、実久は伊作に隠居していた勝久を再度担ぎ出します。そして、実久は大軍を率いて相州家の領地である伊集院・日置を攻略し、勝久はまた鹿児島へ戻って本宗家当主の座に復帰します。貴久も実久に命を狙われ、鹿児島清水城からかろうじて脱出するという目にあっていました。

日新斎親子は、田布施に撤退し、本宗家の後継としては追放された形となってしまいます。しかし、再度の勝久政権を島津分家がすんなりと承認したわけではなく、勝久勢力と反勝久勢力に分裂してしまい、薩摩・大隈・日向の三国は混乱・紛争状態に陥ってしまいます。

ただし、勝久の人間性はやはり弱かったようで、実久にすぐ実権を握られてしまい鹿児島清水城から出ていき、再起をはかるも豊後国の大友氏を頼り、そこで生涯を閉じることになります。

反勢力として蜂起する

天文5年(1536年)に日新斎父子は、伊集院を攻略します。そこから鹿児島へと続くルート上にある重要な城を次々と攻略していきます。実久は本家としての権力を強めるために、日向大隈まで足を伸ばして有力者たちの説得にかかります。その隙をついて、日新斎父子は天文8年(1539年)に加世田別府城を攻め落とします。そこを地盤に、弱っていく実久をさらに追い詰め降伏せしめることとなります。敵対し続けた実久に対して、罰するようなことはせずに旧領出水を安堵するという温情を示します。

子・貴久が本宗家として再度認められる

天文14年(1545年)に日向南部を支配する有力御家人である北郷・豊州両家が貴久を守護職継承として承認します。「一門・一家・譜代・随身ノ侍」も参集してこれを承認し、貴久は本宗家当主として安定した地位を築きます。

この時から、貴久を中心として抵抗勢力を鎮圧していき、薩摩・大隈・日向の三国を平定していきます。貴久を支え続けた日新斎は、三国平定の最後の砦、日向伊東氏制圧を目前にした永禄11年(1568年)に77歳の生涯を閉じます。

薩摩の精神を養う「いろは歌」

日新斎は、軍事力による薩隈日の三国平定に力を入れた武人としての評価と、幼少期から学んだ儒教や仏教からなる教養を後世にまで広く伝えた文人としての評価があります。

日新斎は人格教育のために「いろは歌」を創作しました。幼少期に学んだ仏教や儒学、神道を取り入れた精神思想が軸となっていますが、武人として学んだ人生体験も実践的な内容として多く含まれています。

薩摩藩独自の青少年教育としての郷中教育は良く知られるところでありますが、根源をたどれば日新斎の「いろは歌」から始まります。郷中教育は地域ごとの青少年教育組織であり、文武両道を徹底していました。必ず暗記させられたのが「いろは歌」。儒教的な心構えを基礎に人倫の道を説いた「いろは歌」は、郷士教育の柱として300年間唱和され続けます。そして、培われた薩摩精神は幕末に至って大きなエネルギーとなって爆発し、西郷や大久保などの明治維新の貢献者を作り出し、現在に至っても鹿児島県民の精神的支柱になっています。


【主な参考文献】
  • 新名一仁『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』戎光祥出版、2017年
  • 斎藤之幸『西郷 大久保 稲盛和夫の源流 島津いろは歌』出版文化社、2000年。
  • 『日新公いろは歌』尚古集成館、1992年。
  • 原口虎雄『鹿児島県の歴史』山川出版社、1973年。etc…
【参考HP】





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