足利尊氏の子息 次男は宿敵、三男は将軍…数奇な運命の男たち

 室町幕府を開いた足利尊氏は混迷の南北朝時代を勝ち抜いた成功者ですが、その子息はそれぞれ波瀾万丈の生涯を送りました。嫡男である足利義詮は征夷大将軍の職を継ぎますが、決して平坦な道ではありませんでした。また、義詮の2人の庶兄は数奇な運命に翻弄され、足利直冬は尊氏の強敵となってしまいます。義詮の同母弟で初代鎌倉公方となった足利基氏を含め、尊氏の4人の子息の生涯をみていきます。

「竹若丸」伊豆脱出 父の挙兵に合流画策も…

 足利尊氏の長男は竹若丸(たけわかまる、?~1333)です。母は尊氏の側室、加古基氏の娘。長男と明記するのは『太平記』だけですが、元弘3年(1333)時点で、尊氏の嫡男・義詮は4歳、尊氏の庶子・直冬は7歳前後と推定でき、竹若丸は行動から彼らよりは年長と判断できます。

            足利貞氏
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      直義 尊氏 高義
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基氏 義詮 直冬 竹若丸

※参考:足利尊氏の略系図


尊氏が鎌倉幕府に反旗、上洛を目指す

 元弘3年(1333)、足利尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻したとき、竹若丸は伊豆走湯山の伊豆山神社にいましたが、母の兄で走湯山光巌院別当だった覚遍や僧坊の僧ら13人に伴われて山伏姿で京を目指します。父に合流して戦に参加する覚悟だったのでしょうか。尊氏のかなり若いときの子としても10歳前後か10代前半のはずです。

 駿河・浮島が原(静岡県沼津市)で幕府の使者に発見され、討たれます。竹若丸を討ったのは諏訪直性と長崎為基。いずれも得宗被官(北条氏主流の直属家臣)である御内人です。諏訪直性と長崎為基に出くわしたとき、覚遍は切腹。竹若丸は捕らえられ、その夜、刺殺されます。13人の仲間も首をはねられました。

「足利直冬」認知されず、父の強敵に成長

 足利直冬(ただふゆ、1327~1400?)も足利尊氏の庶子ですが、死後供養された竹若丸とは違い、尊氏は認知を渋り、対面も拒み続けました。

 幼名は新熊野(いまくまの)。母は越前局。『太平記』の写本によっては越前殿、越後殿とも。尊氏が一夜をともにした身分不詳の女性とされます。

足利直冬(『英雄百首』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
足利直冬(『英雄百首』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

幼少期は東勝寺喝食 20歳前に還俗

 足利直冬は幼少期、鎌倉・東勝寺の喝食(稚児)となります。東勝寺は鎌倉幕府滅亡時、北条高時以下一族283人、殉死者873人が自害した場所。凄惨な光景を間近で見た可能性もあります。

 貞和元年(1345)頃、還俗。東勝寺の僧・円林に伴われて上洛しましたが、尊氏は対面を拒絶しました。

尊氏は対面拒絶 叔父・直義の養子に

 足利直冬はやむなく学僧・玄慧のもとで勉強。玄慧は尊氏の弟・足利直義にそのことを告げました。

直義:「それならば、自分のところに連れてきてもらいたい。よくよく見たうえで見どころがある若者なら兄尊氏に伝えよう」

 それでも尊氏は直冬との対面を拒否。直義が養子に迎えました。直義が実子を得るのは貞和3年(1347)、41歳のとき。その少し前に直冬を養子としたようです。

22年目の父子対面 初陣飾り、長門探題に

 貞和4年(1348)、南朝勢力討伐のため、足利直冬は討伐軍大将に任命されます。ようやく、父子の対面も実現しました。

 直冬22歳の初陣。紀伊などを転戦して戦功を挙げ、9月に帰還。仁木、細川ら尊氏に重用されていた幕閣と並ぶ席を与えられます。足利一門の吉良、斯波ら名門には及ばない地位で、『太平記』は直冬が冷遇されたとしますが、ようやく尊氏から一人前の扱いを受けるようになったとも取れます。

 貞和5年(1349)には中国地方8カ国を管轄する長門探題に抜擢されます。

南朝合流も本意でなかった父との合戦?

 ところが、養父・足利直義と高師直の対立が先鋭化。直義失脚後、足利直冬は出家を命じられます。それでも勝手に兵を集め、貞和5年(1349)12月27日、尊氏はついに直冬討伐命令を出します。

足利尊氏に反感を持つ太宰府の少弐頼尚に、婿として迎えられる直冬(『絵本太平記 27,28 頭書増補』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
足利尊氏に反感を持つ太宰府の少弐頼尚に、婿として迎えられる直冬(『絵本太平記 27,28 頭書増補』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 観応元年(1350)11月、足利直義は挙兵し、南朝と組む奇策に出て、足利尊氏と戦う観応の擾乱が勃発。この過程で尊氏は観応2年(1351)7月に直冬に協力を要請しながらも、その後、直義と直冬の結託を疑い、8月には逆に直冬討伐命令を出します。

 この行き違いで尊氏、直冬の父子関係は修復不能に。文和元年(1352)2月、直義が鎌倉で急死し、直冬は後ろ盾を失います。その後、南朝に降伏。旧直義派の旗頭に擁立され、直冬は父・尊氏の宿敵となってしまいます。

 文和3年(1354)5月、上洛戦を開始。旧直義派の桃井直常、斯波高経や南朝の楠木正儀らが参加し、文和4年(1355)1月に入京。しかし、桃井直常らが攻撃を仕掛けられても直冬は出撃せず、消極的姿勢に終始。「親と戦うのは心苦しい」と願文で本音を吐露したこともあります。3月12日、本陣の東寺を攻められ、敗走。直冬は本心から父と戦うことを避けていたのかもしれません。

 晩年は安芸、石見で活動。死期は諸説あり、『系図纂要』によると、応永7年(1400)3月11日、74歳で死去。嘉慶元年(1387)や嘉慶2年(1388)死去とする史料もあります。

「足利義詮」2代将軍 室町幕府の基礎固め

 足利義詮(よしあきら、1330~1367)は足利尊氏の三男にして嫡男。幼名は千寿王。母は尊氏の正室・登子。鎌倉幕府最後の執権・赤橋守時の妹です。足利氏は鎌倉幕府の最有力御家人で、代々、北条氏と縁戚関係にありました。

足利義詮像(出典:wikipedia)
足利義詮像(出典:wikipedia)

鎌倉脱出 4歳での初陣は討幕の戦い

 元弘3年(1333)、足利尊氏が鎌倉幕府討幕に挙兵したとき、義詮は鎌倉を脱出。『太平記』では5月2日夜。尊氏謀反を知らせる使者が京から到着する直前という際どいタイミングでした。

 鎌倉から姿を消した義詮は足利勢を従え、新田義貞に合流。尊氏の代理として軍忠状も発給します。もちろん家臣がやったことですが、新田義貞の鎌倉攻めに足利勢が主力として加わっていることを印象付けました。神輿として担がれた大将にすぎませんが、4歳での初陣は鎌倉幕府討幕の大きな合戦だったのです。

20歳で上洛、室町幕府の政務を握る

 足利義詮は長く鎌倉に留まりました。室町幕府発足後は出先機関として関東を統治する鎌倉府のトップです。

 貞和5年(1349)、叔父・足利直義が高師直との対立で失脚すると、20歳の義詮が直義に代わって幕府の政務を担当します。10月22日、関東の武将を従えて堂々の入京。桟敷が設営され、貴族の牛車が並び、大勢の人々が見物しました。26日には直義の屋敷だった三条殿に。この三条殿が実質的な首相官邸です。11月25日には多くの武将を引き連れて石清水八幡宮参詣。12月18日には光厳上皇の御所を訪問しました。若き宰相デビューの政治ショーです。

4度の京陥落 南朝との戦に悪戦苦闘

 足利義詮は『太平記』では、人の意見に流されやすい人物と評されています。

 頼みの補佐役・高師直は観応の擾乱で惨殺。室町幕府を設立した父・足利尊氏と叔父・足利直義が争う混迷期の幕府舵取りを担います。

 軍事面では厳しい状況が続きました。文和元年(1352)、文和2年(1353)、文和3年(1354)、康安元年(1361)と4度、南朝勢に京を奪われています。特に文和元年、楠木正儀らの京侵攻では、光厳、光明、崇光の3上皇と皇太子・直仁親王を捕えられる失態を犯しました。しかし、大勢では南朝に対する軍事的優位を保ちます。守りにくい京を一時的に退去する戦略を選んだ局面もありました。

 延文3年(1358)に足利尊氏が死去し、将軍職を継ぎます。有力大名の派閥争いに苦労しながらも2代目将軍として室町幕府を軌道に乗せました。

 貞治5年(1366)、「兄弟相護、誓死不変」と書いた誓紙があり、鎌倉公方の同母弟の基氏との関係には気を遣ったようです。その基氏と同じ年の貞治6年(1367)12月、38歳で病没しました。

「足利基氏」初代鎌倉公方 兄義詮と同年死去

 足利基氏(もとうじ、1340~1367)は尊氏の五男。父・尊氏36歳、母・登子35歳のとき生まれました。幼名は亀若、光王。義詮とは10歳差。基氏は京、義詮は鎌倉と、同母兄弟ながら別々の地で育ちました。

足利基氏像(出典:wikipedia)
足利基氏像(出典:wikipedia)

兄義詮に代わって京から鎌倉へ

 貞和6年(1349)9月9日、元服前の10歳だった足利基氏は100騎足らずを従えて鎌倉へ向かいます。

 兄・義詮が室町幕府の政務に携わるため鎌倉から上洛。その義詮に代わって基氏が鎌倉府長官に就きます。基氏の代から鎌倉公方と呼ばれます。公方は将軍の意味で、将軍の代理的立場で関東を統治する室町時代の「鎌倉殿」です。鎌倉府が統治する関東は甲斐、伊豆を含めた10カ国。後に陸奥、出羽を管轄した時期もあります。

「入間川殿」鎌倉離れ、長期警戒

 観応の擾乱後、足利直義派として関東執事(関東管領)を追放された上杉憲顕や新田義貞の次男・新田義興ら南朝勢力を警戒するため、足利基氏は鎌倉を離れて武蔵・入間川御陣(埼玉県狭山市)に長期間滞在し、「入間川殿」と呼ばれました。

 入間川御陣は文和2年(1353)設置。9年ほど鎌倉府の機能を置き、北関東に睨みを効かせました。関東管領として基氏を補佐したのは畠山国清。延文3年(1358)には猛将・新田義興を謀殺する功績を挙げましたが、その後、失脚。貞治元年(1362)には上杉憲顕が復帰します。上杉氏は関東管領を世襲。鎌倉公方は基氏の子孫が継いでいきます。

 後に鎌倉公方と京の将軍は同族ながら険悪な関係となり、鎌倉公方と関東管領も対立します。しかし、基氏在任中は兄・義詮と対立することはありませんでした。父と叔父が争った観応の擾乱を目の当たりにした兄弟は互いに気を遣ったようです。

 貞治6年(1367)4月26日、28歳の若さで病没しました。

 なお、足利尊氏の子息はこの4人だけでなく、基氏の1歳上で、8歳で早世した聖王(尊氏四男)、僧となり、長寿だった英仲法俊(尊氏六男)がいます。娘は、文和2年(1353)11月に早世した鶴王(頼子)や3~6歳で早世した3人がいました。

おわりに

 長男・竹若丸は足利尊氏と北条氏との戦い、次男・直冬は尊氏と直義の兄弟骨肉の争いに巻き込まれた生涯でした。短命と長寿という点は対照的ですが、庶子の2人はともに数奇な運命に翻弄されました。三男・義詮と四男・基氏は将軍と鎌倉公方という立場で協力しながら室町幕府を軌道に乗せ、創業者の2代目としては成功です。決して安定した時期ではなく、京も関東も南朝側との小規模な戦闘は断続的に続き、神経をすり減らした生涯だったといえます。


【主な参考文献】
  • 兵藤裕己校注『太平記』(岩波書店、2014~2016年)岩波文庫
  • 瀬野精一郎『足利直冬』(吉川弘文館、2005年)
  • 亀田俊和、杉山一弥編『南北朝武将列伝 北朝編』(戎光祥出版、2021年)
  • 峰岸純夫、江田郁夫編『足利尊氏 激動の生涯とゆかりの人々』(戎光祥出版、2016年)
  • 黒田基樹編『足利基氏とその時代』(戎光祥出版、2013年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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