【三重県】伊賀上野城の歴史 豊臣包囲網の牙城となった要塞

昭和初期に建てられた伊賀上野城の模擬天守
昭和初期に建てられた伊賀上野城の模擬天守
 伊賀国上野(現在の三重県伊賀市)といえば、特に忍者のイメージが強い地域かも知れません。伊賀鉄道・上野市駅は「忍者市駅」なんて愛称が付けられていますし、あちこちで忍者体験ができる施設も人気となっていますね。

 さて、伊賀市には「伊賀上野城」という立派なお城が立っています。年間10万人の観光客が訪れる人気スポットとなっていて、昨今のお城ブームもあり、徐々に来場者数が増えているのだとか。

 ところで伊賀上野城を代表する遺構といえば、やはり日本一の高さを誇る石垣は外せません。築城者の藤堂高虎は、なぜこの地に堅固な城郭を築いたのか? その理由とともに伊賀上野城の歴史を解き明かしていきましょう。

伊賀国衆による自治の時代

 室町時代以来、伊賀守護には仁木氏が任じられてきましたが、その権力は非常に弱く、地域支配は伊賀国衆の自治によって進められてきました。とりわけ、北伊賀では伊賀惣国一揆が組織され、国衆が掟を定めたうえで評定をおこなったといいます。

 さて伊賀上野城が築かれる以前、上野盆地の北中央部には、標高184メートルの上野山がありました。そこには後白河法皇の勅願によって創建された平楽寺や薬師寺があり、36もの堂宇を数えたとされています。また『伊乱記』によれば、国衆たちは平楽寺を評定所と定め、定期的に話し合いの場を設けたそうです。

 永禄11年(1568)、伊賀守護・仁木長政は、上野山に自らの館を築きました。これは足利義昭の上洛に合わせて築かれたと指摘されており、大和と伊勢を結ぶルートを抑えようとする意図があったのかも知れません。

 ただし、そうした措置は伊賀国衆の反発を買う結果となり、仁木氏はその後、織田信長に従属したことを契機に、伊賀惣国一揆によって追放されてしまうのです。

 天正9年(1581)、信長は伊賀への侵攻を決意し、およそ4万の織田軍が雪崩れ込みました。2週間余りで伊賀は焦土と化し、壊滅的な被害を受けたといいます。また上野山にあった平楽寺も、堂塔伽藍が灰燼に帰したことで廃絶となりました。

1578年、1581年と、2度に渡って伊賀国に攻め込んだ織田信雄
1578年、1581年と、2度に渡って伊賀国に攻め込んだ織田信雄

 伊賀平定後、信長の次男・信雄は伊勢の他に伊賀三郡を与えられ、丸山城や柘植城などが伊賀支配の拠点となっています。

筒井氏によって築かれた伊賀上野城

 信長亡き後の天正12年(1584)、徳川家康と和睦した羽柴秀吉は、いよいよ本格的な天下統一へ乗り出します。そのための政策として、まずは諸大名の配置転換を行いました。つまり大坂城を守るために、徳川氏に対する備えを構築したのです。

 近江には甥の秀次を入れて八幡山城を築かせ、さらに大和郡山には異父弟の秀長を置き、大和・和泉・紀伊の太守と定めています。ちなみに大和郡山は筒井定次が治めていたのですが、半ば強制的に所領を没収し、改めて伊賀へ封じました。この時に羽柴姓を与えて一門扱いにしたうえ、20万石の大名として取り立てています。

 伊賀へ赴いた定次は、新しい城を築くことを決意しました。この時に上野山と丸山を見分したらしく、盆地の中央に位置し、交通の便が良い上野山を選んだそうです。

伊賀上野城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 定次は仁木氏の居館跡に仮館を建て、平楽寺や薬師寺の跡地に城を築きました。『伊水温故』によれば、ようやく城が完成を見たのは、文禄年間(1593~96)の頃だったといいます。

 伊賀上野城の立地は、ちょうど上野台地の北端にあたり、河岸段丘によって北・西・南が崖になっていました。また、柘植川や服部川といった河川が、外堀の役目を果たしたと考えられます。本丸は山頂にあって、東寄りには三層の天守が建っていたとされ、西に二の丸、北に三の丸を配する構造になっていたようです。

 ちなみに寛永期の『伊賀上野城下町絵図』によれば、城代屋敷の北東隅には三層の建造物が描かれており、筒井氏時代の天守が、江戸時代まで残っていたことがわかります。

 城下町はあえて北側の低地に置かれ、大和街道を取り込むような形となっていました。これは街道を抑えつつ、東から進んできた敵を迎え撃つための工夫でしょう。もちろん徳川氏を意識したに違いなく、これは秀吉からの指示があったものと考えられます。

 筒井氏時代の遺構は、天守台跡など一部が確認できるのみですが、平成21年(2009)に実施された発掘調査によって、部分的に解明されているそうです。

 それによれば、藤堂氏時代の石垣の内側から、野面積みの石垣が検出され、石塔や基壇といった転用材が含まれていました。また野面積みの勾配が緩やかなことから、筒井氏時代の石垣だと考えられています。そして城代屋敷へ向かう登城路西側にも、大きめの石材を用いた石垣が残り、これも筒井氏時代の遺構と指摘されています。

藤堂高虎による大規模改修

 関ヶ原の戦い(1600)において、定次は東軍に加わって戦功を挙げますが、所領安堵のみで加増はありませんでした。実は合戦直前、西軍の新庄直頼・直定父子によって、伊賀上野城が奪われるという失態を犯しており、家康の不興を買ったことが原因だったようです。

 伊賀のおける治政も不祥事が重なり、さらに定次が豊臣氏に内通したという嫌疑まで掛けられてしまいます。慶長13年(1608)、信頼を回復できないまま、定次は所領を没収され、その身柄は鳥居忠政のもとへ預かりとなってしまうのです。

 その直後、家康の信任厚い藤堂高虎が、伊予今治から移ってきました。伊勢・伊賀・今治を合わせると22万石という大封です。もちろん高虎移封の裏には、家康の意図があったと指摘されています。つまり交通の要衝にある伊賀上野城を堅固に造り替え、対豊臣の牙城とするためでした。

藤堂高虎は数多くの築城の縄張りを担当し、築城の名手で知られている。
藤堂高虎は数多くの築城の縄張りを担当し、築城の名手で知られている。

 高虎の伝記である『高山公言行録』は、このように記述しています。

「紀州諸郷の武士や、吉野十津川の浪人が蜂起して東海道へ馳出、凶徒等を当地において支える所の要枢なれば、少分の軍将として抱がたき城街なり…大坂非利においては大御所公は上野の城へ引取、大樹公は江州彦根の城に入せ給ふべし」

 豊臣氏に心を寄せる紀州や十津川の郷士を抑え、大坂で万が一のことがあれば、家康を伊賀上野城へ迎え入れる。そんなプランが出来上がっていたのかも知れません。ただし、筒井氏が築いた城では心もとなく、だからこそ築城の名手である高虎が、伊賀へ移されたのでしょう。

 慶長16年(1611)年、高虎は伊賀上野城の改修に取り掛かりました。まず従来の二の丸を造り替えて本丸とし、その西側には付櫓を伴う五層五階の天守が建てられます。また本丸の南西から北東にかけて、高さが30メートルもある高石垣が積まれました。高石垣に沿って水堀がめぐらされ、現在でもその威容を見ることができますね。

 次いで、水堀を挟んだ西側は造成されて御殿が建てられ、その南西隅には宗旨櫓が、そして北西には二重櫓が造営されました。さらに外側には侍屋敷が置かれ、西の丸と呼ばれたそうです。

 筒井氏時代の旧本丸は、城代屋敷として造り替えられ、さらに西側には二の丸や伊予丸などが広がっています。ちなみに伊予丸は、伊予大洲城主だった池田秀氏が居住したことから、その名が付けられました。

 城の大手門は、東と西の二ヶ所に設けられ、その規模は長さ40メートルに及ぶ巨大なもの。多聞櫓を乗せた大手門が、明治時代まで残っていたそうです。

 城下町は筒井氏時代とは大きく異なり、城の南側に造られました。太平洋戦争の戦災を免れたことから、今でも多くの歴史的建造物が残っているといいます。

『日本古城絵図』(江戸中期-末期)にある伊賀上野城図(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『日本古城絵図』(江戸中期-末期)にある伊賀上野城図(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

その後の伊賀上野城

 筒井氏時代の伊賀上野城が、徳川氏を意識した城だったのに対し、高虎のそれは西側に重点を置くことで、豊臣氏に対する備えの城となっていました。また大坂城を攻める場合、軍勢の出撃拠点としても期待されたはずです。

 慶長17年(1612)、折からの暴風で天守が倒壊。それ以来、再建されることはありませんでした。なぜなら大坂の陣が幕府軍の勝利に終わったことで、その必要性がなくなったからです。高虎は津城を本拠と定め、伊賀上野城には城代が置かれたことで、地域支配の拠点として存続しました。

 幕末まで藤堂氏の持城だった伊賀上野城ですが、明治維新後の廃城令によって、多くの建造物が取り壊しとなります。その後、明治29年(1896)には城址公園として一般に開かれ、市民の憩いの場として親しまれました。

 現在の復興天守は、昭和10年(1935)に竣工したもので、木造瓦葺き、白壁塗り込めの純日本建築となっています。藤堂氏時代と比べれば少々小ぶりですが、優雅な佇まいを見せることから「白鳳城」とも呼ばれているとか。

 また、伊賀地域における産業振興のシンボルとして、「伊賀文化産業城」という別名もあるそうです。まさに伊賀のランドマークといった感じですね。

おわりに

 豊臣傘下の筒井氏が対徳川の城を築き、その後、藤堂高虎が対豊臣の城として改修したことで、伊賀上野城の役割は真逆のものとなりました。

 ところが大坂城の豊臣氏が滅亡したことで、城の必要性は急速に失われていきます。さらに朝幕間の交渉を担っていた高虎が亡くなったことで、上方における藤堂氏の役割も小さくなっていきました。その後は伊賀統治の拠点として存続し、明治維新へと至ります。

 現在の伊賀上野城では、「上野城お城祭り」をはじめとするイベントが定期的に開催され、遠方からも観光客がたくさんやって来るとか。伊賀地域における観光・歴史・見どころのスポットとして、今後も期待が膨らむところですね。

補足:伊賀上野城の略年表

出来事
平安時代末期後白河法皇の勅願で、上野山に平楽寺が造営される。
永禄11年
(1568)
仁木長政が、上野山の西端に居館を築く。
天正9年
(1581)
第二次天正伊賀の乱。伊賀が荒廃し、平楽寺も焼失する。
天正12年
(1584)
脇坂安治によって、上野山の砦が攻略される。 
天正13年
(1585)
筒井定次が伊賀へ入封。伊賀上野城の築城に取り掛かる。
文禄年間(1593~96)三層の天守が竣工し、伊賀上野城が完成する。
慶長5年
(1600)
西軍の新庄直頼・直定父子によって城が奪われる。
慶長13年
(1608)
筒井氏が改易され、新たに藤堂高虎が伊賀へ移封される。
慶長16年
(1611)
高虎、伊賀上野城の大改修に取り掛かる。
慶長17年
(1612)
暴風によって、作事中だった天守が倒壊。
元和5年
(1619)
藤堂高清が伊賀上野城の城代となり、明治維新まで藤堂氏の支配が続く。
明治2年
(1869)
廃城令に伴い、廃城処分となる。
明治29年
(1896)
実業家・田中善助によって城跡が整備され、公園化される。
昭和10年
(1935)
当地選出の代議士・川崎克が、私財を投じて復興天守を建設する。
昭和42年
(1967)
国の史跡に指定される。
平成18年
(2006)
日本100名城に選出される。


【主な参考文献】
  • 中井均「東海の名城を歩く 愛知・三重編」(吉川弘文館 2020年)
  • 福井健二ほか「三重の山城ベスト50を歩く」(サンライズ出版 2012年)
  • 黒田涼「日本の城下町を愉しむ」(東邦出版 2019年)
  • 三重大学歴史都市研究センター「地域社会における藩の刻印 津・伊賀上野と藤堂藩」(清文堂 2014年)
  • 公益財団法人 伊賀文化産業協会 伊賀上野城公式サイト

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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