毛利元就の人柄がわかる!?LINEトーク風に逸話をご紹介

戦ヒス編集部
 2019/01/01

石見の敵将・青屋友梅を降す(1523年)


※『名将言行録』より


大永年間に元就は3500余の軍勢で石見国の青屋出羽守入道友梅の城を攻めたが、敵の防戦に手こずり、自軍の兵には多くの死者をだした。友梅の城の欠点は水が乏しかった。
元就は水が尽きれば落城すると考え、激戦を繰り返して死者が増えないよう、周囲に長い堤を築き、対陣して日々を過ごした。


敵方の城兵たちはすっかり意気消沈しており、一方で友梅は毎日真っ白な精米で馬を洗っていた。これが遠くから見ると水のように見えたため、これを見た毛利兵たちの中に勘違いする者が出ていた。


---毛利陣営---

家臣たちアイコン

毛利兵たち

毛利兵A:ううむ。敵城には多くの水があるようだな。。
毛利兵B:ああ、いたずらに時が過ぎていってもまずいしのう。
毛利兵C:ここは短期決戦で行くのがよかろう。


毛利元就アイコン

元就

・・・・。


こうした意見は元就の耳にも届いていたが、これに一切耳を傾けず、元就は続けて対陣の日々を過ごした。しばらくして敵情視察のため、間者(=スパイ)として井上光親を敵城に送り込み、友梅を訪ねさせたのである。


---敵城内---

友梅は大いに喜んで光親を迎え入れ、饗応した。そして宴が終わった頃に友梅が言った。


青屋友梅

私には変わった馬癖がありましてな。ひとつお慰みにお目にかけましょうか。

家臣アイコン

井上光親

望むところです。

家臣アイコン

友梅は6、7頭の馬を引き出すと、大きなたらいに水を張り、光親の前で馬の頭を冷やしたり、口を洗わせたりした。

光親はやがて暇を告げて帰り、こうした状況を元就へ報告した。


---毛利陣営---

毛利元就アイコン

元就

城の様子はどうじゃ?


井上光親

はっ!水が乏しいと言っておりましたが、大きなたらいに水を入れて馬を洗ったりしておりましたゆえ、おそらくこれは虚言かと思われます。

家臣アイコン

毛利元就アイコン

元就

・・・・ほかには?


井上光親

他には、塀の裏には米俵が積んでありましたゆえ、兵糧も十分あるとお見受けしました。

家臣アイコン

これを聞いて元就は言った。


毛利元就アイコン

元就

それならばなおのこと、水は乏しく、兵糧もすでに尽きてきたということだ。もしこれから30日も攻めれば城を落とせるだろう。


井上光親

えっ!?(わしの考えと正反対じゃないの・・)

家臣アイコン

こうして元就は、家臣に命じて仕寄り(=城の包囲・攻撃にあたって臨時に設ける塀柵)をつけさせ、櫓を組みあげて攻め近づいていった。すると、20日余で、友梅は耐え切れずに降伏して城を出てきた。元就の読み通り、敵方は水も兵糧も乏しかったのである。

元就は特に間者を放って城中の様子を逐一把握していたということである。




元就、お家騒動で敵対した一族を諭す(1524年)

※『名将言行録』より


元就の兄・毛利興元が酒におぼれて25歳の若さで急死すると、毛利氏の家督は興元の嫡男・幸松丸が継いだが、まだ子供だったために元就が後見人となった。
しかし、大永3年(1523年)には幸松丸も若くして病死し、後継ぎがいなかった。


毛利家中では家臣たちが相談して、元就を継がせることに決定した。元就の弟は相合元綱という。元綱の家臣である坂広秀、渡辺らは元就を殺して元綱に毛利家を継がせようと目論んだ。


元就はこれを知って、勝一という盲目の者を元綱のほうに遣わし、平家琵琶を語らせるなどして酒宴を催して油断させ、かねて兵を伏せておいて、元綱、坂、渡辺らを殺させたのであった。


坂氏は毛利氏の庶流であり、さらにその坂氏の庶流に志道氏があった。
元就は謀反を起こした坂広秀の一門にあたる桂広澄、志道広良の2人を諭そうとすぐに井上河内守を遣わせた。


--坂一門の居城--

井上河内守

元就公の意を伝えに参った。
元就公は「坂の縁故があるからとはいっても、汝らを疑うようなことはせぬ。」と申しております。粛清するような意はないかと。

家臣アイコン

坂一門ら

志道広良:それはまことか!それはありがたきこと。(た、助かるのか・・)
桂広澄:・・・(きっと処刑じゃ。・・わしが責任を取るしかないかのう。)

家臣アイコン

志道広良はこれを受けたが、桂広澄のほうは疑ってこれを信じず、ついには自殺してしまった。このため、広澄の子である元澄は粛清されると思い、一門を集めて城に立て籠もってしまった。


これに対し、元就は今度は児玉就忠を派遣して説得にあたった。しかし・・・


坂一門ら

桂元澄:元就に騙されてなるものか!
一門A:そうじゃそうじゃー!

家臣アイコン

これも信じず、坂一門は元就によって粛清されると思いこんだまま、依然として籠城を続けたため、元就はついに自ら説得のために坂一門の籠もる城へ出かけていった。


毛利元就アイコン

元就

わしには全く他意はない。もし疑うのであれば、今はこうしてわし一人であるから討ち取るがよい。


これに元澄らはたちまち先非を悔いて、罪を謝した。元就はますます温かい言葉をかけて諭したため、ついに彼らは毛利家開国の家臣となったのである。





元就、主君・大内義隆を諌める(1540年代後半?)

※『名将言行録』より


既に大内義隆は周防国・長門国・豊前国の全州を領し、安芸国・石見国の諸将もみな彼に属していたときのこと。さらには太宰の大弐を兼ねていたことで筑前国も支配下に置き、その威を西国にふるっていた。


義隆は周防と山口に居城としたが、最近は大内氏に並んでこれを脅かすほどの有力一族はいなかったため、やがて軍事に興味を示さなくなって武備を怠るようになった。そして文化に傾倒してしきりに遊宴にふけり、茶の湯や和歌の会を開くなどの日々を過ごすようになっていったのである。

このように弓矢を疎んで、軍事面はすべて陶晴賢任せであった。


陶晴賢

(もはや義隆は上に立つ者の器ではないようだな。フフ、わしが上に立つにはいい機会かもしれぬ。)

陶晴賢アイコン


陶晴賢は叛意を抱くようになっていたが、元就はこのことに気づいていた。


毛利元就アイコン

元就

(このままではいずれ晴賢が謀反を起こし、大内家は滅びてしまうかもしれんな・・。)


こうしてあるとき、元就は間諜(=スパイ)を義隆の前に派遣した。


━━━ 義隆の居城 ━━━

元就の間諜

元就公からの書をお持ちいたしました。

家臣アイコン

大内義隆アイコン

大内義隆

なに?どれ、わしに見せてみよ。


それは義隆を諌める内容のものであった。


昔から国を奪う者はみなその家の重臣でございます。小身者は望んでもかなわぬと思うため、明君賢主はみずからよく諸将を率い、重臣に権威をもたせるようなことはありません。
もし、重臣たちが権威を握ったならば、それぞれに任務を授け、また、禄を与えたとしても、これは主君から出たものとは思わず、自分たちの取り成しでそうなったと思うために、その重臣たちだけが目立ち、君はないがしろにされると存じます。

重臣たちもはじめから私心があったならば、他の者たちから信を得ることはできません。はじめのうちは公平に処置をしておられても、もし君が国政を顧みず、政治一切を重臣らが任せられるようになると、気がつけば政治の是非や諸将らに対する賞罰も、重臣らはみな、私心に任せるようになって君を憚らなくなるものでございます。
それがしが最近の情勢をみて感じるには、大変危険な気がしますから、どうぞお気をつけてください。下々の様子を十分に把握し、こまごまとした政治の隅々まで、ご自分でお決めになるよう、先を見通しての謀をお定めください。



大内義隆アイコン

大内義隆

・・・フン!元就のやつめ、わしのやり方が気に入らぬというワケか。


こうして義隆は元就の諫言を一向に聞き入れなかった。そして、のちにはついに重臣の陶晴賢に殺されてしまったのである。



毛利隆元の死(1563年)

※『名将言行録』より


永禄6年(1563年)、尼子氏の支城・白鹿城攻めのとき、元就の嫡男である毛利隆元が急死してしまった。これに家中では元就のことをひどく心配していた。


元就家臣たち

家臣A:ああ、なんてことじゃ。
家臣B:殿が知ったらひどく悲しむじゃろうに。
家臣C:ここは一旦は戦は取りやめかのう。。

家臣アイコン

しかし、この報を聞いた元就の様子は意外なものであった。元就は次男の吉川元春、三男の小早川隆景らの前で語った。


━━━ 元就の居所 ━━━

毛利元就アイコン

元就

・・隆元の死はしかたのないことじゃ。考えてみるに、これはひとえに尼子氏滅亡の墓である。
わしやお前たちはいうまでもないが、家中の下々にいたるまで、隆元の弔いとして、尼子退治の心がけは尋常一様(一般的なこと)のものであってはあるまい。


吉川元春

ううっ。兄上。。

吉川元春アイコン

小早川隆景

うう、うっ。

小早川隆景アイコン

毛利元就アイコン

元就

泣くでない・・。我らみなが堅き決心をもってすれば、この軍勢をもって尼子を討ち滅ぼすことはなんの苦もないことじゃ。


元就家臣たち

家臣A:・・・(どうやら殿は心配なさそうじゃのう。)
家臣B:うう・・(殿がもっともお辛いはずなのに・・。)
家臣C:・・・(よーし!戦じゃ~。やってやるだぎゃ~。)

家臣アイコン

元就が気持ちよく語ったことに、家中上下の者たちはみな安心し、一同勇みあった。


━━━━━━


その後、元就は自らが大将として白鹿の城を攻め込み、ついにこれを落としたのである。

これは隆元の死によって大事な一戦をさまたげられるのを心配した元就が、逆に士気を上げるために活用したことによる勝利であった。





神の化身か?尼子の刺客が驚愕(1565年頃)

※『名将言行録』より


第二次月山富田城の戦いで、元就が洗合に陣をとって尼子の本拠・月山富田城を包囲していた時のこと。尼子の家臣に熊谷新右衛門・原宗兵衛という2人がいた。この2人が主君・尼子義久の前にでて言った。


熊谷新右衛門

降参して元就の洗合の陣に赴けば、元就めは必ずや対面をするでしょう。そのときの隙をねらい、我ら2人が同時に飛びかかり、刺し殺してしまえば、なんということはありません。

家臣アイコン

原宗兵衛

そのときにはどうか、我らの子たちに所領を賜りたく存じます。

家臣アイコン

これを聞いた義久は大変よろこび、さっそく2人の子に若干ずつの知行を与えた。


熊谷新右衛門

どんな猛々しい元就といえども、我ら2人が左右から捕えれば、よもや逃すことはあるまい。

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原宗兵衛

フフ、元就ごときを討つことなどたやすい事よ。

家臣アイコン

こうして2人は大口をはき、出かけて言ったのであった。


---元就の陣営---

熊谷と原の2人は洗合に着いて降参の旨を伝えると、案の定、元就はすぐに対面した。その日は降人(=降参したもの)が3000余人もあって、2人もまたその中に混じって元就の前に出た。しかし、予想に反して上段の間には元就父子3人が着座しており、次に福原・桂・児玉以下の毛利家臣らが20余人も並んでいたのである。

2人は元就につけ入る隙も見当たらず、ただお辞儀をするだけで退出したのであった。


毛利元就アイコン

元就

今日の降人のうち、5・6人目に出てきた者は疑わしい。きびしく番人をつけておくのじゃ。


元就はこう言って警固の者を数人置いた。そして2人は何もできず、警固の隙をうかがって富田城に逃げ帰った。


---月山富田城---

2人が富田城に戻ると、義久から結果をたずねられた。


熊谷新右衛門

そ、それが・・・。かくかくしかじかで・・・。

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事のいきさつを説明し、しまいには・・・


原宗兵衛

元就は人間とは思われません。どうも神の化身ででもございましょう。。

家臣アイコン

と、両人は語ったのであった。






元就の「三本の矢」の教え(1571年頃?)


これは中国の覇者となった毛利元就が死の間際、嫡男・毛利隆元、二男・吉川元春、三男・小早川隆景、孫・毛利輝元ら子供たちを一同に集めて語ったときの話である。


━━ 元亀2(1571)年、吉田郡山城 ━━


毛利元就アイコン

元就

お前たちの衰えた武勇で天下を望もうとしても無理じゃ。。

ハァ・・ハァ・・・・。よいか?わしの武威を手本とするのじゃ。

毛利家は中国、吉川家は山陰、小早川家は筑前・築後・豊前をしっかりと治め、三家が互いに支え合って行くのじゃ。


そして、元就は矢を取り出すと、子供たちに1本ずつ矢を渡した。


吉川元春

??

吉川元春アイコン

毛利元就アイコン

元就

それをへし折ってみるのじゃ。


子供たちはそれをいとも簡単に折ってみせた。すると今度は子供たちに3本ずつ束になった矢が渡されたが、誰一人としてこれを折ることはできなかった。


毛利元就アイコン

元就

フフフ。どうやらその束になった矢を折るのは無理なようじゃな。お主ら、わしの言いたいことはわかるな!


二男・元春

吉川元春アイコン

三男・隆景

!!

小早川隆景アイコン

孫・輝元

うん?

毛利輝元アイコン

毛利元就アイコン

元就

・・・そういうことじゃ。

この矢1本であればたやすく折れる。しかし、このように3本束ねるとそう簡単に折れるものではない。お主たちはこのことを肝に命じ、心をひとつにして仲よくし、決して仲互いするではないぞ!


すると、これを聞いて三男・隆景が前にでて言った。


三男・隆景

何事も欲から生じることでございます。欲を捨て、義を守ったならば、我ら兄弟が喧嘩することはございません。

小早川隆景アイコン

毛利元就アイコン

元就

そうかそうか!!隆景のその言葉。いつまでも忘れるでないぞ!


と、元就は大いに喜んだ。すると今度は嫡男・隆元の子である輝元がさらに教えを請うべく、元就にたずねた。


孫・輝元

お祖父様!それがしにも何かお教えください!

毛利輝元アイコン

毛利元就アイコン

元就

・・・お前はわしに対するのと同じように、2人の叔父に対しても同様によく耳を傾るのじゃ!

さすれば、わしの業を守り続けることができるじゃろう。。


こうして子供たちに教訓を残した元就はこの世を去ったのであった。


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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。

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