藤堂高虎と徳川家康…譜代並の破格の扱いをされた高虎と家康の深い絆の物語

今治城にある藤堂高虎公像
今治城にある藤堂高虎公像
 徳川家康とその家臣といえば、結束力の強さがよく話題にのぼる。とりわけ、家康の幼少期からともにいた譜代の家臣たちとの絆の深さは、創作ふくめ何度も取り上げられたテーマだ。

 本多忠勝のようにその勇猛さでもって戦端を切り拓いた者もいれば、榊原康政のように知略の面から家康を支えた者もいる。大河ドラマ『どうする家康』においても、譜代の家臣らがしばしばその身を挺して家康を守るシーンが描かれ、家康に対する忠義心、絆の深さが強調されている。

 そうした譜代の家臣らの活躍ばかりが注目されがちだが、ずっとあとになって家康の家臣となったいわば外様のうち、譜代の家臣と同等、いやそれ以上かもしれないほど、家康に尽くし、家康からも深い信頼を寄せられていた武将がいた。
 
 のちに32万石の伊勢・津藩主となる、藤堂高虎である。

毀誉褒貶激しい藤堂高虎の人物像

 家康と高虎の関係性を語る前に、藤堂高虎という人物と近年の評価について、まずは触れておきたい。

 近江国犬上郡の藤堂村(滋賀県甲良町)の有力郷士の息子として生まれた藤堂高虎は、いっぱしの侍になることを夢見て裸一貫・槍一本で戦国の世を渡り歩き、最終的に徳川家の武将となると、伊予今治藩・津藩の初代藩主の座にまで就いた。

 まさしく、たたき上げの戦国武将である。

 体格は6尺2寸(約190cm)の大男。その恵まれた体格もあって賤ヶ岳、小牧・長久手、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)など、あまたの重要な合戦に参加し、戦功を上げた。

 そうした武勇はもちろんだが、何よりも今治城、宇和島城など各地に15もの名城を築き上げた「築城の名手」としての評価が高く、彼が発明した層塔型天守は、のちに城設計のスタンダードとなった。

 今でこそ異能の武将として評価されている高虎だが、つい最近まで、人物としての評価は散々なものだった。詳しい生涯については割愛するが、頭角を現すまで7度も主君を変えたこと、豊臣家に重用されておきながら関ヶ原で徳川方についたことが、歴史ファンの心証を著しく悪くしていたからである。

 とりわけ、歴史小説の大家・司馬遼太郎がその作品群の中で、高虎を「ゴマすり上手の世渡り上手」といった形で辛辣に描いたことが、低評価の決定打となった。そのため、高虎を「忠義心にあふれた武将」というと、眉をひそめる人は未だ少なくない。

 確かに「忠君、二君にまみえず」という美学にのっとれば、ほめられたことではないだろう。しかしそれは儒教が広まった江戸時代以降の通念である。

 戦国時代では、高虎のように名門武家出身ではない者が仕官の口を求める「渡り奉公人」は大勢いたし、たとえ大名でも生き残りを賭けて従属先を変えるのは、ごく普通にあったことだ。

 もちろん、従属先を替えれば信頼も落ちるので全く問題がないわけではないが、未来が見えない戦国の世において、主君替えはむしろ重要な処世術にほかならない。転職・副業が当たり前の現代ならば、高虎の生き方にむしろ感銘を受ける人が多いのではないだろうか。

 一般の知名度がいまひとつなのは、後世のそうした変節漢としてのレッテルを貼られたことも大きいだろうが、何より彼自身が「自分は支える側」と、表舞台から一歩引いた道をゆくことを好んだから、と見る向きもある。

 若い頃の高虎は血気盛んで功名心にあふれていたが(そのために主を何度も替えるハメになってしまうのも事実だが)戦国の世にもまれ、苦労を重ねるうちに、自分が天下人の器ではないこと、それよりも置かれた立場で才覚をどう発揮していくかのほうに考えをシフトしていったことが、彼の人生からうかがえるからだ。

 考えてみれば、外様からぐんぐんと出世する彼を疎まぬ者はいないはずで、力をつければ上から危険視されてもしかたない。それでも家康が死去したのちも藤堂家が残ったことを考えると、高虎が誠実さをもって徳川家に仕え、目立たず、奥ゆかしく行動したからだろう。

 そしてそんな彼を心から理解し、武勇と築城の才をいかんなく発揮させたのが、徳川家康だったのである。

家康と高虎 その1 〜出会い〜

 家康と高虎の初めての出会いは、小牧・長久手の戦いののち、家康が豊臣秀吉からの再三の呼びかけに折れ、臣従の意を示すために上洛したことがきっかけとなる。

 藤堂家の伝記『藤堂家覚書』には、その時の高虎と家康の出会いについて、次のようなエピソードが残されている。

 このころの高虎は、秀吉の弟・秀長の臣下として日々働いていた。秀長は高虎の武勇はもちろん、ずば抜けた建築の才をことのほか愛でており、たびたび高虎に城や屋敷づくりを任せていた。

 上洛する家康をもてなすよう兄・秀吉から命じられていた秀長は、家康の宿泊所を用意するべく、新たな屋敷造営を高虎に任せることとしたのである。

 秀吉最大のライバルであり、今やどの大名にも勝る勢いの家康を迎える宿館となると、さしもの高虎も相当な気構えが必要な大仕事であった。しかも、関白秀吉自ら屋敷を縄張り(設計)し、図面を渡してきたのである。

 高虎は恐縮しながらも秀吉設計の図面を確認すると、眉間にしわをよせた。設計そのものに誤りがあるわけではない。問題は、想定された屋敷が公家風の華奢なつくりだったことだ。

「これでは、あまりに危うい」

 そう直感した高虎は、屋敷のまわりに敵の侵入を防ぐための外構えと外門を設置したいと考えた。しかしそのために追加の築造費用を申し出れば、秀吉の不興を買ってしまう。主君・秀長に咎が及ぶかもしれない…。そこで高虎は、追加費用は自己負担で補うことを心に決めると、独断で設計図を作り替え、作事にあたった。

 かくして家康のための屋敷は、当初の予定よりも数段、厳重なつくりとなって完成した。

 入京した家康は、案内された屋敷に入りさっそく見て回ると、秀吉から聞いたような公家屋敷ではないことに気づいた。不審に思い、作事奉行・高虎を呼びだすと、

「太閤殿下より縄張り図を拝見したが、どうもそれとは違う。屋敷というより、まるで城のようだ。これはなにゆえか、わけを伺いたい」

 秀吉の臣下である秀長のそのまた臣下であり、現状1万石にすぎない高虎がしたことに、家康は何かを感じ取ったのかもしれない。高虎は意を決し、こう返答したという。

高虎:「内府(家康)様は、もはや並ぶべくもない実力者のおひとり、太閤殿下第一のご家来でございます。そのようなお方がお住まいになられるのであれば、これくらいの規模になるのは当然のことと存じます。
それに太閤殿下のご威光により、もはや京洛、天下安泰とはいえ、不測の事態が起きぬとも限りませぬ。万が一、この屋敷が手薄だったばかりに内府様に御不慮あれば、当然、主君秀長の不行き届き。ひいては関白殿下のご面目にも関わること。
そのため、全てそれがしの一存にて作り替えましてございます」

 家康は目を丸くした。

家康:「費用はどうされたのだ」

高虎:「私財にてまかないました。全て、我が一存でやったこと。ご不満であれば、どうぞお手討ちになさってくださいませ」

家康:「……そなたのような陪臣の身が、そのような重き負担を。我らのために」

 家康は高虎の主君を思う心、相手への細やかな気配りに、たいそう感激したという。

 これがふたりの初の対面であった。以後、家康と高虎は折に触れて直接文を交わし、親交を深める間柄となったのである。

 高虎は家康という人物を知るにつれ、いずれは家康に仕えたいと思う心が芽生えたと考えられる。とはいえこの頃の高虎の忠義心はもっぱら秀長にあり、家康としてはそうした高虎の義理堅い性格もよく理解していたようだ。

 しかし秀長、そして秀長の跡継ぎの秀保があいついで死去し、秀吉が欲望をむきだしにして苛烈な粛清、朝鮮出兵をし始めると、高虎は自分の身の置き所を模索するようになった。その様子を知ってか知らずか、家康は何くれと高虎に目をかけていたことが随所にうかがえる。

 中でもよく知られるのが、秀吉が死去し朝鮮での戦闘が頓挫した際、兵たちを撤退させる指揮官として高虎を推挙したことだ。撤退戦は非常に難しく、しかも海上での戦いとなると、相当な手練れ、かつリーダーシップがなければ務まらない。これまで高虎は船奉行として大いに活躍していた戦歴があったことを、家康はよく知っていた。

 高虎は家康の期待にこたえるべく奮戦。見事、日本の諸将たちを帰国させた。この中には豊臣家重臣の加藤清正、福島正則がおり、ふたりは高虎の決死の救援にいたく感謝したという。

 そして彼らふたりと高虎、そして家康とのつながりが生まれた。これが豊臣家滅亡の布石となったのは言うまでもない。

家康と高虎 その2 〜家康暗殺の危機を救う〜

 秀吉が没すると、豊臣家の五大老筆頭であった家康の存在感が増していく。豊臣家の許可なく他家と婚姻関係を結ぶといった家康の勝手なふるまいに誰よりも激怒していたのが、秀吉お気に入りの将・石田三成だった。豊臣家の御為と息巻く三成は「家康を断罪すべし」とあからさまな態度を見せていた。

 しかし当の三成も、先の朝鮮出兵であれこれと諸将たちに命令を下すだけで出陣もしなかったことや、官僚らしい頭でっかちな性格が、武闘派の加藤清正・福島正則らの悪感情をあおっていた。

 それでもなんとか豊臣政権の平穏を保たせていたのが、人望の厚い秀吉の古くからの盟友・前田利家だった。しかしその利家も病に伏せっており、いよいよ危ないとなっていた時のことである。

 『慶長軍記』によれば1599年3月10日、家康は利家を見舞おうと船に乗って大坂にやってくると、船着き場に女駕籠があり、藤堂高虎が家康を迎えた。

家康は高虎に意図を問うと、

高虎:「石田三成が内府様を襲うという噂があります。内府様の駕籠には私が身代わりとして入りますゆえ、内府様はこの駕籠へお乗りください。そして前田様のところにはゆかず、我が屋敷にお泊まりください」

 驚愕の知らせを受け、家康はその通りにした。周囲を警戒しながら高虎の屋敷に入り、そこで一夜を過ごした。屋敷には加藤清正や福島正則、黒田長政らも護衛に駆けつけていた。

 彼ら歴戦のつわものがにらみをきかせていては、手の出しようがない。密かに家康暗殺をもくろんでいた三成は、やむなく計画を断念したという。難を逃れた家康は、高虎の機転と心がけに感謝したのだった。

 三成と家康の軋轢が頂点に達し、かくして勃発した関ヶ原の戦いで、高虎は家康のいる東軍に入った。高虎軍は三成の盟友・大谷吉継軍と激突。これを壊滅させるという大戦功を上げた。家康は喜び、戦後、高虎に伊予国今治20万石を与えたのだった。

 高虎が今治藩主となった瞬間である。

今治城
今治城

 家康と高虎の関係性はますます深まり、家康は膳所(ぜぜ)城はじめ伏見城、江戸城の改築など、大がかりな縄張りを次々と高虎に命じた。城の設計は、国家の重要機密。それを任されるということは、それだけ信頼が厚いという証だ。

 さらに家康の跡継ぎである秀忠も高虎をたいそう信頼し、たびたび高虎を茶会に呼び寄せ話をさせたり、重要な城の縄張りを任せたりした。ちなみに秀忠の娘・和子がのちに後水尾天皇の女御として入内となったのも、高虎の功績のひとつである。

 そして豊臣家との決戦・大坂の陣でも戦功を上げた高虎は27万石となり、外様ながら譜代並として、破格の扱いを受けることになったのだった。

家康と高虎 その3 〜たとえ来世でもともに〜

 ここまででも家康と高虎の縁の深さは十分お分かりいただけたかと思うが、ふたりの絆を感じさせるエピソードを、最後にもうひとつご紹介したい。

 それは1616年、家康が病に伏し、いよいよ黄泉の国へ旅立とうとするころのことだ。家康は高虎を枕元へと呼び出し、これまで存分に尽くしてくれたことの礼を述べると、ぽつりとこう言った。

家康:「そなたは日蓮宗で、わしは天台宗と、宗派が違う。あの世で会えることがないやもしれん。それがつらい」

 高虎は涙を浮かべ、しっかりと家康の手を握ると、

高虎:「あの世でも来世でも、大御所様のもとでお仕えしとうございます。今よりすぐに、私は宗旨替えをして、大御所様と同じ天台宗となりまする。私もまもなく後を追いますゆえ、どうぞ、次の世でも変わらずお引き立てくださいませ」

そう言ってすぐに天海僧正に頼み、日蓮宗から天台宗に改宗したという。(『西嶋八兵衛留書』)

 高虎の変わらぬ忠義心を受けてか、家康は側近の堀直寄を呼ぶと、

家康:「これから先、国に大事あらば、高虎を先鋒とせよ。二番手には井伊直孝、そしてお前は横やりとなって敵を攻めるのだ」

と命じたという。(『忠勤録』など)

 家康が死去すると、遺体はいったん久能山東照宮に、そして日光東照宮へと移され、葬られた。家康の遺言により、日光東照宮の縄張りは高虎が担当した。

 こうした高虎の長年の労をねぎらい、2代将軍秀忠は高虎に5万石を加増。高虎は32万石の大大名となったのである。

おわりに

 高虎は3代家光の時まで江戸に出仕し、家康死去から14年後、家康と同じ75歳で生涯を閉じた。

 土豪の身から並々ならぬ苦労をかさね、32万石の藩主となった高虎。その存在は世にあまり知られずとも、家康との間に築かれた確固たる信頼関係は、間違いなく世の中を動かした。

 時流をよみ、尊ぶべき主君を持ち、心配りを忘れず、己の才覚でもって世を渡り歩く精神は、彼の遺言をまとめた『高山公遺訓二百カ条』にもよく表れている。彼の思いは臣下のすみずみまで行き渡り、そのおかげをもってか、藤堂家は江戸幕府が倒れたのちも、命脈を保つことになるのである。


【主な参考文献】
  • 藤田達生『江戸時代の設計者 異能の武将・藤堂高虎』2006年、講談社現代新書
  • 横山高治『藤堂高虎』 2008年第8刷、創元社
  • 『高山公遺訓二百カ条』(財)伊賀文化産業協会
  • 童門冬二『二番手を生ききる哲学』2002年 青春出版社

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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