丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン

信長の猛攻に立ち向かった公家大名、北畠の城!「大河内城」の歴史について

帯刀コロク
 2020/11/18

大河内城跡の石垣
大河内城跡の石垣

戦国史において織田、といえばすなわち信長を指す場合が圧倒的ですが、実は彼には多くの子どもがいました。 息子だけでも歴史上5人が確認されており、それぞれに戦国の世のならいに従い激動の人生を歩みました。

なかでも系図上の次男にあたる「織田信雄(のぶかつ)」は、どちらかというと武将に向いていないという評価をされながらも、最終的には徳川の家臣としてその天寿をまっとうしました。

そんな信雄は、実は政略から幼少期に公家である北畠氏の養嗣子となっています。 その時入城したのが伊勢の「大河内城」で、今回は幼い織田信雄が過ごしたこの城にスポットライトを当ててみましょう。

大河内城とは

大河内城は現在の三重県松阪市大河内町城山に所在した平山城で、伊勢国司・北畠氏歴代の居城として知られています。

標高約110メートルの丘陵上に設けられ、北方を矢津川、東方の丘裾を坂内川、西と南を深く切れ込んだ谷に守られるという天然の要害となっています。

また、後に和歌山街道と呼ばれ、現在の国道166号線にほぼ沿うとみられるルートなどを見下ろす交通の要衝でもありました。

大河内城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

城域は南北約320メートル・東西約360メートルの広さをもち、本丸は約30×60メートルの台状地にあったと考えられています。

その西側には深い堀切を挟んで西の丸があり、同じく約30×35メートルの台状地となっています。 東側の一段低くなっている平坦地は二の丸とされ、馬場や御納戸などが設けられていました。

各曲輪からのびる北方の丘陵端には二重・三重に堀切が備えられ、大河内城の防御をより強力なものとしています。 さらに周囲には蔵屋敷・火薬庫・櫓・出丸等を設け、戦う山城としての十分な機能を有していたことがうかがえます。

築城年代は定かではありませんが、応永22(1415)年には南朝方の伊勢国司・北畠満雅が北朝の足利方との戦闘に備え、弟の北畠顕雅をここに入城させています。

正長元(1429)年、岩田川の戦いで北畠満雅が討死したことにより、以降の職務を顕雅が代行。顕雅の子孫は北畠氏庶流の大河内御所を称して有力拠点のひとつとなります。

永禄12(1569)年、織田信長による南伊勢侵攻に際し、前伊勢国司として影響力を行使していた北畠具教が霧山城から大河内城に拠点を移して籠城戦を展開。9倍に近かったともされる差の兵力を相手に、一か月以上にわたって持ちこたえました。

『信長公記』によると、信長は北畠具教らが立てこもる大河内城の周囲を自ら調査し、東方の山に陣を据えて城下を焼き払って戦闘を開始したことが記されています。

また、西の搦手口から3隊に分かれて夜襲を試みたものの雨のせいで鉄砲隊が機能せず、20人以上が討死するという激戦の様子なども伝えられています。しかし、やがて織田方に有利な条件をのむ形で和睦し、信長次男の織田信雄が養嗣子として北畠家へと入り込むことになります。

天正3(1575)年、北畠具豊と名乗っていた信雄は北畠の家督を相続し、本拠を度会郡の田丸城へと移転。このことにより、難攻不落の堅城として知られた大河内城は以降廃城となりました。

公家大名・北畠具教の本拠

大河内城代々の城主であった北畠家は、「伊勢国司」とあるように公家という立場でした。

戦国時代には少数ながら、武力をもった有力な公家が大名化して統治を行った例があり、これを公家大名などと称しています。 北畠家はそんな公家大名の代表例であり、先述の北畠具教は特に剣術を好んで研鑽を積んだことが知られています。

具教が師として教えを請うた武芸者の一人に、鹿島の太刀で知られる新当流の塚原卜伝がいました。 卜伝から剣術を授かった者としては室町十三代将軍・足利義輝もおり、その点で具教は義輝と兄弟弟子の間柄といえるでしょう。

また、新陰流の上泉伊勢守信綱にも師事しており、当代一流の剣術者との親交があったことがわかります。

これらのことからも推測されるとおり、北畠具教という人物は公家でありながら自ら剣を修める武芸者でもありました。

北畠家がその最後に経験した織田方との戦闘でも、具教が指揮官の役割を果たしたことが想定され、そうした武人としての戦略に基づいて大河内城を運用したと考えられます。

地の利からくる城としての機能、そして優れた指揮官の存在。これらが合わさった大河内城は、難攻不落の言葉通りの能力を発揮したのでした。

まとめ・略年表

およそ武将に向いていないとされた織田信雄でしたが、一方では能の名手として知られていました。 これはやはり、公家である北畠家での暮らしを通して身につけた部分が大きいと考えられるでしょう。

戦下手であったことが信雄の天寿を全うさせたといえば言い過ぎかもしれませんが、公家大名たる北畠の家風は少なからぬ影響を与えたのではなかったでしょうか。

※参考:略年表
応永22年
(1415年)
南朝方伊勢国司・北畠満雅の弟・北畠顕雅が、北朝足利方との戦闘に備え大河内城に入城
正長元年
(1429年)
北畠満雅が岩田川の戦いで討死
永禄12年
(1569年)
織田信長の南伊勢侵攻に対し、前伊勢国司・北畠具教が大河内城を本拠として籠城戦を展開。織田信雄に北畠の家督を譲る条件で和睦・開城
天正3年
(1575年)
信雄が北畠の家督を継ぎ、南伊勢統治の拠点を田丸城に移転。大河内城は廃城に

【主な参考文献】
  • 『大河内村史蹟名勝誌』 大河内村史蹟名勝保存会 1941
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 三重県観光連盟公式サイト 観光三重 大河内城跡
  • 松阪市HP 大河内城跡

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


  • このエントリーをはてなブックマークに追加

おすすめの記事


 PAGE TOP