「どうする家康」『徳川実紀』に見る徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見

 大河ドラマ「どうする家康」第45話は「二人のプリンス」。徳川家康と豊臣秀吉が二条城で会見する様が描かれました。では『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、この会見はどのように記されているのでしょうか。

 慶長16年(1612)3月17日、家康は二条城に入ります。騎馬・供奉の者は僅かしかいなかったようです。その後、家康は伏見城に移りました。

 同月20日、家康は織田長益(信長の弟)を大坂城に遣わし、秀頼に「近日、上洛せられ、対面あるべし」ということを伝えています。かつて、家康は織田有楽に

「秀頼と久しく会っていない。その後、成長されたはずなので、都に上り(秀頼と)対面したい。徳川と豊臣家は縁戚。両家の好が深まれば、世上の人心も和順して、天下太平の基となろう」

と伝えていたとのこと。秀頼は、慶長4年(1599)1月に、伏見より大坂に移ってからは、一度も大坂城から出ていませんでした。秀頼の生母・淀殿は、秀頼の上洛を危ぶんで、止めようとしたようです(秀頼が何者かに襲撃されることを恐れたようです)。

 しかし、北政所(秀吉の正室・寧々)が、家康の意向に背けば、どのような事態になるかと、淀殿と秀頼に説いたことから、淀殿も渋々、納得したとのこと。そして、2月28日、家康と秀頼は二条城で対面します。

 秀頼は唐門外で下乗。家康は玄関前まで、秀頼を出迎えます。会見には豪華な料理が出されるはずでしたが、それだと落ち着かず、時間を要するとして「酒」「吸物」のみが提供されました。「三献の祝」が行われ、先ず、家康の盃が秀頼へ、続いて、秀頼の盃が家康に回されました。その際、お互いに贈り物をしています。家康から秀頼には、太刀・脇差・鷹・馬が進呈されました。

 秀頼からは、刀剣・脇差・金子などが家康に進上されたのです。秀頼に供奉していた加藤清正は饗席につかず、秀頼の側を離れなかったとのこと。「三献の祝」 が終わると清正は

「大坂の母君(淀殿)もお帰りを待っておられるでしょう。はや、お暇を」

と秀頼を促したので、家康も

「いかにも」

と秀頼に帰ることを勧めたといいます。家康は秀頼を玄関まで送り、会見は和やかに終わりました。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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