「蛮社の獄」は仕組まれた事件だった!? 蘭学者を憎んだ ”妖怪” の罠とは

 天保10年(1839)に起こった蛮社の獄(ばんしゃのごく)。それは高野長英ら、日本を憂う蘭学者の未来を無残にも断ち切る、言論弾圧事件だった。鎖国政策をとっていた日本に対し、外国の圧力が少しずつ強くなっていた時期、幕府の強硬な姿勢を良しとしない蘭学者は少なくなかった。有能な彼らを疎ましく思う幕府は、激烈な言論弾圧を実行したのである。

 今回は、蛮社の獄へ至った背景や当事者たち、その後の影響について解説しよう。

蛮社の獄はなぜおこったのか

 蛮社の獄が起こる数年前から、日本近海では鎖国政策を脅かすような事件が起こり始めていた。

異国船打払令

 天保10年頃は幕末というにはまだ早く、だがすでにその予感を感じさせるような外国船来航に関わる事件が起こりつつある時期であった。日本近海へは、海外の船がたびたび来航する。それに対し幕府は、「異国船内払令」という愚行ともいえる命令を出している。怪しい異国船を見かけたら問答無用で大砲をぶっ放して打ち払えという乱暴な命令。幕府は、鎖国政策を強化しようしていた。

蘭学者の増加

 8代将軍吉宗による禁書令緩和・蘭学などの海外知識導入の解禁以来、海外の学問を学ぶ者が増えていた。

 例えば西洋の医術研究が実を結んだひとつに杉田玄白らが翻訳した『解体新書』がある。蛮社の獄で逮捕された高野長英や渡辺崋山も蘭学者である。海外の知識をもっと学び、対等に付き合えるようになるべきと考えていた彼らにとって、幕府の姿勢は大いに不満を感じるものだったのだろう。そんな時、ある事件が起こった。

モリソン号事件

 天保8年(1837)アメリカの商船・モリソン号は、保護した日本人漁師をのせて日本に来航してきた。モリソン号の目的は、猟師を送り届ける代わりに日本と通商することであった。

 実は日本の漁師が漂流し、外国船に保護されるという事件は、たびたびあった。ジョン万次郎ももとは土佐の漁師であったし、大黒屋光太夫もロシアに漂流し、のちに帰国を果たした人物である。

 幕府はモリソン号を砲撃し打ち払う。異国船打払令に従ったのだ。モリソン号は、浦賀への来航をあきらめ、鹿児島湾へ向かった。薩摩では一旦上陸できたものの、漂流者の帰還とアメリカとの通商という交渉は成功せず、結局再び砲撃を受けたため引き返している。この事件の後、幕府は、漂流民はオランダ船による送還のみを認めるという方針を決めた。

 この幕府の態度を非難した中心人物とされたのが、蘭学者である高野長英と渡辺崋山だ。

蛮社の獄へ

 天保10年(1839)、幕府批判の罪で高野長英・渡辺崋山以下10名ほどが逮捕された。蛮社の獄である。中でも重要人物と目されたのが、高野長英と渡辺崋山だった。

高野長英

高野長英の肖像(椿椿山 筆。出典:wikipedia)
高野長英の肖像(椿椿山 筆。出典:wikipedia)

 モリソン号の事件を聞いた高野長英は、すぐに『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を書き上げる。この書は非常な反響を呼び、『夢々物語』や『夢物語評』などの続編が書きあげられた。その評判に幕府は危機感を覚え、長英逮捕につながる。

 しかし長英は、この書の中で、一度は幕府の政策を肯定し、その後交易の要求をはねつけた上、砲撃したことへの憂い(外国からの報復)を表しているだけである。つまり幕府の打ち払い行為を直接批判していないのだ。また、長英がこの書を匿名で書き上げていることからも、幕府批判が自身にどのような影響をもたらすのかを十分に理解し、警戒していた。

 ということは、長英が幕府批判をしたという容疑に対し、『戊戌夢物語』だけでは非常に弱い証拠だったのである。

渡辺崋山

渡辺崋山の肖像(出典:wikipedia)
渡辺崋山の肖像(出典:wikipedia)

 崋山も幕府の海防への批判や『慎機論(しんきろん)』を書いたが、匿名で出すことができなかったため、未完となっている。しかしその未完の書が、のちに蛮社の獄へとつながる重要な証拠書類とされてしまった。

蛮社の獄はどのように終わったのか

 逮捕された人々の判決は以下の通りとなっている。なお、獄死とあるのは拷問で死んだものと考えられている。

逮捕者判決
高野長英(蘭学者・医者)終身刑
渡辺崋山(田原藩藩士)田原藩で蟄居
順宣(無量寿寺住職)押込(座敷牢などに幽閉されること)
順道(順宣の息子)未決。獄死。25歳
山口屋金次郎(旅籠後見人)永牢。獄死。39歳
斎藤次郎兵衛(元旗本家臣)永牢。獄死。66歳
山崎秀三郎(蒔絵師)江戸払い。獄死。40歳
本岐道平(御徒隠居)100日押込
阿部友進(医者)100日押込
大塚同庵(蘭学者) 100日押込

 長英は、判決から4年半後に、牢に放火して脱獄。蘭書の翻訳を行いながら逃亡した。それから6年後の嘉永3年(1850)、江戸の自宅にいるところを捕縛され、直後に殺害されている。享年47歳。

 田原藩に護送された崋山は生活に困窮していた。それを見かねた友人が、画家でもあった崋山の絵を売って生計を助けるが、武士が絵を売って生計を立てたことに批判が集まってしまう。崋山は、藩に迷惑をかけないために自害してしまった。天保12年(1841)10月11日のことである。享年49歳。

蛮社の獄が行われた真の理由

 さて、蛮社の獄の顛末は以上である。しかし彼らが逮捕された理由、そして逮捕されたメンバーを見ると、この事件はただの幕政批判に対する弾圧とは思えない。どうも腑に落ちない部分が多いのだ。

 学者が書いたたった1冊の本で当事者を逮捕できるものだろうか? 逮捕者の中には僧侶や町人もいたのだが、彼らがどれほどの幕政批判をしたというのだろう。

 実は蛮社の獄の背景には、もっと別の思惑があったようである。ここで登場するのが、蛮社の獄を直接指揮した鳥居耀蔵(とりいようぞう)である。

“妖怪” とあだ名された鳥居耀蔵

 鳥居耀蔵(とりい ようぞう)は、蛮社の獄ののち、南町奉行となった人物である。ちなみに当時の北町奉行は「遠山の金さん」こと、遠山金四郎(影元)である。天保の改革においては、厳しい江戸市中取り締まりを行い、その手段の卑怯さ、しつこさから江戸市民から「妖怪」と呼ばれていたらしい。

 この鳥居、実家は儒学者の林家である。当時の儒学者や国学者は蘭学を学ぶ者を南蛮・蛮夷の学問を学ぶ連中「南蛮社中」と呼び、忌み嫌っていた。このあたりに蛮社の獄が起こった真相があるようだ。

鳥居耀蔵の策略

 鳥居は鎖国政策の支持者であり、蘭学者たちを憎悪しており、『戊戌夢物語』が注目されたことをきっかけに蘭学者やそれを支持する者たちを一掃しようと画策していたとみられる。

 特に鳥居が狙っていたのは、「蘭学にして大施主(蘭学普及における大きな立役者という意味らしい)」と言われた渡辺崋山であったようだ。

 『戊戌夢物語』は、高野長英が書いたにもかかわらず、長英が西洋の書物を翻訳したものを基に、渡辺崋山が書いたものであるとのうわさ話を正式に報告している。しかし、これだけで蘭学者を逮捕することはさすがに難しい。そこで鳥居は、崋山の下へ1人のスパイを送り込む。蘭学者の花井虎一である。

 花井が初めからスパイであったのか、もともと崋山のもとにいた花井を鳥居が裏切らせたのかはわからないが、とにかく崋山の行動を逐一報告させた。

 その密告の中で鳥居が注目したのが、無人島渡航計画であった。

無人島渡航計画

 ここで言う無人島とは、小笠原諸島のことである。当時の日本では、小笠原諸島の存在は知られていたが、その島をどうするかという政策はなく、ほぼ無関心の状態であった。しかし、イギリス人が入植しているという風説が流れてくると事態は変化した。

 蛮社の獄で逮捕された本岐道平は、蘭学者であり理化学に優れた技術者であり、かつ下級幕臣であった。幕府が小笠原諸島への調査開始を耳にした本岐は、崋山を調査に同行することを願い出たが却下される。

 崋山自身は、西洋人が小笠原に移住しているという噂を把握しており、無人島と西洋人への興味から同行できればという淡い期待程度は持っていたようである。

 一方、常陸国(現茨城県の大部分)にあった無量寿寺の住職・順宣と息子の順道は、無人島(小笠原諸島)へ強い興味を持ち、いつか渡航したいと願っていた。いつしか仲間が増え、無人島渡航計画の話し合いがたびたびおこなわれる。

 この中にいたのが、山口屋金次郎や山崎秀三郎、本岐、斎藤治郎兵衛ら蛮社の獄で逮捕された面々のほか、スパイ花井虎吉であった。ただし、崋山は含まれていない。

 彼らの計画は、幕府の許可を得ることが大前提であった上、資金・船・食料の用意などの計画は全く決まっていない、まさに夢物語の段階にしかなかった。そんな空想のような計画が、花井を通じて鳥居に報告される。

鳥居の暗躍

 鳥居は、無人島渡航計画を、幕府に隠れて西洋と交流しようとした確たる証拠として偽の報告書を提出する。そして、崋山もこの計画に関係していると告発するのである。

 鳥居は、崋山を中心とした蘭学者を根こそぎ葬り、かつ自分とは思想が対立していた幕府開明派の人間をも同罪だと告発し、没落させようとしたのだ。ただ幕府開明派については、幕府の再調査により対象から外されている。

 こうして蘭学者や町民たちが無実の罪で獄につながれる蛮社の獄が起きたのである。まさに“妖怪”鳥居の思うつぼとなった。

 余談だが、実は鳥居自身もその後10年もたたないうちに失脚し、明治維新による恩赦まで20年にわたる幽閉生活を強いられるようになる。許されて東京と名を変えた江戸の姿を見たとき、鳥居はこのように言ったそうだ。

「俺の言うとおりにしないから、こんなざまになったのだ」

 彼はあくまで鎖国主義が日本を守る最も有効な方法だと信じていたようだ。

あとがきにかえて 蛮社の獄その後

 高野長英が亡くなった3年後、浦賀にペリーが来航すると、世の中は大きく動く。鎖国と開国で揺れる幕府と諸国大名。幕府の力が弱まるにつれ台頭する有力大名。そして幕末、明治維新へと進む。

 長英や崋山がもう少し遅く生まれていれば、彼らも幕末の日本で活躍していたのだろうか。時代が生んだ寵児と言われる人物も多いが、時代が追い付いていなかったために歴史に埋もれた人物も多いのかもしれない。

 生まれ育った国の未来を憂い、悩み、彼らなりに行動を起こそうとする人々を、権力者はどのような待遇を与えるのか、はたまた圧力をかけるのか。その国の行く末が大きく変わる出来事は今も世界中で起こっている。

 それらの事件・戦争が歴史として刻まれる前に、おそらくかりそめの平和でしかない今に胡坐をかいている私たちは、その出来事をしっかりと見据える責任があると改めて思った。


【主な参考文献】
  • 日本史人名辞典 山川出版社 2000年
  • 詳説日本史図録 山川出版社 2021年
  • 鳥居耀蔵 松岡英夫 1991年
  • 奥州市公式HP 高野長英記念館 

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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