王朝華やかなりしころ、平安貴族男性の生きがいは恋と出世だった!

 平安時代の男性貴族の生きがいは恋と出世ですが、まずは出世が優先です。位が低くては恋愛レースの勝者にはなれませんし、出世して自分の価値を高めておかねば、恋の駆け引きレースに参戦することさえ叶いません。

平安男子の出世争い

 平安時代貴族の男は良き姫君に巡り合わんとせっせと文を書き、垣間見を楽しみ、衣に香を薫き染め、開けても暮れても恋愛遊戯にいそしんでばかりいた…のではありません。男の第一の生きがいは官位昇進を賭けた出世争いでした。

 律令制度下の官僚は、正一位から小初位下(しょうそいのげ)まで30階級に整然と分かれた官位のどこかに位置付けられます。その下には衛士や防人などの、位も与えられずに上流貴族に奉仕させられる者たちが控えています。

序列品位位階
1一品正一位
2一品従一位
3二品正二位
4二品従二位
5三品正三位
6三品従三位
7四品正四位上
8四品正四位下
9従四位上
10従四位下
11正五位上
12正五位下
13従五位上
14従五位下
15正六位上
16正六位下
17従六位上
18従六位下
19正七位上
20正七位下
21従七位上
22従七位下
23正八位上
24正八位下
25従八位上
26従八位下
27大初位上
28大初位下
29少初位上
30少初位下
※参考:律令制における位階

30階級の中でも正一位から従三位までの正・従合わせた6階級が上流貴族、正四位上から従五位下までの正・従プラス上下に分けられた合わせて8階級が中流貴族、正・従六位の上下は法的には貴族ではありませんが、世間的には下流貴族として扱われました。正七位上から下は貴族の名に値しません。

 男性貴族は一つでも上の位を望みますが、家柄が大きくものを言う平安時代、いくらあちこちに頼みまくって学問に励んでも限界がありました。10世紀政界の主要な役目は、藤原北家の関白太政大臣藤原忠平の一門で占められてしまいます。

男の悩みは恋と出世

 藤原道長は我が子が出家を願っていると聞いた時、「なぜそのような事を思うのか。官位が不足なのか、私に不満があるのか、どうしても手に入れたい女が手に入らぬのか」と聞きました。

 『宇津保物語』では息子に自死された父親がもう1人の息子に「あれは何をそれほど思いつめたのか、官位の事なら限度と言うものがあり、仕方が無いのだ」と言い、息子は「いや、出世ではなく、男は女の事で思いつめるのだ」と答えています。

 清少納言も『枕草子』で「位こそなほめでたきものはあれ」と、“位・官位”こそやはり素晴らしく値打ちのあるものだ、そんな高位に就いている男こそ立派な男だ、と認めています。

 時代の花形一族の藤原兼通・兼家兄弟の出世争いでは、兼家はまだ参議だった兄の兼通を超えて、先に中納言に出世します。しかし摂政太政大臣であった藤原三兄弟の長男伊尹(これただ)が49歳で若死にしてしまうと、逆転現象が起きます。一番官位が下だった兼通が弟を飛び越えて関白内大臣に出世、兼家は従三位の権大納言に留まります。

 兄弟の出世争いは時の天皇・円融天皇の御前で口争いをするまでになりますが、このころ兼家は妻の元を頻繁に訪れています。兼家の妻と言うのは、『蜻蛉日記』を書いた女性ですが、このころの兼家の様子を日記に「正月の人事と言うので夫は例年よりも忙しそうにしている。でもこのところ頻繁に私の元を訪れている」と書いています。

 兼家はあれこれ工作しても思い通りにいかぬ人事に時間は取られるが、それでもひと時の安らぎを求めて妻の元を訪れていたのでしょう。やがて人事も落ち着くと、兼家は再び次の出世に向けて暇も無くなり、妻は夫の夜離れを嘆きます。男の順番は1番が出世、女は2番だったようです。

緑の衣の嘆き

 出世争いは政界トップクラスの人間だけの話ではありません。六位以下の法的には貴族ではない人々の間にも争いはあります。このクラスの人間は経済的にも苦しく、それだけに出世争いは上位の人間よりも切実なものがありました。

 律令官僚もサラリーマンですから支給される俸給で暮らしを立てています。当時は米・絹・薪など食料や生活用品の現物支給で、それらを現代のお金に換算すると、正六位で年収680万円、従五位で1400万円、正五位だと2600万円、正四位だと4000万円と位階により大きな差があります。法的貴族は従五位下以上ですから五位と六位、貴族と非貴族の間には扱いに大きな開きがありました。

 六位の者は緑の上着・“袍”を着なければなりません。平安中期の人で『後撰和歌集』の撰者でもあった大中臣能宣(おおなかとみの よしのぶ)と言う歌人がいます。彼が六位で緑の袍を着ていたころの歌に

「松ならば引く人けふはありなまし袖の緑ぞかひなかりける」
『 拾遺和歌集 』

があります。

 これはその頃正月初めの子の日に行われた行事 “小松引き” に参加した時の歌です。皆でそろって野遊びに出て、長寿を願い芽を出したばかりの根付き小松を引き抜く遊びですが、歌の意味は、「小松引きの今日なら緑の小松を引き抜く人も居るだろう、同じ緑の袍を着ていても私には引き上げてくれる人も居ないよ」と嘆いた歌です。

 この歌が誰かの耳に入ったのでしょうか。その後、能宣は緋の袍の五位に、そして最後には深緋(こきひ)の四位まで出世しました。

 緑の袍を嘆いたのは能宣ばかりではありません。光源氏の息子・夕霧(ゆうぎり。『源氏物語』の登場人物)も上流貴族の子弟ですから官位も四位からスタートするはずが、父・源氏の教育方針のおかげで六位の緑の袍を着せられてしまいます。恋人・雲井の雁(くもいのかり)の乳母にまで「いくらお父様がご立派でもご本人が緑の袍ではね。姫様も最初の夫につまらない男を選ばれたものだ」と馬鹿にされます。その時に詠んだ歌が以下。

「紅の涙に深き袖の色を浅緑とや言ひしおるべき」
『源氏物語』

 意味は「貴女を思って流す血の涙で私の袖は紅に染まったのに、それを六位風情の浅緑よと貶めてよいものでしょうか」です。「言ひしおる」は「貶めて言う」の意味です。

おわりに

 大中臣能宣の他にも名だたる歌人たちが低い位に甘んじていました。『古今和歌集』の選者・凡河内躬恒、紀貫之、紀友則、壬生忠岑らもそうでした。彼らの最終位階は凡河内躬恒が従八位下、紀貫之が従五位下、紀友則が正六位上、壬生忠岑が従六位上です。大中臣能宣は出世した方です。


【主な参考文献】
  • 井上幸治『平安貴族の仕事と昇進』(吉川弘文館、2023年)
  • 大石学『一冊でわかる平安時代』(河出書房新社、2023年)
  • 倉本一宏『平安貴族とは何か』(NHK出版、2023年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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