【北海道】五稜郭の歴史 函館戦争の舞台となった西洋式城郭
- 2024/05/16
当初は外国との戦いを想定して築かれた五稜郭ですが、明治初めに函館戦争の舞台となり、旧幕府軍と新政府軍との激しい攻防戦が繰り広げられました。そんな五稜郭の歴史を詳しく解説していきたいと思います。
函館開港とともに函館奉行所が設置される
嘉永6年(1853)、アメリカ大統領の命を受けたペリーが来日し、翌年には日米和親条約が締結されました。ただし、この段階では貿易については触れられず、物資補給や艦船修理のため、いくつかの港を開くことが決められています。 最終的に下田と函館の開港が決定しますが、その裏にはアメリカ側の特別な事情がありました。捕鯨の中心が北大西洋から太平洋へ移ったこと、また東アジアから後退しつつあったロシアの隙を縫うように、イギリスとフランスが進出してきたからです。
そのような状況の中、幕府は函館開港に際して、松前藩領だった函館の周辺地域を直轄地としました。そして安政元年(1854)には、勘定吟味役だった竹内保憲、目付の堀利熙が函館奉行に任命されています。
当初の函館奉行所は、現在の元町公園付近にあり、松前藩の旧函館奉行所があてられていました。ちなみに「函館」という地名ですが、もともとアイヌ語でウステン(湾の端という意味)と呼ばれていたものの、室町時代に河野政通が、箱型の方形館を築いたことから名付けられたそうです。
函館奉行の任務は多岐にわたります。同地における外交問題の処理や、居留民の保護や治安維持、さらに蝦夷地の警備などが割り当てられました。必然的に多くの奉行所要員を抱え込むことになります。
また、従来の施設が手狭だったこともあり、新しい奉行所を設置する機運が高まってきたようです。
多額の費用を投じて五稜郭が築かれる
二人の奉行は、まず幕府に函館防衛のための意見具申を行いました。それは大砲を据え付ける台場の新設と改良に関するものです。当時、函館にあった旧式大砲では、外国船が搭載する新式砲に太刀打ちできませんでした。函館の台場を訪れたアメリカ人などは、「我らが大砲を撃てば、函館の町など粉みじんになるだろう」と評したほど。
具申を受けた幕府ですが、苦しい財政状況もあって巨額の経費を捻出できません。そこで重要箇所から申し出るよう函館奉行に命じました。奉行たちは熟慮したうえ、亀田役所(五稜郭)・弁天岬台場・築島台場・などの築造を上申します。
それは20年に及ぶ継続事業となり、総額で42万両あまりが計上されました。現在の貨幣価値に換算すると、80億円近くにのぼる巨大プロジェクトとなったのです。
まず、海上堡塁となる弁天岬台場が着工し、続いて安政4年(1857)から五稜郭の工事が始まりました。ちなみに五稜郭はあくまで通称で、正しくは「亀田役所土塁」と呼ばれています。
設計は幕府の洋学者・武田斐三郎(たけだ あやさぶろう)が担当しましたが、五稜郭を考案するにあたり、ヨーロッパの兵書や築城書を参考にしたそうです。
当時、火力の発達によって、従来の日本式城郭では実戦に適応しないことがわかっていました。そこで武田は5つの突き出した稜堡を複合させることで、敵に十字砲火を加えられる城郭を設計します。
ただし、この築城方式は16~17世紀のヨーロッパにおいて流行したもので、デンマークの要塞カステレットや、1572年にアントワープを描いた絵図でも確認できますが、決して最先端の技術ではありませんでした。大砲が全盛を迎えた当時では時代遅れとなり、すでに陳腐化していたのです。
おそらく勉強家だった武田は、ヨーロッパの書籍のみを参考に設計したのでしょう。それでも五稜郭築造という巨大プロジェクトを推進したのですから、その頭脳と知識には驚かされるばかりです。
ちなみにヨーロッパの堡塁ですと多くのレンガを用いますが、洋式建材の調達が難しかった当時では、代用品を用いるしかありません。レンガの代わりに土塁や石垣で処理されるなど、和洋折衷の工夫が見られます。
延べ9年を費やした五稜郭の築造にあたっては、最盛期で6千人の人足が従事したとされ、函館の繁栄に大きな影響を及ぼしました。また人口が激増したことで、湯屋や料理屋などが軒並み繁盛したそうです。
五稜郭は元治元年(1864)に竣工し、函館山の麓にあった奉行所が移されています。実際に完成するのは2年後ですが、その面積は18万平方メートルに及び、周囲は5つの稜堡に加えて幅30メートルの堀で守られました。
大手には三角形の半月堡が設けられ、日本式城郭の馬出と同じ機能を持っていたようです。城内には奉行所のほか、役宅や同心長屋も建てられますが、攻撃目標になるような高い建物ではありませんでした。
函館戦争がはじまる
幕府が終焉を迎えたのち、明治新政府が蝦夷地を統治・経営することになります。そして侍従・清水谷公考(しみずだに きんなる)が函館へ送り込まれ、五稜郭の引き渡しが行われました。城内に設けられた裁判所は函館府となり、清水谷が函館府知事に就任します。ところが明治元年(1868)10月、江戸から脱走した榎本武揚率いる旧幕府軍が、8隻の艦隊とともに内浦湾に現れました。そして4000人が上陸を果たし、函館目指して進軍してきたのです。
榎本が蝦夷地を目指した理由、それは路頭に迷う旧幕臣たちを救済し、もう一つの政権を樹立することにありました。蝦夷地を確保し、徳川家に連なる血統者を迎え入れることで、内外に独立勢力として認めさせる意図があったのでしょう。
しかし、榎本の要望は虫が良すぎたようです。使者に嘆願書を持たせて派遣するも、反発した清水谷は迎撃する構えを見せてきました。程なくして戦闘状態に入ると、防戦が難しいと悟った清水谷は、軍艦に乗って青森へ逃げてしまうのです。
こうして函館は旧幕府軍によって占拠。さらに勢いに乗った旧幕府軍は松前城を陥落させ、12月には五稜郭において函館政権を発足させました。アメリカにならって政府閣僚が選挙によって選ばれ、榎本が総裁、大鳥圭介が陸軍奉行、土方歳三が陸軍奉行並になるなど、統治体制を整えていきます。
また榎本は、函館へ入港してきたイギリス・フランス両艦の艦長に、函館政権を認めてくれるよう新政府への嘆願書を託しました。確かに嘆願書は取り次がれますが、そんなものを新政府が認めるはずがありません。冬季の進攻は難しいため、翌春を期しての函館征討が決定されています。
そんな中、函館政権にとって不幸が相次ぎました。まず新鋭艦の開陽丸が江差で座礁し、救援に赴いた神速が大破したうえ沈没。さらに庄内へ向かった長崎丸までが、暴風によって沈んでしまったのです。
海軍力の半数近くを失った函館政権にとって、蝦夷地の防衛は急務でした。そこで陸軍2800のうち、800を五稜郭の守備兵として配置し、残りを各地に分散して配備に就かせます。いっぽう海軍は回天丸・蟠竜丸をはじめとする5艦を函館港と室蘭港へ配しました。
また五稜郭の北東に「四稜郭」を新たに築き、千代ヶ岱台場や弁天岬台場などを強化しています。
新政府軍の砲撃を受ける五稜郭
翌明治2年(1869)4月8日、ついに新政府軍の第1軍1500が江差北方の乙部村へ上陸し、3隊に分かれて進撃を開始しました。海上の軍艦からも砲撃が加えられ、早くも17日には福山城が陥落しています。さらに第2軍600、第3軍3000が相次いで上陸し、木古内・二股などの防塁を次々に破っていきました。
やがて函館へ侵攻した新政府軍は、5月15日に弁天岬台場を、翌日には千代ヶ岱陣所を降伏させ、いよいよ五稜郭の攻略に取り掛かります。
まず海上の甲鉄艦から70ポンド砲が発射され、城内の建物が次々に破壊されました。そもそも五稜郭は、海岸からわずか3キロしか離れていないため、射程が4キロを超える砲弾を受ければ、ひとたまりもありません。恐慌をきたした将兵の脱走が相次いだといいます。
次いで新政府軍参謀・黒田清隆が五稜郭へ軍使を派遣し、このような提案を示しました。
これは余裕を見せつけた上での、明らかな降伏勧告でした。
こうなると函館政権の敗北は決まったようなもの。榎本は自決を考えますが、周囲の者に止められて断念しています。そして他の幹部たちと相談したうえで、潔く敵の軍門に下る決意を固めました。5月17日、榎本は黒田と会見して降伏する旨を伝え、ここに停戦が成立しました。
のちに黒田の尽力によって、首謀者や幹部ら大半の者が罪を許され、開拓使などの職を得ています。榎本もまた開拓使を経て対ロシア外交の全権を担い、さらに多くの大臣職を歴任しました。
函館戦争終結後、再び函館府が蝦夷地を統治しますが、五稜郭の建物がほぼ破壊されたことで、拠点として使われることはなかったようです。程なくして函館府も廃止となり、開拓使本庁が発足します。
明治4年(1870)になると、開拓使本庁は函館から札幌へ移転し、五稜郭内に残っていた建物は、兵糧庫を除いて解体されました。
大正2年(1913)、陸軍省が五稜郭跡を公園として貸し付けることに同意し、広く一般に開放されたといいます。大正11年(1922)には国の史跡として指定、戦後の昭和27年(1952)には特別史跡の指定を受けました。
昭和39年(1964)、隣接地に「五稜郭タワー」が建設され、五稜郭の特徴ある星形を見学することが可能となっています。城内の建物は長年失われていましたが、平成22年(2010)になって函館奉行所の一部が復元されました。
ちなみに兵糧庫は、五稜郭内で唯一現存している建物です。その裏手にはかつて土饅頭があったらしく、土方歳三らを埋葬した場所だった。そんな説もあるとか。
おわりに
五稜郭が城郭として機能したのは、たった3年に過ぎませんが、動乱の時代を写した縮図のような存在でした。開国か?攘夷か?揺れ動く時勢の中で、外国の侵攻に備えた防御拠点として誕生し、函館戦争においては、旧幕府勢力と新政府が対決する舞台になったからです。現在の五稜郭は多くの木々と堀に囲まれ、春には桜、夏は緑、秋は紅葉、そして冬は白い雪で彩られます。北海道ならではの四季を楽しめる公園として、多くの人々が集う場所となっていますね。
補足:五稜郭の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
安政元年 (1854) | 日米和親条約が締結され、函館の開港が決定する。 |
安政4年 (1857) | 五稜郭の築造がはじまる。 |
元治元年 (1864) | 五稜郭が竣工し、函館奉行所が移転される。 |
慶応2年 (1866) | 全ての工事が完成する。 |
慶応4年 (1868) | 新政府が五稜郭に函館府を設置する。 |
明治元年 (1868) | 榎本武揚率いる旧幕府軍が函館及び五稜郭を占領。 |
明治2年 (1869) | 新政府軍が蝦夷地へ侵攻し、五稜郭が降伏・開城する。 |
明治4年 (1870) | 五稜郭に残るほとんどの建物が解体される。 |
大正3年 (1914) | 五稜郭を公園として開放する。 |
大正11年 (1922) | 国の史跡として指定を受ける。 |
昭和27年 (1952) | 特別史跡として指定される。 |
昭和39年 (1964) | 隣接地に五稜郭タワーが完成。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選定される。 |
平成22年 (2010) | 函館奉行所の南棟と中央棟が復元される。 |
【主な参考文献】
- 小和田哲男「日本の名城・古城もの知り事典」(主婦と生活社 1992年)
- 菊池明・伊東成郎「改定新版 戊辰戦争史下」(戎光祥出版 2018年)
- 一坂太郎「幕末維新の城」(中央公論新社 2014年)
- 河合敦「函館五稜郭物語」(光人社 2006年)
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