【広島県】吉田郡山城の歴史 毛利元就が大改修した山岳要塞
- 2024/09/17
現在は広大な城域の中に、曲輪(くるわ)や一部の石垣が残るのみですが、かつては本拠にふさわしい威容を誇ったといいます。城は幾度も改修を受けてきましたが、その変遷を見ていくと、そこには毛利氏が辿ってきた歴史が見えてくるようです。
果たして吉田郡山城はどんな城郭だったのか?詳しくひも解いていきましょう。
初期の吉田郡山城は小規模な城だった
毛利氏の祖は、かつて鎌倉幕府の政所別当を務めた大江広元(おおえ の ひろもと)でした。四男・季光(すえみつ)が所領の一部を受け継ぎ、相模国毛利荘に移ったことから毛利を称したといいます。承久の乱(1221)で戦功を挙げた季光は、幕府における地位を高め、評定衆として幕政に参与。さらに越後国佐橋荘や安芸国吉田荘の地頭職を与えられました。ところが宝治合戦(1247)で義父の三浦義村に味方したことで、敗れてしまいます。
その後、毛利の名跡は季光の四男・経光(つねみつ)が受け継ぎ、越後国佐橋荘を拠点としました。そして子の時親が家督を継ぐと、北条得宗家との関係を強めたことで、ようやく家の再興を果たします。
やがて南北朝の動乱期を迎えますが、子や孫が南朝へ靡く中、曾孫・元春を北朝方へ味方させた時親は、安芸国吉田荘へ移住して難局を乗り切ろうとしました。そして一族の糾合に成功したことで、吉田盆地一帯に勢力を拡大。安芸毛利氏の礎を築いたのです。
さて、毛利氏の本拠となる吉田郡山城ですが、『祐長老答国司広邑書』や『芸藩通志』によれば、建武2年(1335)に時親が築城したと伝わります。
ただし、城としての記録が確認されるのは享徳2年(1453)以降のこと。毛利氏当主から家臣へ宛てた文書の中に「城誘(しろこしらえ)」という文言があり、この時期に築城されたという説があります。少なくとも15世紀中頃には城が築かれていたのでしょう。
現在こそ、山頂を中心に270もの曲輪を構える大城郭として知られますが、初期の吉田郡山城は非常に小さなものだったようです。
郡山山頂から南麓を臨むと、半ば独立したような支尾根があり、そこは古くから「本城」と呼ばれていました。まず尾根の背後を三重の堀で切ってあり、さらに土塁を築くなど厳重な構えを見せています。
また尾根先端に向かって16段に及ぶ曲輪を階段状に備えるなど、戦国時代初期の実用的な城郭構造が確認できるでしょう。
つまり築かれた当初の吉田郡山城は、郡山全てに曲輪を構える大規模な山城ではなく、小規模な中世城郭だったことがうかがえます。
当時、毛利氏が置かれた状況を考察すれば、それは当然だと言えるかも知れません。あくまで安芸の一部を領する国人領主に過ぎず、それに見合った城を築くだけで十分だったからです。
尼子氏から離反したことで危機を迎える
吉田郡山城の北西4キロに多治比猿掛城があります。まだ4歳だった毛利元就は、家督を嫡男・興元(おきもと)に譲った父とともに、この城へ移り住みました。それ以来、毛利の庶流として多治比殿と呼ばれていたようです。しかし興元が若くして亡くなり、大永3年(1523)には興元の嫡男・幸松丸までが夭折しました。すでに27歳になっていた元就は、吉田郡山城へ入って毛利の家督を継承し、新たな当主となっています。
毛利弘元
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相合元綱 北就勝 元就 興元
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隆景 元春 隆元 幸松丸
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輝元
当時の毛利氏は、出雲を支配する尼子氏と、周防・長門を領する大内氏という二大勢力の狭間にありました。当面は尼子氏の傘下にあったものの、元就の将来は前途多難そのものです。
まず一部の家臣が異母弟・相合元綱を擁立しようと画策し、尼子氏と結んで反乱に及ぼうとします。元就が反対派を粛清したことで事なきを得ますが、尼子氏への警戒感が芽生えたことは言うまでもありません。
また尼子氏は、元就がどれだけ戦功を挙げても正当に評価することはなく、働きに見合った恩賞を与えることはありませんでした。毛利氏への内部介入といい、待遇の低さといい、それは元就にとって離反する理由としては十分です。
大永5年(1525)、尼子氏と袂を分かった元就は、改めて大内氏の傘下に入りました。やがて周辺の敵対勢力を打ち破ったことで、安芸において確固たる地位を築いています。
一方、祖父の隠居で家督を継いだ尼子詮久(あきひさ。のちの晴久)は、元就に対する警戒感を強めました。
尼子経久
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塩冶興久 国久 政久
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詮久(晴久)
┃
義久
備後の要衝・神辺城が大内方に奪われ、さらに佐東銀山城の武田氏もめっきり勢力が衰えています。もし放置すれば、多くの国衆たちが大内・毛利へ靡いてしまうでしょう。しかし吉田郡山城を落とすことができれば、安芸国を支配下に置いたうえで、大内氏の領国へ攻め込むことが可能となります。
やがて詮久は吉田郡山城の攻略を決意し、天文9年(1540)秋を期して3万に及ぶ大軍を出陣させました。こうして毛利氏は大きな危機を迎えることになり、史上名高い「吉田郡山城の戦い」が始まります。
吉田郡山城の戦い
天文9年(1540)8月10日、月山富田城を出陣した尼子軍は、石見路を通って南下。9月4日には吉田郡山城の北方にあたる風越山に本陣を構えました。一方、毛利方は2千余の兵を城に籠もらせ、尼子軍を迎え撃つ態勢に入ります。元禄年間に成立した『吉田物語』によれば、城下の農民や町人ら合わせて8千人が籠城したとされますが、当時はまだ小規模な本城しか存在しません。おそらく背後の郡山へ避難させたと考えられます。
毛利方の守りは本城だけではなく、宍戸隆源には東方の五龍城を守らせ、南西の鈴屋城には福原広俊を配しました。さらに尼子軍の動きを封じるため、熊谷信直・香川光景・天野隆重らを支城へ置いています。
9月23日、本陣を青山三塚山へ移した詮久は、いよいよ正面攻撃の態勢に入りました。ところがその3日後、索敵行動に出た湯原宗綱が毛利方と交戦して敗死し、さらに10月11日には、新宮党を中心とする尼子の精鋭が、毛利勢の逆襲を受けて押し返されてしまうのです。
毛利方はたった一人を失っただけですが、尼子方は三沢為幸以下、数十人が討ち取られるという惨敗ぶりでした。
こうした元就の積極果敢な攻勢は、やはり城が弱いと見越しての行動だったのかも知れません。まだ小規模だった吉田郡山城が、大軍に囲まれてはひとたまりもないからです。
そんな中、大内義隆が救軍を率いて出陣しており、陶・内藤・杉ら1万の先遣隊を差し向けていました。これ以降、尼子軍は総力を挙げての攻撃ができなくなり、ひたすら陣城の構築に勤しんだといいます。
現在、青山三塚山一帯には大規模かつ広範囲に砦の遺構が見られますが、詮久は大内軍を警戒しつつ、決戦の準備を進めていたのでしょう。
天文10年(1541)1月11日、大内の部将・陶隆房は天神山に本陣を置き、いよいよ決戦に臨みます。そして元就は、尼子本軍の牽制を隆房に依頼すると、13日には吉田郡山城の西側に陣を構える尼子軍へ肉薄しました。
一陣、二陣を撃破した毛利勢ですが、吉川興経の陣だけは破れず、そのまま日没となってしまいます。その頃、陶勢は大きく山を迂回して尼子本陣を後方から急襲し、詮久の叔父・尼子久幸を討ち取るという働きを見せました。
ただし陶勢も決定打を与えることができず、夜のうちに尼子軍が撤退したことで、吉田郡山城をめぐる戦いは引き分けに終わっています。
尼子軍が撤退した理由は、吉田郡山城の攻略が進捗しないまま冬を迎えてしまったこと、そして兵の士気が上がらないまま、大内軍との決戦は困難だと判断したためでしょう。むしろ詮久は、味方の国衆たちの離反を恐れていた節もあります。
いずれにせよ、吉田郡山城を守り抜いた元就の功績は高く評価され、その存在感をますます高めていくのです。
元就によって大改修を受ける吉田郡山城
天文20年(1551)以降、元就によって城の姿は大きく変わることになります。折しもこの時期、吉川・小早川の両家を取り込んだことで、毛利氏の勢力は拡大しており、安芸一国の支配権を手中に収めていました。一介の国衆から一国の大名へ飛躍を遂げた元就は、ここで思い切った居城の拡張へ踏み切ります。
従来の本城だけでなく、郡山全体に曲輪を巡らせたことで、現在に近い姿へ変貌を遂げました。改修というより新たな築城と評した方が良いのかも知れません。
永禄年間の記録によれば、城内に「かさ」や「尾崎」「桂左所」といった記述があり、かさとは「嵩」のことで、山の頂上を表します。つまり元就は山頂の本丸に居住していたのでしょう。
また尾崎は旧本城のことで、そこには嫡男の隆元がいたようです。次いで桂左所は、重臣・桂(左衛門尉)元澄の屋敷があった場所となります。
こうして完成した吉田郡山城は、主に4つの区分で構成されていたようです。
まず山頂の中枢部は、本丸・二の丸・三の丸など数段の曲輪で成り立っていました。ただし江戸時代の地誌に記された呼称ですから、当時からそのように名付けられたわけではありません。
各曲輪の縁辺は直線的な造形となり、南西側には三段に重なる石垣が積まれていました。また瓦葺きの建造物が建っていたらしく、瓦や礎石跡が検出されており、威信材である陶磁器や土師器なども大量に出土しています。旧本城時代とは、まるで比較にならないほどの威容が見えてくるようです。
次いで内郭部ですが、中枢部から伸びる6本の尾根と谷筋に、数多くの曲輪が存在していました。姫丸壇・満願寺跡・釜屋壇など、主に7つの曲輪群から構成されていたようです。
また、それぞれが独立性を保ちつつも、他の曲輪や中枢部と密接に繋がっており、互いに連携しながら防御性を高めています。ただし、各曲輪の縁辺は、自然地形に沿うような曲線が多く、石垣や空堀といった構造はほとんど見当たりません。
そして外郭部は、旧本城(尾崎丸)や矢倉壇・羽子の丸などから成ります。全体的に切り盛りによる造成が見受けられ、やはり土塁や空堀といった防御機構は確認できません。
最も外側にあたる周縁部は、南側山麓の微高地にあたり、堀によって区画されていました。その痕跡はわずかに認められるものの、遺構としてはあまり明らかではないようです。
毛利輝元の時代に全盛期を迎える
毛利氏が勢力を拡大していくとともに、吉田郡山城も太守の居城にふさわしい姿へ変貌を遂げていきました。当時の記録をひも解くと、まず元就没後の元亀3年(1572)には、「年寄衆奉行之者在城」とあり、主だった重臣が城内に屋敷を構えていたことがわかります。
次いで天正9年(1581)の記録では「御屋形様」「御かミさま」との記述があり、当主・毛利輝元やその夫人が、恒常的に城で暮らしていたことがうかがえます。
さらに天正12年(1584)と天正16年(1588)には、それぞれ「城内之普請」や「麓掘掃」、「石組」、「惣普請」といった記述が確認でき、おそらく輝元の時代になっても改修が続いていたのでしょう。
また城内には満願寺や常栄寺といった寺院が建立され、麓にも妙玖庵、洞春寺の寺院跡が確認されています。
とりわけ洞春寺跡には、毛利元就はじめ一族の墓所があることから、郡山全体を政治的シンボルと捉えていたのかも知れません。
こうして吉田郡山城は全盛期を迎えますが、程なくして広島城が完成し、天正19年(1591)に本拠が移ったことで、その使命を終えることになりました。その後も城は取り壊されずに残りますが、関ヶ原の戦い後、毛利氏が周防・長門へ移ったことで廃城となっています。
ちなみに宝永2年(1705)の「高田郡村々覚書」によれば、島原天草一揆の勃発に伴い、惣堀が埋められたとの記載があります。おそらくキリシタンによる城の再利用を恐れたためでしょう。
また、文久3年(1863)には広島藩が陣屋を建設しており、幕末の動乱期にあって、古い城跡を改修しようとした意図が読み取れるのです。
おわりに
吉田郡山城は広大かつ遺構が良く残り、各時代の変遷がよくわかる城郭です。まだ毛利氏が国人領主に過ぎなかった旧本城時代、そして毛利元就が安芸一国を手に入れ、戦国大名として成長した拡張期、次いで瓦葺建物や石垣、枡形虎口などを多用し、豊臣大名にふさわしい威容を誇った改修期です。
このように吉田郡山城は、多様な遺構が史料とともに確認でき、戦国大名の歴史を辿ることができる稀有な城だと言えるでしょう。まさに広島県を代表する城の一つなのです。
補足:吉田郡山城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
建武2年 (1335) | 毛利時親が安芸吉田荘へ移り、ここから安芸毛利氏が始まる。 |
享徳2年 (1453)頃 | 吉田郡山城(本城)が築かれる。 |
大永3年 (1523) | 毛利元就が家督を相続し、猿掛城から吉田郡山城へ移る。 |
天文9年 (1540) | 尼子詮久による安芸侵攻(吉田郡山城の戦い) |
天文20年 (1551)頃 | 元就によって吉田郡山城が拡張整備される。 |
天正19年 (1591) | 毛利輝元、吉田郡山城から広島城へ本拠を移す。 |
慶長5年 (1600) | 毛利氏の移封に伴い、吉田郡山城が廃城となる。 |
寛永15年 (1638) | 島原天草一揆の影響で破城が進む。 |
文久3年 (1863) | 広島藩が吉田郡山城跡に陣屋を建設する。 |
昭和15年 (1940) | 吉田郡山城跡が国史跡に指定される。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選定される。 |
【主な参考文献】
- 小都隆『安芸の城館』(ハーベスト出版 2020年)
- 渡邊大門『山陰・山陽の戦国史』(ミネルヴァ出版 2019年)
- 河合正治『安芸毛利一族』(吉川弘文館 2014年)
- 根本みなみ『家からみる江戸大名 毛利家』(吉川弘文館 2023年)
- 小和田哲男『戦国の城』(学習研究社 2007年)
- 安芸高田市教育委員会『史跡毛利氏城跡(郡山城跡)保存活用計画』(2021年)
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