【茨城県】土浦城の歴史 「常陸の不死鳥」こと小田氏治が頼りにした水の城

土浦城跡の太鼓櫓門
土浦城跡の太鼓櫓門
 JR常磐線の土浦駅から西へ向かうと、徒歩15分ほどの場所に土浦城があります。江戸時代には土浦藩庁が置かれていて、現在は城跡の多くが市街地に埋もれているものの、土浦市のランドマークとして市民に親しまれているそうです。

 戦国時代には相次ぐ戦乱に見舞われ、あの「常陸の不死鳥」こと小田氏治が負けるたびに頼りにした城であり、また江戸時代には関東の要衝として栄えたといいます。そんな土浦城の歴史を、多くの逸話とともにご紹介していきましょう。

家臣同士の抗争で乗っ取られた土浦城

 伝承によれば、天慶年間(938~946)に関東で乱を起こした平将門によって、初めて土浦に城が築かれたといいます。

 その後、城の歴史がようやくわかってくるのが永享年間(1429~1440)のこと。鎌倉時代以来、常陸守護として威勢を振るってきた小田氏の家臣・若泉三郎が、新たに土浦で城を築きました。

 『続常陸遺文』によれば、若泉氏は常陸でも指折りの富有として知られ、小田家臣の中でも相当な実力者だったようです。西には霞ケ浦があり、湖上交通の要衝として、また水運の利権を掌握する目的で築城されたものでしょう。

土浦城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 さて、三郎の孫にあたる若泉五郎左衛門の頃、桜川の流路を付け替えるという難工事を行いました。そのため領民は重い労役を課せられて、領内は怨嗟の声で満ちたといいます。永正3年(1506)、若泉領の混乱を見た菅谷勝貞は土浦城の乗っ取りを企て、500騎を率いて城へ攻め掛けました。ちなみに菅谷氏も小田氏に仕えていますから、家臣同士の抗争が勃発したわけです。いかにも戦国乱世らしい風潮と言えるでしょうか。

 やがて土浦城をめぐって激しい戦いとなるも、なかなか勝負が付きません。勝貞があきらめて兵を退こうとすると、家臣の野口半左衛門が進言しました。

野口:「土浦の領民は労役と重税にあえいでおり、きっと領主を恨んでいるはず。ならば反乱を起こさせた上で城を攻めましょう」

 進言を容れた勝貞は、さっそく領民たちに触れ回ります。

菅谷勝貞:「我らに合力すれば、税を軽くしよう」

 すると城へ入った領民が反乱を起こし、城中は大混乱となりました。これに乗じた菅谷勢は敵を押しまくり、ついに若泉五郎左衛門を討ち取ります。こうして土浦城は勝貞の手に落ちました。

押し寄せる佐竹勢を撃退する

 その後、勝貞は土浦城主となり、嫡男・政貞、孫・範政とともに主君・小田氏治を支えていきました。ところが強敵が目の前に立ちふさがります。それが坂東一の名族と謳われた佐竹氏です。

 弘治年間(1555~1558)以来、小田氏治は結城氏と領地をめぐって争っていましたが、やがて上杉謙信が関東へ進出。当初、氏治は上杉氏に加担したものの、のちに北条氏へ鞍替えしています。いっぽう佐竹義重は上杉氏と結んでいたことから、ここに小田と佐竹の抗争が始まりました。

 永禄7年(1564)、佐竹・上杉の連携した軍事行動によって小田方は敗北。本拠の小田城は攻略されてしまい、氏治は土浦城へ敗走しています。佐竹勢はなおも土浦城へ押し寄せてきますが、これを何とか撃退しました。

 当時の城がどのような様子だったのか?残された史料が少ないことから判然としていません。とはいえ霞ヶ浦から近く、付近を桜川が流れていることから、水路や地形をうまく生かした城だったのでしょう。その後も幾度となく佐竹勢を撃退しているあたり、かなりの要害だったことがうかがえるのです。

小田氏治の肖像(法雲寺所蔵、出典:wikipedia)
小田氏治の肖像(法雲寺所蔵、出典:wikipedia)

 さて、当時の土浦城について、こんな逸話があります。

 『菅谷伝記』によれば、小田家臣に信太範宗という者がいました。かつて土浦城主だった若泉氏の一族で、どうやら主君・小田氏治に含むところがあったようです。

 ある時、範宗は佐竹氏と結んで土浦城の乗っ取りを企てるのですが、これを知った菅谷政貞は中秋の名月の折り、酒宴にことよせて範宗を謀殺してしまいました。その後、城内では死んだ範宗の悪霊が現れては城内の者を悩ませたそうです。

豊臣氏の軍門に降った土浦城

 氏治が土浦城へ逃げ込んだのち、佐竹義昭は小田周辺の統治に乗り出し、小田城には一族の佐竹義廉が入りました。しかし永禄8年(1565)に義昭が死去すると、常陸南部の支配は大きく動揺します。さらに混乱を衝いて氏治が土浦城から出撃し、ついに小田城を奪還することに成功しました。

 しかし佐竹氏があきらめたわけではありません。永禄12年(1569)になると、義昭の跡を継いだ佐竹義重が真壁氏や多賀谷氏らと結びつき、またしても小田城攻略を狙ってきました。そんな中、氏治も積極的な行動に出て、奪われていた柿野城と片野城を奪い返すべく出陣しています。ところが佐竹方の太田資正や真壁氏幹によって、手痛い反撃を食らってしまうのです。氏治は小田城へ戻ろうにも、すでに城は落ちたあとでした。仕方なく土浦城へ敗走するしかなかったようです。

 佐竹氏の圧迫は日増しに強まり、天正2年(1574)になると佐竹勢が土浦城へ押し寄せてきました。激しい戦いとなるも、小田勢は劣勢を余儀なくされ、ついに氏治が敗走したことで城は落ちてしまいます。城主・菅谷政貞も佐竹氏の軍門に降りました。

 しかし氏治には北条氏の後ろ盾があります。程なくして北条軍2万が押し寄せ、同年のうちに土浦城を取り戻してみせました。また政貞が戦わずして北条軍に降ったことで、のちに土浦城主として復帰しています。とはいえ結局、小田氏の本拠たる小田城を取り戻すことはできませんでした。

 小田と佐竹の抗争が続く中、やがて豊臣秀吉による小田原攻めを迎えます。天正18年(1590)、北条氏に味方した氏治は所領をすべて没収されて改易となり、土浦城も佐竹氏や徳川氏の軍勢に攻められ、主家とともに滅亡を遂げました。のちに菅谷範政は徳川家康によって召し出され、幕府旗本として幕末まで続いています。

関東の要衝として繁栄する土浦

 菅谷氏が土浦城から去ると、次に城主となったのが結城秀康です。しかし慶長6年(1601)に秀康が越前へ移ると、代わって下総布川から入ったのが松平信一でした。現在見られる土浦城の姿は、この頃に完成したものです。

 霞ヶ浦や桜川から水を引くことで幾重にも水堀をめぐらせ、その様子はまるで水に浮かぶ亀のようだったとか。そこから別名「亀城(きじょう)」とも呼ばれています。また城下町の出入り口をはじめ各所に土塁を築き、より防御力を高める構造になっていました。土塁は普通、直線や緩やかな曲線で構築されるものですが、土浦城の場合は複雑な折れを持ち、より攻められにくい造りとなっていました。

土浦城跡の堀
土浦城跡の堀

 さらに城下町へ水戸街道を通すことで、土浦を経済・物流の拠点としています。こうして城郭の改修と城下町の整備が行われ、土浦は関東の要衝にふさわしい拠点と変貌を遂げたのです。

 元和3年(1617)に松平信吉が上野・高崎へ移ったあと、西尾氏・朽木氏と藩主が代わり、寛文9年(1669年)に入封してきたのが土屋数直でした。

 土屋氏は甲斐武田氏の遺臣であり、のちに徳川家康によって召し出された一族です。やがて土屋氏は譜代扱いとなり、数直の代になると幕府老中として抜擢されています。のちに数直の子・政直は一時的に駿河・田中へ転封となりますが、程なくして土浦藩へ復帰。それ以降は幕末に至るまで土屋氏が当地を治めています。

 さて松平氏~土屋氏が藩主を務めた江戸時代、土浦城は大きな変容を遂げました。石垣こそ築かれなかったものの、天守の代わりとなる東櫓や西櫓が築造され、風格漂う本丸櫓門が威容を見せつけたそうです。また城域を広げて曲輪を増設したことで、関東の要衝にふさわしい城郭となりました。

 もちろん藩主の入れ替わりが180年間なかったことで治政は安定し、石高も6万5千石から10万石へ右肩上がりとなっています。また江戸から近いという地理的条件も大きく、水運・陸運の要として機能したことから、城下は大きく発展を遂げました。

 例えば醤油や木材、霞ヶ浦で獲れた水産物などは、陸路と海路で江戸へ運ばれ、その帰路には呉服や塩など江戸に集まる品々が土浦へ持ち込まれたとか。

 とりわけ城下の繁栄を物語るのが「駒市」と呼ばれる馬市でしょうか。これは毎年3月に開かれ、関東全域の馬商人が集まって数百頭もの馬を取引するものです。その賑わいのおかげで周辺には一大歓楽街が出来上がり、城下町は大いに栄えたといいます。

櫓が復元され、現存櫓門が立つ現在の土浦城

 水戸藩から養子として迎えた土屋挙直が藩主の頃、土浦藩は廃藩となりました。そして明治6年(1873)には廃城令によって、多くの建物や塀などが取り壊されています。本丸御殿は県庁として使用されるものの、明治17年(1884)の火災によって東櫓もろとも焼失。さらに内堀以外の堀が埋められたことで、往年の姿は見る影もなくなりました。

 明治32年(1899)、本丸跡と二の丸跡が亀城公園となりました。また土浦城のシンボルといえる本丸太鼓門は、関東で現存する唯一の櫓門であり、小ぶりながら威風堂々とした風格を見せています。

 また、平成に入ると、保管されていた部材によって西櫓が復元され、土浦市立博物館の付属展示施設として東櫓も復元されました。

 こうして土浦城は城址の趣を取り戻し、市民の憩いの場として親しまれているのです。

土浦城跡 霞橋と復元された東櫓
土浦城跡 霞橋と復元された東櫓

おわりに

 戦国時代、小田と佐竹の争いの中で翻弄されてきた土浦城ですが、江戸時代になって「らしさ」と取り戻した城でした。水運と陸運の要となる拠点であり、それがゆえに争奪戦の舞台となった土浦ですが、平和な時代がやってきた時、ようやく真価を発揮したといえるでしょう。つまり江戸へ向かう物資の集積地として、交通の要衝として、また商業の中心地として大いに栄えたのです。

 現在でも市内のあちこちには、江戸情緒を偲ばせるスポットがたくさん残っています。例えば土浦第一中学校の通用門は、かつての藩校・郁文館の正門ですし、中城通り周辺には商家や神社仏閣といった文化財が密集しています。もし気軽に歴史散歩をするには、ぜひ土浦をオススメしたいところですね。


補足:土浦城の略年表

出来事
天慶年間
(938~946)
平将門によって土浦に城が築かれる。(伝承による)
永享年間
(1429~1440)
小田氏の家臣・若泉三郎によって土浦城が築かれる。
永正3年
(1506)
菅谷勝貞による土浦城乗っ取り。
弘治2年
(1556)
北条氏康に追われた小田氏治が土浦城へ敗走する。
永禄5年
(1562)
小田氏治が上杉氏から離反し、北条氏と結ぶ。
永禄7年
(1564)
上杉氏・佐竹氏の攻勢によって小田城が落城。小田氏治が土浦城へ敗走する。
永禄12年
(1569)
手這坂の戦い。小田城を落とされた小田氏治が土浦城へ敗走。
天正2年
(1574)
佐竹義重の攻撃で土浦城が陥落。同年のうちに取り戻す。
天正18年
(1590)
豊臣秀吉による小田原攻め。小田氏・菅谷氏が改易となり、土浦城は結城秀康が領する。
慶長6年
(1601)
結城秀康が越前へ移封。代わって松平信一が城主となる。
元和3年
(1617)
松平信吉が高崎へ転じ、西尾忠永が新たな藩主となる。
寛永4年
(1627)
東櫓と西櫓が完成。
慶安2年
(1649)
西尾忠照が駿河・田中へ移り、代わって朽木稙綱が城主となる。
明暦2年
(1656)
従来あった櫓門を太鼓櫓門へ改築する。
寛文9年
(1669)
土屋数直が入封。子の政直以降、幕末に至るまで土屋家が藩主を務める。
明治6年
(1873)
廃城令によって土浦城が廃される。
明治17年
(1884)
火災によって本丸御殿が焼失。損傷を受けた東櫓と鐘楼が撤去される。
明治32年
(1899)
本丸跡と二の丸跡が亀城公園となる。
昭和24年
(1949)
台風の被害によって西櫓が解体される。
平成4年
(1992)
保管されていた部材によって西櫓が復元される。
平成10年
(1998)
土浦市立博物館の付属展示施設として東櫓が復元される。
平成24年
(2012)
東日本大震災の被害で破損した建造物の修復工事が完了。
平成29年
(2017)
続日本100名城に選定される。


【主な参考文献】
  • 八幡和郎『江戸全170城 最期の運命』(イースト・プレス 2014年)
  • 伊藤雅人・加唐亜紀ほか『江戸300藩物語藩史 関東篇』(洋泉社 2015年)
  • 西野博道『関東の城址を歩く』(さきたま出版会 2001年)
  • 佐々木倫朗・千葉篤志『戦国佐竹氏研究の最前線』(山川出版社 2021年)
  • 南条範夫・奈良本辰也『日本の名城・古城事典』(ティビーエス・ブリタニカ 1989年)

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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