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土方歳三最期の地はどこに?函館で関連史跡巡り
- 2023/04/10
箱館には土方歳三関連の史跡が今も多く残っており、訪れるファンが絶えません。今回は箱館に残る関連史跡や土方歳三最期の地をご紹介したいと思います。
五稜郭
五稜郭は国内初の西洋式城郭として知られています。当初は幕府直轄の役所として建てられた要塞でしたが、榎本らが上陸した後五稜郭を占拠。箱館奉行所を敷地内に設置し、蝦夷共和国を樹立しました。その後新政府軍との激しい戦闘の舞台となり(箱館戦争)、1869(明治2)年5月に五稜郭は新政府軍に明け渡されました。
蝦夷共和国で、土方歳三は幹部に就任。陸軍奉行並や、箱館市中取締・陸海軍裁判局頭取などを務めました。五稜郭にも日参し、ここで政治や戦の策を練っていたと思われています。
五稜郭には土方歳三の像がいくつもあり、その人気ぶりがうかがえます。
弁天台場跡&新選組最後の地碑
土方歳三は元々新選組の副長という役職でしたが、函館時代はその役職を譲り渡し別の軍を率いて戦っていました。新選組はこの時、弁天台場という場所で戦っていました。新政府軍が函館に総攻撃開始した際、弁天台場も攻撃を受けています。新政府軍の艦艇が海から艦砲射撃を仕掛け、弁天台場は補給路も絶たれ、兵糧も無くなり降伏せざるを得なくなってしまいました。
これをもって新選組の最後の地となってしまったといいます。土方歳三は亡くなる時、この弁天台場へ救援へ向かおうとしていたといいます。
新選組屯所跡 & 称名寺
新選組の箱館の屯所となったのは、「称名寺」というお寺でした。現在はホテルになっています。現在でも土方歳三人気がある理由の一つが、市民や商人の保護です。
当時、旧幕府軍は軍費が底をついており、箱館の市民から税金を徴収しようとしました。それに反発したのが土方歳三だったといいます。
市民や商人たちは土方を信用し慕っていましたが、戦争で亡くなってしまい、新選組の屯所のあった称名寺に慰霊碑を建てたといいます。
称名寺は明治時代に数度火災に遭い、当時の慰霊碑はなくなってしまいましたが、移転先の称名寺に有志によって建てられた碑があります。
現在の称名寺の供養碑は参拝可能になっているため、ファンが多く訪れています。
碧血碑
箱館戦争での旧幕府軍の戦没者を供養するために、函館山のふもとに建立されたのが碧血碑です。碧血とは「義に殉じた武人の血は3年たつと碧色になる」という中国故事のひとつから命名されました。
この碑の近くには戦没者が多く埋葬されたという話もあります。
少し開かれた場所にそびえるように建つ碑は、現在訪れても圧倒されるような場所のひとつです。
土方歳三最期の地碑
一本木関門跡の近くにある若松緑地公園(函館市総合福祉センター)には「土方歳三最期の地碑」が建てられており、五稜郭とともに観光スポットとなっています。当時、弁天台場へ向かおうとしていた土方歳三はここで敵と遭遇し、銃弾を受け壮絶な最期を遂げたとされています。
しかし正確な場所はわかっていません。最初は近くにある若松小学校のあたりと言われていたため、そこに石碑があり、その後は中央分離帯に、そしてここへと移転してきたといいます。一本松関門ではなく異国橋跡であったという話もあります。
今は公園内に一本松関門が再現され、きれいに整備されているため訪れる人が絶えません。碑の前には土方歳三の写真やお花などが常にお供えされています。
土方歳三の埋葬場所は不明のまま
土方歳三の遺体の埋葬場所は未だ判明していません。・ほかの戦死者とともに五稜郭内に埋葬された
・碧血碑近く(箱館山)に埋葬された
・最期の地付近に埋葬された
とも言われています。
はっきりしないのは新選組や旧幕府軍が彼の遺体を隠したからではないかとも考えられており、土方歳三の墓や慰霊碑は日本各地にあります。
まとめ:函館の史跡巡りはファンにはとってもおすすめ
函館は小さい町なので、トラムなどの公共交通機関と徒歩でじゅうぶんに観光可能。戊辰戦争関連の史跡もアクセスしやすいため、複数の史跡巡りもしやすくおすすめです。史跡巡りの合間においしい函館グルメを食べたり、観光スポットで写真を撮ったりと楽しめそうです。悲しい歴史のある戊辰戦争ですが、先人たちの功績を称え、語り継いでいきたいですね。
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