Run of power「逃走中」 ~後醍醐天皇の逃亡劇を追う~

笠置山での霊夢の図(尾形月耕 画、出典:wikipedia)
笠置山での霊夢の図(尾形月耕 画、出典:wikipedia)

「逃走中」がピッタリ? な後醍醐天皇

 鎌倉幕府を倒し「建武の新政」を実施するも、僅か3年で失敗。その後60年続く“南北朝の争乱”を引き起こした張本人として、歴史の教科書には必ず登場する有名人。それが後醍醐天皇です。

 そんな後醍醐天皇は、鎌倉幕府からも室町幕府からも追われ続けますが、自らの権力を維持・復活させるため、歴代天皇の中でも類を見ないほど多くの地を転々と逃げ回ります。

 その様子は正に人気テレビ番組「逃走中」そのもの。そこで今回は、『太平記』の記述を交えて後醍醐天皇版「逃走中」の様子を紹介します。

執念の討幕 元弘の乱

 後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画「正中の変(1324年)」を経て、北条高時(鎌倉幕府執権)が鎌倉幕府軍を京都へ送り、本格的に後醍醐天皇を捕えようと動き出します。

 いよいよ「逃走中」のスタートです!

後醍醐天皇の逃亡劇マップ。マップを拡大していくと地点ラベル(数字は訪れた順序)が表示されます。

最初は “京都の御所” から “笠置山笠置寺” へ

 鎌倉幕府の動きを察した後醍醐天皇は、元弘元年(1331年)8月に京都府の南東にある笠置山の “笠置寺” へ逃げ込みます。

 この時、後醍醐天皇は楠木正成と出会います。その様子は以下のように書かれています。

 鬟結ふたる童子二人忽然として来たつて、主上の御前に跪き、泪を袖に懸けて申しけるは、「<中略>あの木陰に南へ栄えたる枝の下に座席あり。<中略>」と奏して、童子は遥かの天に登り去りけり。<中略>木に南と書きたるは楠というふ字なり。<中略>「もしこの辺に楠と謂へる武士やある」と御尋ねありければ、<中略>やがて正成をぞ召されける。

 (意訳:二人の童子から「あの木の南のかげにおやすみなさい」と言われる夢を見た。後醍醐天皇は神からのお告げと思い、「木の南と書いて“楠”だ。この近くに楠という名前の者はいないか?」と探させ、楠木正成に会う。)

 この楠木正成の活躍により、後醍醐天皇は鎌倉幕府軍を追い払うことに成功しますが、同年9月に北条高時は更に二十万七千六百余騎という数の軍勢を笠置山へ向かわせます。そして、“笠置寺”は攻め落とされてしまいます。

“笠置寺” から “赤坂城”へ

 御醍醐天皇は間一髪のところで逃れ、笠置寺から楠木正成のいる大阪府にある“赤坂城”へ向かいます。

赤坂城へ向かう途中、休む後醍醐天皇(『楠正成 (科外教育叢書 ; 第13)』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
赤坂城へ向かう途中、休む後醍醐天皇(『楠正成 (科外教育叢書 ; 第13)』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 しかし、道中慣れない山道の逃走に疲れた後醍醐天皇は、一緒に逃げていた万里小路藤房と季房とともに、京都府多賀郡の有王山麓で鎌倉幕府軍に「確保」されてしまうのです。

宇治の“平等院”へ送られ、その後は京都の “六波羅” に幽閉される

 元徳3年(1331年)10月には、京都府宇治にある “平等院” へ送られた後醍醐天皇。この時、鎌倉幕府側は後醍醐天皇へ「三種の神器」を渡すように言います。しかし、後醍醐天皇は藤房に

「八咫鏡は笠置寺本堂に置いてきた。八尺瓊勾玉は笠置山中の木の枝にかけてきた。草薙剣は自ら命を絶つときのために手放せない」

と返答させたそうです。

 結局、三種の神器は10月9日に鎌倉幕府へ渡され、13日に光厳天皇が即位し、後醍醐天皇は強制的に退位させられました。(※以降、暫くは天皇ではありませんが分かりにくいのでそのまま“後醍醐天皇”と表記していきます。)

 その後、後醍醐天皇は京都の “六波羅” まで鳳輦に乗って移され、そこで幽閉されます。

“隠岐島” へ流される

 元弘2年(1332年)3月、後醍醐天皇の “隠岐島” へ流罪が決定しました。京都から隠岐へ流される様子については以下のように書かれています。

数ならぬ及ばぬ身までも、推しなべて今日の別れを悲しみて、置く所なく吟ひし。御車すでに東洞院を下りに七条を西へならせ給へば、都の名残もこれまでなりと悲しきに、貴賤岐を争ひ、男女路を塞いで、「あさましやな。正しく一天の君を下として流し奉る事よ」「これぞ武運の極めなる」と、憚る所なく申し合ひて(中略)、声も惜しまず泣き悲しみければ(後略)

<意訳>
都中の人々が別れを悲しんで途方にくれ嘆いている。天皇が乗った車が七条通から西へ向かい、いよいよ都から去っていく時は、身分関係なく、男も女も道に立ちふさがり「あきれたことだ。素晴らしい天皇を流罪させるとは」「これで鎌倉幕府の運命も終わりだな」と話し合いながら声も惜しまず泣き悲しんだ

 このように、京都の人はみんな嘆き悲しみ、鎌倉幕府を恨んだようです。

 後醍醐天皇は、かつて飢饉で苦しむ人を助けるために自分は朝食をとらず、節約した上で米蔵の米を民衆に配ったことがあり、とても人気があったんですね。

 後醍醐天皇は13日かけて島根県安来に着き、4月に隠岐島へ到着します。

“隠岐”を脱出し、“船上山”へ

 後醍醐天皇が隠岐にいるころ、世の中は大きく動いていました。楠木正成が再び挙兵して鎌倉幕府軍と戦いを始めると、御醍醐天皇の子である護良親王から令旨を受けた赤松入道円心をはじめ、各地でも幕府に対する挙兵の動きが起こったのです。

 そこで、元弘3年(1333年)閏2月、後醍醐天皇は密かに隠岐を脱出し、地元の豪族である名和一族を頼り、鳥取県の“船上山”へ城を構えて立て籠もります。

御醍醐天皇を船上山に奉迎する名和氏(『少年後醍醐天皇御伝』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
御醍醐天皇を船上山に奉迎する名和氏(『少年後醍醐天皇御伝』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 北条高時は反幕府の勢力を抑えるため、名越高家を総大将として足利高氏らを京都に向かわせますが、足利高氏は御醍醐天皇側に寝返り、六波羅の幕府軍を攻め、5月に六波羅を攻め落とします。

 また、関東では新田義貞らが鎌倉に攻め入り、5月22日に北条高時は自害し鎌倉幕府は滅びます。

京都の“二条内裏”へ

 同年6月、御醍醐天皇は楠木正成とともに京都の“二条内裏”へ戻ってきます。

 1年ぶりの還幸の様子を

見物の貴賤岐に満ち、帝徳の再び新たなる事を頌する声、洋々として耳に満てり。目出たかりし事どもなり。

 <意訳>
 見物者は身分の高い人も低い人も街路にあふれ、後醍醐天皇の時代が再びよみがえったことを大喜びする声があふれんばかりに響きわたった。めでたいことであった。

と記しています。

 隠岐へ流される時と正反対の様子です。そして、後醍醐天皇の政治に対する期待の大きさも伺えますね。
(今風に言うと、フラグ立ててる感じも受けますが…)

 さて、京都に戻った後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、幕府・摂関を廃止、人事を一新します。さらに元号を中国の故事に因んで“建武”に改元。所謂「建武の新政」を行います。
(足利高氏は討幕の功績により後醍醐天皇の諱「尊治」から一文字与えられ“尊氏”になります)

 なお、後醍醐天皇の政治を『太平記』では「公武一統政務」と表しています。

人生2度目の都落ち 足利尊氏との戦い

人生2度目の都落ち、“比叡山”へ

 公家・武士だけでなく民衆からも期待された「建武の新政」ですが、皆さんもご存知の通り、世の中を混乱に陥れ、失敗に終わります。

 建武2年(1335年)に起きた中先代の乱を機に、武家政権の復活を考えた足利尊氏は、後醍醐天皇側に反旗を翻し、建武3年(1336年)湊川の戦いで後醍醐天皇側の新田・楠木軍に勝利し、京都まで攻め込みます。

 この時、後醍醐天皇は“比叡山”に逃れます。人生2度目の都落ちです。

 その後、後醍醐天皇は「三種の神器を足利側へ受け渡すこと・一旦は譲位するものの再即位すること(重祚)」を条件に足利尊氏と和睦し比叡山を下山します。(光明天皇の即位&室町幕府の開設)

“花山院”へ幽閉

 比叡山を下りた後醍醐天皇ですが、重祚は尊氏の謀で、京都にある“花山院”に幽閉されてしまいます。

 これまであちこちへ逃亡&幽閉されつつも決して諦めなかった後醍醐天皇ですが、流石に観念したのか、ここで出家を考えるようになります。

“花山院”を抜け出し“吉野”へ

 ところが、室町幕府軍の各地での苦戦の様子を側で仕えていた刑部大輔景繁から聞くうちに

さては天下の武士なほ帝徳を慕ふ者も多かりけり、これ天照太神の、景繁が心に 入り替らせ給ひて、示さるる者なり

(意訳:まだ自分を慕う武士も多いのか。これは天照大神が影繁の心に入り替わりお示しなさったのだ)

と思ってしまったらしく、景繁に三種の神器(足利尊氏との和睦時に渡した三種の神器は偽物だったようです)を担がせ、自分は女房の姿に変装し土塀の崩れ穴から花山院を脱出し、遂に“吉野”へ辿り着くのです。

 そして、吉野で後醍醐天皇自ら皇位正当性を主張し、新たな朝廷(南朝)を開きます。さらに、自分の皇子たちを南朝側に与する各地へ送って北朝方(室町幕府側)と対抗させますが、劣勢を覆すことはできませんでした。

 吉野に逃げて(遷都?)3年が経とうとしていた暦応2年(1339年)の8月16日午前2時、後醍醐天皇は52歳で亡くなります。

 彼は8年間も「逃走中」だったわけですね。

最後に

 「京都の内裏→笠置寺→赤坂城→平等院→六波羅→隠岐→船上山→京都の内裏→比叡山→花山院→吉野」

 後醍醐天皇は天皇即位後、これだけ転々としていました。中には本人の意思と関係なく行かされた場所もありますが、自らの権力維持のため決して諦めることなく戦い(逃げ)続けた天皇は他にいたでしょうか?

 今回は語られることの多い政治内容ではなく、「逃走中」というテーマで後醍醐天皇を紹介してみました。

 なお、後醍醐天皇の最後の言葉(遺言)は結構な長文です。興味の湧いた方は『太平記』巻第二十一「後醍醐天皇崩御の事」をぜひ読んでみてください。

※文中の和暦は南朝側で表記しています


【主な参考文献】
  • 長谷川端 校注・訳『太平記』<全四巻> 小学館(1997年)
  • 五味文彦、鳥海靖『新もういちど読む 山川日本史』山川出版社(2017年)

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  この記事を書いた人
まつおか はに さん
はにわといっしょにどこまでも。 週末ゆるゆるロードバイク乗り。静岡県西部を中心に出没。 これまでに神社と城はそれぞれ300箇所、古墳は500箇所以上を巡っています。 漫画、アニメ、ドラマの聖地巡礼も好きです。

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