コフンのカタチ ~古墳にはなぜ様々な形があるのか?〜
- 2024/04/11
例えば、不定期ではありますが、“○○にオススメな古墳” を紹介してくれるバラエティー番組が何回か放送されています(某国営放送局)。また、某民放で放送された裁判官を描くドラマには古墳の形をした “古墳クッション” がさりげなく登場してブームにもなりました。
ちなみにこの “古墳クッション” は、関西地区で放送されていた夕方の情報番組内でも特集が組まれたほどの大人気アイテムです。
つまり今、古墳がアツいのです!!そこで皆さんがさらに “古墳にコーフン” できるよう、今回は「古墳の形」について説明します。
古墳の形
現在、古墳の形は以下の12種類が確認されています(今回は土を盛って造った塚状の古墳に限定します)。- ① 前方後円墳
- ② 前方後方墳
- ③ 円墳
- ④ 方墳
- ⑤ 帆立貝形古墳
- ⑥ 双円墳
- ⑦ 双方墳
- ⑧ 双方中円墳
- ⑨ 双方中方墳
- ⑩ 上円下方墳
- ⑪ 八角墳
- ⑫ 六角墳
それにしても、なぜこんなにも様々な形の古墳があるのでしょうか?
エジプトのピラミッドや中国の始皇帝陵のように世界の王墓の主流は“四角”(古墳で言うなら方墳)です。しかし、日本の古墳の形がこのように多様なのにはキチンと理由があるのです。
その理由を説明するにあたり、まずは古墳時代前の墓について触れておかなければなりません。
弥生時代のお墓「墳丘墓」
墳丘墓の持つ意味
縄文時代は基本的に皆平等で、誰もが共同墓地に葬られていました。しかし弥生時代になると、首長や巫女といった指導者には特別な墓が造られるようになります。巨石を置いて目印をつけた支石墓(しせきぼ)や、周りを濠で囲んだ周溝墓(しゅうこうぼ)、さらに発展したのが周りから目立つように塚(墳丘)を持つ墳丘墓(ふんきゅうぼ)です。
このように弥生時代中期から、指導者の墓は外界と墓とを区別するために周濠を掘り、目立つように塚を築いて、特別感を強調していきます。また、墳丘墓からは “祭器”として当時使用されていた青銅器が発見されることが多いため、“祭祀の場”であったことも窺えます。
つまり、この時期から指導者の墓は単純な埋葬施設から “神聖で特別な場所” になったのです。
さらに発展した墳丘墓
埋葬するだけではなく、祭祀まで行なうとなると、周濠を渡り、墳丘を登らなければなりません。そこで、墳丘の周りをぐるっと1周取り囲むように周濠を掘るのではなく、一部は掘らずに残すようになっていきました。こうすれば、残しておいた部分は墳丘へ渡る土橋状の参道となります。そしてこの参道は次第に大きく広くなっていきます。
例えば、岡山県倉敷市にある「楯築墳丘墓」の前後に付いた20mの突出部や、島根県など日本海側で見られる「四隅突出型墳丘墓」の四隅は墳丘部への参道と考えられます。
前方後円墳? 纒向型墳丘墓の登場
弥生時代後期(3世紀前半)、纒向(まきむく。現在の奈良県桜井市)に全長100m前後の巨大な墳丘墓が次々と造られます。 この纒向型墳丘墓は円形墳丘墓の前に幅広な参道(方型突出部)を付属させたもので、形ははっきり言って前方後円墳そのものなので、これは墳丘墓ではなく、古墳(前方後円墳)の “初期型” と考える研究者もいます。
また、奈良地方から離れた東海地方~東日本では、方形墓に参道(方形突出部)を設けた前方後方墳丘墓が登場します。これが前方後方墳の起源となります。
指導者の墓は祭祀的役割もあったため、墳丘への参道が必要でした。その参道が発展して前方部となり、“前方後円墳(前方後方墳)” という特徴的な形になったと考えられます。
纒向(まきむく)の巨大前方後円墳が与えた影響
そして3世紀末、纒向型墳丘墓の近くに全長280mの「箸墓古墳(はしはかこふん)」が造られます。「古墳時代はこの箸墓古墳が造られた頃から始まる」というのが今の一般的な考えになっています。 纒向型墳丘墓や箸墓古墳など、纒向遺跡が与えた影響は非常に大きかったようです。大和政権は纒向と同じ奈良県を中心に発展しますので、墓形は纏向型を採用したでしょう。ですから、大王や大和政権に近い存在だった者の墓は前方後円墳になります。
一方で、奈良から離れた所に起源を持つ前方後方墳は、どうしても前方後円墳より格下の扱いを受けます。大和政権による被葬者の格付けによって墳丘の大きさだけでなく形にも影響を与えたわけです。
格下な古墳、円墳と方墳
全国に約16万あるといわれる古墳ですが、その数は「コンビニの3倍!」とよく言われます。中でもダントツに多い形が円墳です。逆に海外の王墓によく採用される方墳は円墳ほど多くありません。これらの形の起源は弥生時代の墳丘墓ですから前方後円墳や前方後方墳より先輩になります。
しかし、円墳と方墳は前方後円墳や前方後方墳に比べ、
- 構造が簡単で比較的造りやすい形
- 規模が小さいものが多い
ことから、前方後方円墳や前方後方墳よりも“格下の墓”と考えられています。
さらに、指導者が葬られる大型古墳(主墳)の近くに造られた従属的な人物が葬られる古墳(陪塚)は方墳が多いため、“方墳が最も格下”と考えられます。
古墳の形は格付けを意味していた!
ここまで紹介した4種を整理すると、大和政権下では被葬者の格付けによって「前方後円墳→前方後方墳→円墳→方墳」という序列で古墳の形が決まっていたわけです。進化する前方後円墳と帆立貝形古墳の誕生
大和政権の力がさらに強大になると、前方後円墳も次第に巨大化していきます。特に前方部はより大きく広くなり、古墳を壮大に見せるのに役立つようになります。しかし、それと正反対の動きも見られるようになります。極端に前方部を小さく低く造った“帆立貝形古墳”の登場です。大和政権により、派手な前方部の築造を禁止させられた残念な方の墓と考えられています。つまり、これも格付けを意味しています。
姿を消す前方後方墳
逆に早々に姿を消していくのが前方後方墳です。元々、大和で盛んに造られた形では無かったのが原因でしょうか?ただし、出雲を中心とした日本海側では古墳時代末期まで造られ続けました。出雲も大和政権下ではありますが、そこまで与する関係ではなかったのかも…。
勢いを増す円墳
一方で、各地ではこれまでの前方後円墳と同規模で“造出し”という小さい方形部が付く大円墳が造られるようになります。さらに古墳時代後期になると、“家族の墓”としても古墳が造られるようになります。
その際は、築造後も何度でも死者を葬ることができる(追葬)横穴式石室を持つ小型の円墳が選ばれ、自分たちが住む所から近い見晴らしの良い所に纏めて造られるようになります。所謂「群集墳」の発生です。
特別な扱いとなる方墳
古墳時代末期、最も格下だった方墳は全国では姿を消しつつありました。その頃、大和政権の王(大王)と並ぶほど権力を持つ豪族“蘇我氏”が登場します。この蘇我氏は海外(大陸文化)に精通していたからか、海外の王墓の主流である方墳を積極的に採用します。また、蘇我氏に所縁がある用明・崇峻・推古天皇の墓といわれるものも全て方墳です。
こうして局地的ではありますが、蘇我氏によって特別扱いを受けた方墳は古墳時代末期まで造られます。
様々な形の古墳が生まれる
古墳時代中期以降には、円墳を2個隣り合わせにくっつけた“双円墳”や、方墳を同様にくっつけた“双方墳”という独特な形の古墳も生まれます。これは左右それぞれに埋葬施設があり規模も同等なので、それぞれの被葬者は対等で親しい関係だったのでしょうか? しかし、あまりにも例が少ないため詳しいことが不明な墳形です。
また、円墳の前後に造出しより大きい突出部を付けた“双方中円墳”や、円墳の部分が方墳になっている“双方中方墳”という古墳もあります。
この2種は非常に形が似ています(中央が円形か方形か)が、意味合いは異なるようです。
双方中円墳は主に古墳時代前期に造られた比較的古い墳形ですので、先で紹介した楯築墳丘墓と同じで、円形墳丘墓につながる前後の参道が大型化したものと思われます。
一方で、双方中方墳は古墳時代中期ごろに造られています。これは古墳を立派に見せるために造出し部を大型化させたものと思われます。
大陸文化が新たな形を生む
古墳時代後期に差しかかる6世紀、日本に仏教をはじめとする様々な大陸の文化が入ってきます。そして古墳の形にも影響を与えます。古代中国の宇宙観である「天円地方」を体現したのが、方墳の上に円墳を載せた“上円下方墳”です。
また、道教の考えである「八角形は天下八方を治める者の象徴」に影響され、墳丘を八角形にしたのが“八角墳”です。よって、天皇陵に採用されることが多くなります。
また、天皇に準ずる者(皇太子や皇子クラス)の陵墓として墳丘を六角形にした“六角墳”も数は少ないながら登場します。これは八角墳より格下であることを表しています。
古墳は古代の秘密が詰まった宝箱
いかがでしたか?古墳の形だけで、これだけ歴史的背景が見えてきます。ということは、古墳の中身まで調べると、さらに色々なことが分かるわけです。まさに「古墳は古代の秘密が詰まった宝箱」ですね。皆さんの近所にも古墳はきっとあるはずです(だって、コンビニの3倍だもの)。お暇な時は、ぜひ古代の宝箱である古墳でコーフンしてみてください。
【主な参考文献】
- 『古墳解読 古代史の謎に迫る』武光誠 河出書房新社(2019年)
- 『知識ゼロからの古墳入門』広瀬和雄 幻冬舎(2015年)
- 『日本の古代を知る 古墳まるわかり手帖』広瀬和雄 二見書房(2023年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄