三管領・畠山氏の重要拠点にして、キリスト教布教の先端地!「若江城」の歴史について

帯刀コロク
 2021/01/15

若江城跡(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%B1%9F%E5%9F%8E" target="_blank">wikipedia</a>)
若江城跡(出所:wikipedia

室町時代、将軍をサポートして幕政を統括した「管領」。 実務上の幕府最高権力といえる役職で、三つの家が代わる代わるその座に就いたことから「三管領」とも呼ばれています。

そのうち河内国などの守護を務めたのが「畠山氏」で、氏族内での内紛もあり河内は長期にわたる政情不安にさらされました。

今回はそんな畠山氏の重要拠点のひとつ、河内「若江城」の歴史について見てみることにしましょう。

若江城とは

若江城は現在の大阪府東大阪市若江南町に所在、河内の平野部ほぼ中央に位置し、玉串川と天然の外堀となる楠根川に挟まれた完全な平城です。

その規模はいまだ完全に解明されていませんが、一説には南北約280メートル・東西約380メートルにもおよぶ巨大な城域をもっていたとされています。

若江城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

正確な築城年代は定かではありませんが、弘和2/永徳2(1382)年に畠山基国が河内国守護に就任したことで築かれたと考えられています。

代々河内国の守護職を務めた畠山氏の重要拠点であり続けましたが、同一氏族内の内紛や応仁の乱以降のパワーバランスにより度々戦場となり、城主も敵対派閥同士で入れ替わっていく歴史が確認できます。

文正元(1466)年には河内国守護代の遊佐長直が若江城の守備に就き、以降は遊佐氏の居城として知られるようになります。

若江城と河内をめぐる目まぐるしい攻防戦のなか、その歴史の詳細は不明な時期がありますが、15世紀初めごろには若江氏や堀江氏が城主となった記録が残されています。

畠山氏はやがて没落し、永禄11(1568)年に織田信長が上洛。それにともない河内半国守護として三好義継が若江城の城主となります。

しかし元亀3(1572)年、松永久秀が信長から離反すると義継もこれに呼応。若江城に籠城し翌年信長軍の攻撃で落城します。以降は若江三人衆が居城し、紀州勢力や本願寺勢力との戦闘のため度々信長が陣を張りました。

正確な廃城の時期は定かではありませんが、天正8(1580)年頃には若江三人衆は八尾へと移転。天正10(1582)年の書簡にも、若江の地に城はなく領主は八尾にいるという旨が記されています。

昭和47~48(1972~73)年に発掘調査が実施され、水路跡や壁面遺構などが確認されています。

まとめ・略年表

信長が支配した時代の若江城下では、若江三人衆の一人「池田丹後守教正」が熱心なキリシタンだったこともあり、キリスト教布教が活発でした。

教会も建てられ、その様子は宣教師の「ルイス・フロイス」も記録しています。武士・一般人を含む数十人がここで洗礼を受けた事実もあり、若江城下は当時の日本におけるキリスト教の先端地として知られていたようです。

※参考:略年表
弘和2年/永徳2年
(1382年)
河内国守護・畠山基国により築城(推定)
応永5年
(1398年)
畠山基国が室町幕府管領に就任
応永13年
(1406年)
畠山満慶が若江城主に
応永15年
(1408年)
畠山満家が若江城主に
応永17年
(1410年)
満家が室町幕府管領に就任。以後20年弱の間で退任と再就任
享徳3年
(1454年)
畠山持国の庶子・畠山義就が家督相続。以後、畠山政長と対立
康正元年
(1455年)
畠山義就が河内国守護に就任
長禄4年
(1460年)
竜田神南山の戦いで若江城が戦場に。畠山政長が家督相続
寛正3年
(1462年)
畠山義就が敗北、紀州へ逃亡
寛正4年
(1463年)
畠山政長が河内国守護に就任、上洛のため若江城に入城
文正元年
(1466年)
河内国守護代・遊佐長直が若江城を守備
同 年畠山義就が若江城を攻撃、遊佐長直は撤退
文明2年
(1470年)
政長方の若江城が西軍越智氏らの攻撃を受ける
文明3年
(1471年)
畠山尾張守が若井衆と記録される
文明9年
(1477年)
若江城が河内国守護代・遊佐氏の陣と記録される
同 年政長方の若江城が義就方の攻撃を受ける
明応2年
(1493年)
足利義稙が畠山義就征討のため河内に出陣。陣立の文書に若井の地名が記録
天文6年
(1537年)
若江城主・若江兼俊らが高野山へ追放。堀江時英が新城主に
永禄3年
(1560年)
三好勢の四国衆が若井に陣を張る
永禄11年
(1568年)
織田信長が上洛。河内半国守護として三好義継が若江城に
永禄12年
(1569年)
三好三人衆が京の足利義昭を攻撃、若江城主・三好義継が発行
元亀元年
(1570年)
三好三人衆の河内攻撃に、義継発向。のち若江城に籠城
元亀3年
(1572年)
松永久秀が織田信長から離反し信貴山城に籠もり、義継は若江城に籠城
天正元年
(1573年)
信長に敗北した足利義昭が、若江城へと逃れる
同 年信長方の攻撃で若江城は落城。のち、若江三人衆が居城
天正3年
(1575年)
信長が三好康長攻撃のため、若江城に陣を張る
同 年佐久間信盛が石山本願寺攻撃のため、若江城に陣を張る
天正4年
(1576年)
信長が本願寺方攻撃のため若江城に陣を張る。同年、若江城下にキリスト教会堂建設
天正5年
(1577年)
信長が紀州雑賀及び本願寺方攻撃のため、この年に再三若江城に入城
同 年宣教師オルガンチノが、若江城下で武士や婦女の洗礼を行う
天正6年
(1578年)
信長が九鬼嘉隆建造の軍船査察のため、若江城に宿泊
天正8年
(1580年)
若江城が廃城(推定)。若江三人衆は八尾方面に移転
天正10年
(1582年)
クエリヨ書簡にて、若江に城はなく領主が八尾に所在する旨が記載
昭和47~48年
(1972~73年)
発掘調査実施

【主な参考文献】
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 「総会と歴史探訪 若江城址をさぐる」『東大阪文化財を学ぶ会 会報№110』 南 光弘 2019 東大阪文化財を学ぶ会
  • 『東大阪市内にある歴史文化遺産の調査及びその活用についての提言』 近畿大学文芸学部文化・歴史学科 大阪樟蔭女子大学学芸学部 研究代表 網 伸也 2016 平成27年度東大阪市地域研究助成金報告書
  • 『日本史蹟体系.第10巻』 熊田葦城 1936 平凡社
  • OSAKA INFO 大阪観光局公式サイト 若江城跡

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...

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