【愛知県】安城城の歴史 織田と今川の最前線として、両軍が激闘を繰り広げた城
- 2023/01/07
徳川家康生誕の城・岡崎城から矢作川を渡り、はるか西に位置するのが安城(あんじょう)城です。安祥城とも書きますが、この城は尾張の織田氏と、駿河・遠江を領する今川氏がぶつかる最前線に位置していました。三河国主・松平氏が衰退する中、安城城では激しい攻防戦が繰り返され、まさに戦略上の焦点となったようです。今回は安城城の歴史について紹介していきたいと思います。
【目次】
安祥松平氏の本拠となった安城城
現在の安城城址から名鉄西尾線を挟んだ場所に、安城古城という史跡があります。ここは鎌倉時代の地頭・安藤氏の居館でしたが、室町時代になると畠山氏の流れを汲む和田氏が居を構えました。やがて永享の乱で三河守護・一色義貫が討伐されると、事態を憂慮した和田親平は新しい本拠とするべく、永享12年(1440)に築いたのが安城城です。北西から伸びる舌状台地の先端に位置し、西と南に低湿地が広がっていたことから、すこぶる守りに適していました。
ちょうどこの頃、三河山間部の加茂郡松平郷で興った松平氏が頭角を現しています。3代信光が岩津(愛知県岡崎市)へ進出すると、額田郡牢人一揆などの鎮圧に功があったことで勢力を伸ばしました。また各地へ一族を分派することで地盤を固めています。
『三河物語』によれば信光の威勢は比肩する者がなく、三河の1/3まで手中に収めたとも。さらに信光は応仁の乱のどさくさに紛れて岡崎城と安城城を手に入れています。
その後、永正年間に今川氏の侵攻を受けたことで岩津松平氏は衰退しますが、代わって惣領の地位を得たのが安城城に拠る安祥松平氏でした。この安祥家4代の間に城は拡張整備されたものと考えられます。そして大永4年(1524)、松平清康の頃に岡崎松平氏当主・松平昌安を追放したことで、いよいよ岡崎城へ本拠を移すのです。
清康は英邁な当主だったらしく、瞬く間に三河一国を支配下に収めました。また尾張の織田氏とたびたび干戈を交えるなど、その威勢はかなりのものだったようです。
松平氏の弱体化に伴って織田の支配下となる
事実上の三河国主となった清康ですが、天文4年(1535)に家臣によって殺されてしまいます。これがいわゆる「森山崩れ」と呼ばれる事件ですが、ここから松平氏は苦難の道を歩むことになるのです。清康が亡くなり、跡を継いだ広忠が幼いことで家中の結束は乱れ、さらに大叔父・松平信定が野心を起こしたことで、広忠は追放されてしまいました。そして各地を転々としていた広忠の身柄を保護したのが今川義元です。義元は軍事力にモノを言わせて広忠を岡崎城へ帰還させ、謀反を起こした信定との和解を斡旋しました。これが松平氏にとって今川氏に従属するきっかけとなります。
しかし一連の混乱の中、統率力を欠いた松平氏の弱体化は止められません。その弱みに付け込んだのが尾張の織田信秀でした。西三河の要衝・安城城に狙いを付け、天文9年(1540)に3千の兵を繰り出します。もし安城城を取れば、あとは岡崎城まで4キロほどの距離しかなく、矢作川流域の低地が続くことでさしたる障壁もありません。
一方、広忠は安城城に一族の長老・松平長家を置いて1千の兵で守らせていました。しかし数に勝る織田軍は主力を北の高台に配置し、南に水野勢を進ませます。そして南北から挟み撃ちに出たのです。衆寡敵せず長家は戦死し、安城城は織田の手に落ちました。
安城城の失陥は松平氏にとって大きな打撃となり、一門の松平清定や松平重弘らの離反を招きます。こうなった以上、広忠にとって今川氏を頼る以外に打開策などありません。
安城城を奪われてから2年後の天文11年(1542)、織田と今川・松平連合軍の激突となった第一次小豆坂の戦いを迎えるのですが、この戦いはなかったという説もあるようです。
たしかに今川義元は北条氏と対峙した第一次河東の乱でそれどころではなく、兵を西へ送る余裕があったかどうか定かではありません。また同時代の史料には、小豆坂で戦いが起こったことを示す記載は見当たらないのです。
しかし『信長公記』首巻には、天文11年に小豆坂で戦った信秀の弟・与二郎の名が見えており、『新修名古屋市史』によれば、与二郎が天文16年に稲葉山城下で戦死したことを挙げ、実は第一次小豆坂の戦いがあったことを示唆しています。
現実に合戦があったとしても、この戦いは織田方の勝利に終わり、松平氏が安城城を取り戻すことはできなかったようです。
安城城の奪還と今川氏による間接支配
第一次小豆坂の戦いの結果、織田氏の影響力が西三河へ及びました。岡崎の喉元へ刃を突き付けられた以上、松平広忠はもはや独力で織田氏に対抗することは叶いません。そこで今川氏に対して全面的な軍事支援を要請しました。6歳の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を人質として駿府へ送ることで関係強化を図るのですが、護送の任にあたった戸田康光が突如裏切り、竹千代の身柄は織田方へ引き渡されてしまうのです。しかし今川義元は松平氏援護の姿勢は崩さず、今川氏の勢力は三河へ食い込む形となりました。いわば西三河一帯は両者の草刈り場の様相を呈したわけです。
天文17年(1548)、義元は太原雪斎を大将に任じて、安城城の奪還を命じました。いっぽう織田信秀も先手を打って矢作川を渡って東岸に陣を敷きます。こうして第二次小豆坂の戦いが始まりました。この合戦の様子は『三河物語』で詳しく描写されています。
「其時之合戦は対々トハ申せ共、弾正之忠行方ハ二度追帰サレ申。人モ多打レタレバ駿河衆之勝と云。其より駿河衆ハ藤河え引入、弾正之忠は上和田へ引て入。其より案祥へ引テ、案祥にハ舎弟小田之三郎五郎殿ヲ置給ひて、弾正之忠は清須え引入給ふ。三河にて小豆坂之合戦トツタエシ此事にて有。」
「弾正之忠」とは織田信秀を指し、駿河衆とは今川軍のことです。今川軍に押された織田軍はいったん矢作川東岸の上和田まで退却し、そこで背後の安全を確保したのち、安城城へ退却しています。そして庶長子・信広を安城城に置いたあと、自らは清須へ帰陣したと書かれていますね。安城城を守ることで、何としても西三河を確保しておきたい意思の表われでしょう。
ところで当時の安城城の様子ですが、本丸は55メートル四方、二ノ丸は35メートル四方の正方形になっていて、周囲には2重の濠がめぐらされていました。また曲輪内には高さ2メートルほどの土塁が築かれており、土塁上にある高櫓から矢作川沿いの低地を見渡すことができたそうです。ごく一般的な中世の平山城といった雰囲気でしょうか。
さて、第二次小豆坂の戦いがあった翌年、松平広忠が若くして亡くなります。これは今川氏にとって由々しき事態ですが、ここで今川義元が動きました。すぐに朝比奈泰能や鵜殿長持らを岡崎城へ派遣して接収させ、さらに雪斎に命じて7千の大軍で安城城を攻めさせたのです。
注目されるのは雪斎が「織田信広を生け捕りにせよ」と命じていることでしょうか。つまり、雪斎は織田の手中にある竹千代と信広の人質交換を考えており、だからこそ信広を殺してしまうわけにはいかなかったのです。
やがて城は落ち、信広の身柄は生きたまま確保されました。すかさず雪斎は信秀の元へ書状を送り付け、人質交換を申し出ています。こうして今川氏は竹千代を手に入れると同時に、三河全域を間接支配することに成功しました。
存在価値を失って廃城となる
永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が戦死したことで、竹千代こと松平元康は独立の好機を得ました。そして岡崎城へ帰還を果たすと、公然と今川氏に反旗を翻します。そして家康と改名したのち、かつての仇敵だった織田信長と清州同盟を結びました。こうして西の安全を確保した家康は三河全域を手中に収めていくのです。さて織田氏に対する前衛基地として機能した安城城ですが、信長と同盟を果たしたことで、その存在価値を失いました。そして永禄5年(1562)頃に廃城になったようです。それ以来、城址は木が生い茂る森となり、森城と呼ばれたとか。その後、江戸時代中期になって了雲院大乗寺が跡地に移転されました。これは家康の遠祖である松平親忠が創建した寺院です。
現在の城跡は安祥城址公園として整備され、大乗寺の他に安城市歴史博物館や安城市埋蔵文化財センターなどが建ち並びます。
おわりに
織田・今川の最前線にあたる城として攻防の歴史を重ねた安城城ですが、今川氏の衰退そして清州同盟の成立によって、その役目を終えました。今では曲輪や堀の一部がわずかに確認できるほどです。しかし現在でも戦死者を弔った塚や墓石がありますし、城の面影を偲ばせる遺構も残っています。また敷地内にある歴史博物館では安城市の歴史を学べますから、戦国時代の三河を体感する意味でも、訪れてみる価値はあるでしょう。
補足:安城城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
鎌倉時代 | 地頭職の安藤氏によって居館が築かれる。(安藤古城) |
室町時代初期 | 畠山氏の流れを汲む和田氏が本拠を構える。 |
永享12年 (1440)年 | 和田親平が新城を築城し、拠点を移す。(安城城のはじまり) |
応仁・文明年間 | 松平信光が奇襲によって安城城・岡崎城を落とす。 |
永正5年 (1508) | 今川氏の名代として伊勢宗瑞が三河へ侵攻。安祥家の松平長親がこれを退ける。 |
大永4年 (1524) | 安祥家の松平清康が松平昌安を追放。岡崎城へ本拠を移す。 |
天文4年 (1535) | 森山崩れによって松平清康が不慮の死を遂げ、嫡男・広忠が跡を継ぐ。 |
天文9年 (1540) | 第一次安城合戦。安城城が織田氏の支配下となる。 |
天文11年 (1542) | 第一次小豆坂の戦い。織田氏の勝利に終わる。 |
天文14年 (1545) | 第二次安城合戦。松平広忠が安城城の奪還を図るも失敗。 |
天正17年 (1548) | 第二次小豆坂の戦い。今川・松平連合軍の勝利に終わる。 |
天文18年 (1549) | 松平広忠が死去。今川氏が岡崎城を接収する。同年、第三次安城合戦。安城城が陥落する。 |
永禄3年 (1560) | 桶狭間の戦いで今川義元が敗死。 |
永禄5年 (1562) | 清州同盟の締結によって存在価値を失った安城城が廃城となる。 |
寛政4年 (1792) | 城跡に了雲院大乗寺が移転。 |
昭和54年 (1979) | 市民の憩いの場として安祥城址公園が開園。 |
平成3年 (1991) | 安城市歴史博物館が開館。 |
【主な参考文献】
- 南条範夫・奈良本辰也「日本の名城・古城辞典」(ティビーエス・ブリタニカ 1989年)
- 大塚勲「戦国大名今川氏四代」(羽衣出版 2010年)
- 小和田哲男「今川義元 自分の力量を以て国の法度を申付く」(ミネルヴァ書房 2004年)
- 安城市公式HP 「安祥城址(安城城跡)」
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