What’s Heian? ~平安時代を復習しよう~
- 2024/03/06
「えっ?そういえば、そうだった…。」
と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか? ”12年ぶりの平安時代” ということより、”平清盛が活躍した時代が平安時代” という気づきのほうが強いのでは?
平安時代といえば、『光る君へ』に出てくるような公家や貴族たちが“オホホホ…”と笑っているようなイメージが強く、『平清盛』のように弓矢や刀を持って戦うイメージは弱いと思います。
しかし、
・794年に桓武天皇が平安京へ遷都・・・平安時代のはじまり
・1192年(1185年?)に鎌倉幕府が開府・・・鎌倉時代のはじまり
ですから、平安時代は 約400年 続いたことになり、この間ずっと同じ世の中であるはずはありません。そこで、平安時代はどんな時代だったのか復習してみましょう。
平安時代は“4つのターム”に分けて捉えよう
平安時代は “時の権力者” に注目してみると、4つのタームに分けることができます。- 第1ターム「天皇の時代」
- 第2ターム「貴族の時代」
- 第3ターム「上皇の時代」
- 第4ターム「武士の時代」
非常に単純ですが、このターム分けができていると平安時代をしっかりと捉えることができます。では、早速それぞれのタームをみていきましょう。
第1ターム「天皇の時代」
桓武天皇は延暦3年(794)、政治への影響力を強めた奈良の仏教勢力から離れ、天皇中心の律令政治をたてなおすために、現在の京都に都を移します(平安京遷都)。 桓武天皇やそれ以降の天皇たちの目的は 天皇中心の強い中央集権国家 でした。そこで、これまでの律令政治を見直し、律令では対応できない問題においては、
- 律令に規定されていない新たな官職 “令外官” を設ける
- 律令の規定を改める“格”とその施行細則である“式”の整理
など、意欲的に政治体系を整えつつ、“公営田” を設けて租税体系を見直して収入を増やし、天皇の権力を非常に強くすることに成功しました。
ちなみに「律令」の “律” とは刑法にあたるルール、“令” は政治を行うためのルールのことです。この平安遷都(794)から清和天皇即位(858)くらいまでの “約60年” が第1ターム「天皇の時代」となります。
第2ターム「貴族の時代」
天皇の権力が強くなると、次はその権力を利用しようとする者が現れます。それが藤原氏(北家)です。天安2年(858)に清和天皇が幼少で即位すると、外祖父(母方の祖父)であり太政大臣であった藤原良房が政治を掌握し始めます。貞観8年(866)に起こった応天門の変をきっかけに、清和天皇は「太政大臣に天下の政治を摂り行わせる」として、良房は正式に摂政となります。
また、良房の養子となった藤原基経の尽力によって即位した光孝天皇は「天皇を助け、百官をひきいて政治をとるように」と基経に命じ、次に即位した宇多天皇は「すべて太政大臣に関(あずか)り白(もう)させる」ことにしたのです。
これが “関白”のはじまりになります。
この後、一旦は天皇が摂政・関白を置かず、政治の実権を取り返そうとしますが、安和2年(969)の安和の変以降、常に摂政・関白がおかれ、藤原氏がその地位を独占するようになります。
こうして清和天皇即位(858)から “約200年” あまり、藤原摂関家を中心とする第2ターム「貴族の時代」が続くことになります。
第3ターム「上皇の時代」
ここで中学校の歴史の問題です。皆さんも中学生のころを思い出して答えてみてください。- 問題1:聖徳太子の行なった政治の目的は?
- 問題2:大化の改新の目的は?
- 問題3:聖武天皇が奈良に大仏を造った理由は?
- 問題4:桓武天皇が平安京に都を移した理由は?
いかがでしょうか?難しく答える必要はありません。さて、答えは・・・
- 問題1の解答:(仏教の教えに従い)天皇中心の中央集権国家をつくる
- 問題2の解答:(豪族の力を抑え)天皇中心の中央集権国家をつくる
- 問題3の解答:仏教の力で国を治める
- 問題4の解答:(奈良の仏教勢力を抑え)天皇中心の中央集権国家をつくる
なんと、問題3(聖武天皇)以外は、殆ど同じ答えで 〇 がもらえるのです。
つまり、当時の日本は “天皇中心の中央集権国家” こそが本来あるべき姿だったのでしょう。そこで、貴族に奪われた政治の実権を取り戻そうと考えた天皇が登場します。それが白河天皇です。
白河天皇は応徳3年(1086)に幼少の堀川天皇へ譲位します。天皇が幼少の場合に、その補佐をして政治を行うのが摂政という役職です。白河天皇はそこを狙いました。退位後に自ら “上皇” として御所に院庁をひらき、天皇の後見として政治の実権を握りめたのです(院政のスタート)。
これまで政治の実権を握っていた摂政や関白は、天皇を補佐して政治を行う役職ですが、上皇を補佐して政治を行う役職など、日本には存在しません。こうして白河上皇は、これまでのルールや摂関家の影響を受けることなく、政治の実権を取り戻すことに成功したのです。
その後の天皇も次々と上皇になって院政を行ったため、この第3ターム「上皇の時代」は100年余り続くことになります。
第4ターム「武士の時代」
院政により摂関家の力が低下すると、今度は朝廷内で対立が起こり出します。それが“上皇と天皇”の対立です。当時の天皇は後白河天皇でしたが、兄である崇徳上皇が院政を行なっていました。後白河天皇はそれを良しとせず、摂関藤原家の内部対立や寄進された荘園の支配権など様々な要因も重なり、天皇と上皇の対立は武力衝突にまで発展します。
この時、活躍したのが武士です。
武士は元々、勢力を伸ばすために武装化した地方豪族たちです。この時代、宮中を警護をする“滝口の武士”や院を警護する“北面の武士”として都では多くの武士が雇われていました。
保元元年(1156)、後白河天皇は源義朝や平清盛を、崇徳上皇は源為義・為朝や平忠正を主力として戦います。いわゆる「保元の乱」です。
この戦いに勝利した後白河天皇は崇徳上皇を讃岐へ配流し、政治の実権を握ります。
…と、ここまでは良かったのですが、後白河天皇にとって想定外の展開が起きます。保元の乱後、上皇になった後白河側の武士である源義朝と平清盛が、“武家の棟梁”の座をかけて対立し始めたのです。
ここに後白河上皇の近臣である藤原通憲(信西)と藤原信頼の対立が絡んで平治元年(1159)に「平治の乱」が起きます。そして、この戦いに勝ったのが平清盛です。
圧倒的な武力と日宋貿易によって蓄えた財力で、平清盛は仁安2年(1167)に後白河上皇から武士として初めて“太政大臣”に任命されました。また、清盛の娘である徳子は高倉天皇の中宮となって後の安徳天皇を産みます。
このように、武家でありながら朝廷内で急速に力をつけた平家は、治承3年(1179)には後白河上皇を政治の表舞台から外します。さらに多くの貴族から官職を奪い、全国の半分に近い知行国を手に入れて政治の実権を独占します。
なお、平家による政治はそれまでの朝廷による支配体系とほぼ同じだったとはいえ、武家が初めて政治の実権を握ったことは事実です。
この平清盛が太政大臣になった時(1167年)から鎌倉幕府成立(1185?1192?年)までの “約20年” が第4ターム「武士の時代」になります。
おわりに:平安時代は次につながる重要な時代だった
平安時代は約400年の長い期間でしたが、4つのタームに分けて捉えてみると、前の時代(天皇中心)から次の時代(武士中心)に繋がる重要な時代だったことが分かりますね。ちなみに
- 1167年、平清盛が太政大臣・・・武士中心の世が始まる
- 1867年、江戸幕府の滅亡・・・武士中心の世が終わる
と考えると、武士の世はジャスト700年! 下2桁が同じ年というのは運命的なものを感じざる得ません。(後醍醐天皇の“建武の新政”が途中3年入りますので、正しくは697年ですが・・・)
やっぱり歴史は面白いですね!!
【主な参考文献】
- 五味文彦、鳥海靖『新もういちど読む 山川日本史』(山川出版社、2017年)
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