琳派の祖・俵屋宗達 江戸初期に活躍した絵師の生涯と作品

 俵屋宗達(たわらや そうたつ、 ?~1643)は尾形光琳に代表されるような多くの絵師に影響を与えた琳派(りんぱ)の祖とされ、江戸初期の京を代表する芸術家の1人である。海外にも宗達の作品が所蔵され、多くのファンがいるという。

 魅力的な作品を次々と生み出し、後世に多大なる影響を与えた宗達とは、いったいどのような人だったのか。今回は、数少ない史料と豊富な作品から見える俵屋宗達という絵師に迫ってみた。

俵屋宗達の活躍した時代

 俵屋宗達が活躍したのは、江戸初期の京である。天才的なマルチプロデューサーであった本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)との出会いが宗達の活躍に大きな影響を与えた。

 しかし、近世の日本を代表する芸術家であるにもかかわらず、宗達の生没年はおろか、青年期までの経歴もはっきりしていない。

宗達の生い立ち

 宗達の生年は定かではないが、彼と交流があったと伝わる儒学者の角倉素庵(すみのくらそあん)や歌人の烏丸光弘と同年代だとすると、おそらく1570年あたり、和暦なら永禄・元亀の生まれかと考えられている。

 幼少期についても詳しいことはわからないが、その才能やのちの活躍から考えて、芸術に接することが出来るだけの経済力がある家に生まれていたのではないだろうか。

絵画工房「俵屋」

 宗達は、京で「俵屋」という絵屋を営んでいたようだ。絵屋とは、扇絵や屏風絵、料紙(かなの書を書くために装飾や加工を施した紙)の下絵などを請け負う工房のことで、京の豪商や権力者などが利用していたという。

 中でも「俵屋」の宗達が手掛けた扇絵はとても人気が高かったようだ。

本阿弥光悦との出会い

 歴史上で宗達が描いた初めての作品とされているのは、平家納経の修復に関わって描いた表紙絵である。

 平清盛が平家の繁栄を祈願して厳島神社に奉納した平家納経の修復は、福島正則の命により行われた事業だ。メンバーに入っていた本阿弥光悦が、かねてよりその才能に注目していた宗達を修復作業に加えた。

 これはあくまで私見だが、自身も芸術家として才能あふれる光悦は、才能ある芸術家を見いだし、育てることに関しても大変な意欲があったのではないだろうか。鷹峯の芸術村に多くの芸術家が集まり、さまざまな優れた作品を生み出したことも光悦の後ろ盾があってこそである。

 町の絵師程度では終わらない才能あふれる宗達を、自分のプロデュースでもっと輝かせたい…光悦はそんな欲望を持っていたのかもしれない。

 実際、光悦とコンビを組んだ宗達は、次々と斬新で素晴らしい作品を生み出す。

本阿弥光悦(出典:wikipedia)
本阿弥光悦(出典:wikipedia)

異例の法橋授与

 宗達の作品は高い評価を受け続け、寛永7年(1630)には、「法橋(ほうきょう)」という位を授けられた。後水尾上皇より「楊梅図屏風」ほか三双の屏風を依頼されるなど、皇室や江戸幕府からの依頼も増えてくる。

 「法橋」とは、もともと僧侶に与えられる位の事で、法印・法眼につぐ三位の位である。中世以後は医師や連歌師、絵師などにも授けられるようになっていた。

 このことからも宗達は一流の絵師であるだけでなく、高い教養を持った芸術家として認知されていたことがわかる。

琳派の祖となる

 宗達は、その後も多くの作品を世に送り出し、寛永19年(1642)前後に亡くなったと考えられている。墓は石川県金沢市の法円寺にあるとも、京都の頂妙寺にあるとも言われており、没年も不詳のままである。

 宗達没後100年あまりのちに活躍した尾形光琳(おがたこうりん)。光琳の一字が使われているために彼が流祖と考えられている琳派だが、実は光琳が師事したのは宗達である。

 もちろん直接の師弟関係はない。だが光琳は、宗達が残した多くの作品を模写し、独学でその技法を学んでいたという。光琳没後は酒井抱一(さかいほういつ)が、江戸において琳派を受け継ぐ画法で活躍した。

 師匠から弟子へと引き継がれる技術ではなく、宗達の作品に魅了された絵師たちが、その技法を自ら学び(私淑し)、大きく育てる。そして後世の絵師が宗達や光琳に私淑し、あとを継ぐ。琳派という流派は、たぐいまれなる才能を持った絵師・宗達のパワーを源に何百年もかけて育っていく大樹のようだ。

宗達の作品と作風

 ここからは、俵屋宗達が残した作品を紹介したい。と言っても芸術に関して全く素人の人間が物知り顔で解説をするわけではない。素人なりに宗達の絵についての感想や技法について少々の説明をするだけなので、肩の力を抜いてご覧いただきたい。

 まずは、最も有名なあの作品から。

よく見るととてもユーモラスな『風神雷神図』

 宗達と言えば、まず思い浮かぶのが『風神雷神図』だ。

 これは京都建仁寺に所蔵されている。高精密なレプリカが通常公開されており、拝観料を払えばだれでも見ることができる。

風神雷神図の雷神(『日本近世名画大観 上巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
風神雷神図の雷神(『日本近世名画大観 上巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
風神雷神図の風神(『日本近世名画大観 上巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
風神雷神図の風神(『日本近世名画大観 上巻』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 大きな屏風に描かれた風神と雷神。パッと見た感じは怖そうなのだが、彼らの表情をよく見ると…笑っている。何か面白いことが起こりそうな予感でワクワクしている表情にも見える。じっと見ているとこちらまで楽しくなってきそうだ。もともとはわき役だった風神と雷神が一躍主役に躍り出た画期的な作品で、たらし込みという技法が使われていることでも知られている。

 たらし込みとは、色や水を塗った後にそれが乾かないうちに他の色を塗るという技法で、風神・雷神の乗っている黒い雲の部分に使われている。この技法は、現代でも使われているそうで、宗達から営々とつながっている芸術の力を感じる。

 この『風神雷神図』は、光琳や抱一が模写したものも残っているので、見比べてみると面白い。

光悦とのコラボ『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』

 『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』は、光悦が三十六歌仙の和歌を、宗達が下絵を手掛けている。14メートルにも及ぶ長巻に描かれているのは、鶴の群が海を越え、向こう岸へたどり着く前の様子である。

 自由で伸び伸びとした素晴らしい絵に圧倒されたのか、光悦は巻頭の柿本人麻呂の「人」の字を書き忘れたようで、横に小さく人という字が書き足されている。「弘法も筆の誤り」だ。

※参考:『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』の動画(アイエム)

『四季草花下絵和歌短冊帖』

 光悦とのコラボ作品をもう1つ。こちらは短冊という細長く狭い空間に広がる宗達と光悦の世界を楽しめる。限られた枠の中ながら、その奥に桜が咲き誇っていたり、鶴が力強く飛んでいたりする風景がありありと浮かび上がってくる。

『蓮池水禽図』

 琳派というと、金箔がほどこされた色彩豊かで豪華な絵を想像することが多いが、宗達は水墨画においてもその才能を存分に発揮している。

 『蓮池水禽図』は朝もやに浮かび上がる白い蓮の花が描かれた作品で、たらし込みで描かれた蓮の葉が優しく花を包み、水面には二羽のかいつぶり(水鳥の一種)が泳いでいる。

※参考:京都国立博物館HP 蓮池水禽図

『白象図』

 京都東山の養源院には、宗達が手掛けた襖絵や杉戸絵16面がある。中でも杉戸いっぱいに描かれた白象図は、迫力満点である。大きな体にたくましい脚、そしてこちらをにらみつけるような鋭いまなざしが印象に残る絵だ。

白象図(『日本国宝全集 第57輯』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
白象図(『日本国宝全集 第57輯』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 このほか、養源院に残る宗達作品として、『唐獅子図』『犀図』がある。あくまで私の感想だが、こちらは躍動感があってどこか「風神雷神図」に似ている表情が面白い。

あとがき

 絵心のない私は、もともと絵画鑑賞が苦手だった。だが、人の評論を無視してただ絵を楽しむことは好きだ。全く知識のない状態で、初めてみた宗達の作品は、建仁寺の「風神雷神図」だった。

 宗達の絵からは、技術的なことがわからなくてもすごい力を感じた。本来芸術とはそういうものなのではないだろうか。御託を並べたところで素人には全くわからない。ただ本物を間近で見たときは、感動するし鳥肌が立つ。

 光琳や抱一たちが宗達の作品に出合ったとき、彼らはおそらく私などには想像できないほど、凄まじい才能とパワーを感じたのだろう。それが琳派につながり、今も生き続けている。
当たり前だけど、やっぱり宗達や光悦はすごい人なのだ。


【主な参考文献】
  • 俵屋宗達 新潮日本美術文庫 2008年
  • もっと知りたい俵屋宗達 東京美術 2008年
  • 日本史人物辞典 山川出版社 2000年

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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