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  • 毛利元就
 2019/07/01

「穂井田元清」虎を生け捕りにした元就四男

穂井田元清の肖像画

元就の子としてよく知られるのは、嫡男の隆元、そして次男・元春、三男・隆景の3人です。毛利の「三本の矢」といえばこの3人を指すので、毛利の兄弟として注目されるのは彼らですよね。でも、元就の子は正室腹のこの3人だけではありません。

正室の妙玖が亡くなったあと、元就は複数の側室(誰が継室かは不明)との間に子をなしており、男子は合計で9人いました。 今回紹介するのは、知将として知られる三男・隆景のすぐ下の弟・穂井田元清です。
(文=東 滋実)

元清の出自

元清は天文20(1551)年、元就の四男として誕生しました。通称を少輔四郎といいました。母は乃美弾正忠弘平の娘で、乃美大方(のみのおおかた)と呼ばれた人物で、妙玖亡きあとに継室あるいは側室になった女性でした。

三人の兄との格差

妙玖を母とする上の3人の兄は、父・元就から今後の毛利家を守るよう何度も説かれ、それ以下の弟たちとは別格の扱いを受けていました。元就は有名な三子教訓状において、正妻以外の子を「虫けらのような分別のない子たちが成長しつつある」と称しているのです。

<a href='https://sengoku-his.com/motonari'>毛利元就</a>の妻子の系図
毛利元就の妻子の系図

しかし、元清以下の子らが不遇だったかというとそうではありません。教訓状で「虫けら」扱いはされているものの、続く文章では「普通に成人して人並みになるものがあったなら、憐憫の情を惜しむことなく俸禄を与えてやってほしい」と言っています。

実際、すぐ上の兄である小早川隆景とは特に親しく、彼を慕っていました。すぐ上といっても18歳差で親子ほど年が離れていましたが、兄弟仲は良かったようです。

穂井田(穂田)家の養子になる

永禄9(1566)年、16歳で元服すると、治部大輔元清と称すようになります。そのおよそ10年後の天正3(1575)年、元清は備中猿掛城の城主・穂井田民部少輔元資の養子となり、穂井田(穂田)姓を名乗るようになりました。このころに村上通康(来島通康とも)の娘と結婚しています。

備中攻略では最前線で活躍

天正年間前半の毛利は、織田との戦いに明け暮れます。備中攻略で元清は備中の矢掛城(岡山県矢掛町)の守備を任され、織田との戦いの最前線に立たされます。これを務めあげた元清、勇猛な武将でした。天正6(1578)年の上月城の戦いにおいても、元清は弟の元政とともに戦功をあげています。

以後、中国攻めを指揮した秀吉の軍と戦い、信長が討たれた本能寺の変の後、備中高松城の戦い後に講和がなると、元清は備中中山城(岡山県矢掛町)へ移りました。

毛利 vs 織田の要所マップ城
毛利 vs 織田の要所マップ

豊臣政権下の元清

しばらくは穂井田姓を名乗っていた元清でしたが、天正13(1585)年次男の宮松丸(秀元)が子のない輝元の嗣子になったことで、元清も桜尾城(広島県廿日市市)に移り、自身も毛利姓に戻ります。

2歳年下の毛利家当主・輝元が広島城築城を決意したのが天正17(1589)年のこと。この際、元清は輝元の側近・二宮就辰(なりとき)とともに普請奉行を務めました。築城はなかなか思うように進まず、縄張では黒田官兵衛(如水)の助言も受けたといわれています。

広島城
広島城

朝鮮出兵、虎2頭を生け捕りにする

文禄元(1592)年に始まった秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)においては、毛利は主力として参加しています。元清も参加しており、輝元が病で臥せった際はその嗣子である秀元の代理として毛利軍の総大将となり、軍を指揮することもありました。

虎を生け捕りにして秀吉に贈ったエピソード

朝鮮での虎退治といえば、加藤清正黒田長政のエピソードが有名です。彼らは現地で馬や兵を殺す虎に憤り、恐れることなく退治したことで知られており、勇猛なエピソードとして語り継がれています。

実は、元清も虎を捕らえていたのです。元清は虎を殺して退治したのではなく、生け捕りにして秀吉へ贈りました。日本にはいない虎を実際に見てみたいと思ったのか、秀吉は土産として虎を所望していたのです。元清はその希望通り、2頭の虎を生け捕りにしてプレゼントしたというわけです。

虎のイラスト

生け捕りにするのは、おそらく退治するよりも大変だったのではないでしょうか。もしかすると加藤清正や黒田長政よりもすごいことをやったのかも……?巨大な肉食獣である虎をどのようにして生きたまま秀吉のもとまで送ったのか、気になるところです。

なお、生け捕りにした虎はやはり珍しがられ、京都市中で評判を呼びました。時の天皇・後陽成天皇もその虎を見たと伝えられています。

元清の系統は宗家として存続

朝鮮出兵ではこのように活躍した元清でしたが、彼の人生はその後長くは続きませんでした。慶長2(1597)年7月9日、元清は46歳のとき、居城の桜尾城内で亡くなります。父のように慕った兄・隆景が亡くなったのはその一か月前の6月12日でした。一説によれば、同じ時期に病床にあった二人は「どちらが先に死ぬか」と話していたといいます。

父に「虫けらのよう」と称された四男。3人の兄によって養育され、とくに隆景を信頼、その背中を見て成長した元清は、おそらく3人の兄に次ぐ才覚を持った武将でした。

元清亡き後、長州藩主となった毛利家では輝元の系統が途絶えます。宗家を継いだのは元清の子で長州支藩の長門長府藩主となった秀元の流れにある毛利吉元でした。以後、長州藩は元清の系統が嫡流として、江戸の世を終えるまで存続していくことになるのです。


【主な参考文献】
  • 河合正治 編『毛利元就のすべて』(新人物往来社、1996年)
  • 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)



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