戦国時代に用いられる史料 一次史料と二次史料の違いはどこにあるのか?

一次史料と二次史料

 戦国時代の研究で重要なのは史料である。史料は大別すると、一次史料と二次史料がある。その違いは、どこにあるのか。

 一次史料は同時代に発給された古文書あるいは日記、金石文(金属や石に刻まれた文字や文章)などを指す。史料としての価値は高い。歴史研究では一次史料に拠ることを基本原則とし、二次史料(後述)は副次的な扱いとする。ただし、一次史料だからと言って、全面的に信を置くのは危険である。

 写の場合は、何らかの意図で創作されたものもあり、偽文書であることも珍しくない。また、あえて書状に嘘を書く可能性もあるので、鵜呑みにしてはいけない。したがって、十分な史料批判(筆跡、文言、紙質などの調査)が必要である。

 二次史料は系図、家譜、軍記物語など、後世になって編纂されたものである。二次史料の素材は文書、口伝などであり、執筆者の創作が入ることもある。また、作成された意図(先祖の顕彰など)が反映されていることもあり、史料的な価値は劣る。

 たとえば、家譜の場合は江戸時代以降に成立したものが多く、藩祖やそれ以前の歴代当主の事蹟を詳しく書いている。ただし、歴代当主の悪いことは、ほぼ書かれていないという特徴がある。家譜は、バイアスがかかった史料の代表でもある。

正史と稗史

 二次史料を別の形で分類すると、正史(せいし)と稗史(はいし)がある。

 正史とは国家が編纂した歴史書のことで、わが国では、奈良・平安時代に編纂された六種の勅撰国史書の『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』が該当する。のちになって、幕府の記録を編纂した『吾妻鏡』(鎌倉幕府)、『後鑑』(室町幕府)、『徳川実紀』、『続徳川実紀』(以上、江戸幕府)も正史に準じるといえよう。

 『後鑑』は成島良譲(筑山)が執筆したもので、嘉永6年(1853)の成立。『吾妻鏡』にならった歴史書だ。『後鑑』の特長は、古記録・古文書などの史料をそのまま掲載しているので、史料集としても貴重なものである。

 一方の稗史とは、もともと中国で稗官(民間の風聞を集めて王に奏上した下級役人)が民間から集めた記録などをまとめた歴史書のことで、転じて正史に対する民間の歴史書を意味するようになった。その数は膨大である。

注意を要する二次史料

 注意が必要なのは、二次史料の記述である。二次史料は後世になって編纂されたもので、当然ながら編纂の意図がある。その意図によっては、史実が捻じ曲げられ、敗者が貶められることは別に珍しことではない。

 豊臣秀吉が大村由己に命じて書かせた『天正記』(『播磨別所記』、『柴田合戦記』、『関白任官記』、『紀州御発向記』、『四国御発向并北国御動座記)』、『九州御動座記』、『聚楽行幸記』、『小田原御陣』が現存する)は、完全に勝者の秀吉目線である。秀吉が命じて書かせたのだから、そうなってしまうのはしかたない。

大坂の陣での真田隊(イメージ)
大坂の陣での真田隊(イメージ)

 慶長19・20年(1614・15)の大坂の陣については、軍記物語と講談の『難波戦記』がある。軍記物語の『難波戦記』は豊臣方に与して戦死した真田信繁ら牢人の諸将に同情的である。講談の『難波戦記』は、完全な豊臣贔屓である。いずれにしても、敗者の目線であるのはたしかなことだ。

 変わったところでは、フロイスの『日本史』、『イエズス会日本報告集』がある。前者は二次史料、後者は一次史料である。しかし、後者はあとで少しばかり手が加えられたといわれているので、二次史料に分類する研究者もいる。

 フロイスはキリスト教布教のために来日したので、キリスト教を信仰する者(あるいは、理解を示すもの)には高い評価を与え、そうでない者には低い評価を与えた。

 たとえば、織田信長はキリスト教に理解を示したが、ほかの宗教(仏教、神道)にも寛容だった。それゆえ、信長が光秀に敗れて自害すると、「遺骸すら残らなかった」と散々な評価である。ましてや天正15年(1587)に伴天連追放令を発布した豊臣秀吉の評価は、最低である。

宣教師 ルイス・フロイス(イメージ)
宣教師 ルイス・フロイス(イメージ)

評価を貶められた石田三成と安国寺恵瓊

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後に編纂された諸書には、西軍に属して処刑された安国寺恵瓊、石田三成、小西行長のことを悪者扱いにする傾向が強い。

 三成については言うまでもないが、恵瓊の評価も実に手厳しい。たとえば、恵瓊の評価に関しては、『陰徳太平記』に「佞僧(口先がうまくずる賢い僧侶の意)」とあり、『芸備国郡志』にも「妖僧」とあって、地元でさえも評判が悪い。

 のちに徳川家康に仕えた太田牛一は、恵瓊を愚人としてあざ笑っている(『慶長記』)。まるで、口裏を合わせたかのごとくである。

処刑場に連行されていく三成(イメージ)
処刑場に連行されていく三成(イメージ)

 確固たる証拠があるわけではないが、家康は関ヶ原合戦の全責任を押し付けることにより、その後の戦後処理を円滑に進めたかったのではないだろうか。それゆえ、敗者だった三成の評価をことさら貶めたように思える。

 三成ら三人にすべての罪を被せて、毛利輝元や上杉景勝には減封という措置を飲ませるほうが得策だった。そういう意味で、恵瓊ら三人はスケープ・ゴードだったのだ。このように勝者はともかくとして、敗者やその子孫は生き残らなかったので、概して手厳しく評価されるのが常だったのである。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。