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「真田幸村(信繁)」”日本一の兵” と評された伝説の将の生涯とは

ろひもと理穂
 2020/08/21

真田幸村の肖像画

大坂の陣で奮闘し徳川家康を追い詰めたのが「大河ドラマ・真田丸」の主役として注目を浴びた真田幸村(信繁)です。

大坂夏の陣の戦い振りから「真田日本一の兵(つわもの)」と高く評価されたことでも有名ですが、実は戦場での活躍はとても限定的です。それもそのはず、幸村の半生は人質生活の連続でした。

はたして幸村の生涯はどのようなものだったのでしょうか?今回は戦国武将の中でも人気の高い真田幸村の生涯について詳しくお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

武田の人質として

幸村は永禄10(1567)年に武田家臣・真田昌幸の二男として誕生しました。幼名は弁丸です。ただし、生年はあくまでも通説で、1570年誕生説などもあります。

また、元服した後の名は 「源次郎信繁」であり、知名度の高い「幸村」という名は後世の創作の可能性もあると考えられています。武田氏が支配する甲府で生まれ育ったと推測されますが、幼少期の幸村について詳細を示す史料が発見されておらず、そのほとんどが謎に包まれています。

父の昌幸は幸村が誕生した時点では真田氏の当主ではありませんでした。しかし、天正3(1575)年、武田勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗した際、真田氏の当主である真田信綱とその弟の昌輝が討ち死にしたため、三男だった昌幸が家督を継いでいます。

幼いころの幸村の動向ははっきりしませんが、武田の人質として過ごしていたようです。天正10(1582)年3月に武田氏が織田信長に滅ぼされた際には、その直前に武田の人質から解放され、真田氏の支配する岩櫃城に入城しています。

武田滅亡後、父昌幸はすぐさま信長への従属を決めます。当時真田が支配していた領土は滝川一益の管轄になったため、彼の下で直接仕えることになりました。

天正壬午の乱

しかし、その状況もつかの間。6月には本能寺の変で信長が横死。旧武田氏の領土である甲斐国、信濃国、上野国では一揆が勃発するなど大混乱に陥ります。

特に昌幸を悩ませたのは、近隣の大勢力である上杉氏、北条氏、徳川氏が新たな領土を求めて旧武田領に侵攻してきたことでした。いわゆる天正壬午の乱です。

通説に従えばこのときの幸村はまだ16歳。そしてここから再び幸村の長い人質生活が始まるのです。

大混乱の中、滝川一益は領土を捨てて脱出を試み、途中、信濃国木曾郡において武田旧臣の木曾義昌に阻まれますが、人質交換によって通過を許されています。

この人質の中には昌幸の母である河原氏と共に幸村もいました。その後、幸村は解放されて領土に戻るのですが、それがいつ頃になったのかはわかっていません。

この大乱で、単独では大勢力に対抗できないと考えた父昌幸は、初め上杉氏に従属、次に北条氏に寝返り、最後は徳川氏に味方しています。

問題は武田旧領を巡って争っていた北条氏と徳川氏がここで和睦をしたことでした。

和睦の条件には信濃国・甲斐国は徳川氏が支配し、上野国は北条氏が支配することになっていたため、真田氏が自ら切り取った上野国吾妻郡(岩櫃城など)や利根郡(沼田城など)を北条氏に明け渡さなければならなくなったのです。

上杉家で家臣として仕えた?

この条件に対し、昌幸が主君である家康に激しく抵抗したのも当然のことでした。

この「沼田領問題」によって真田氏と徳川氏の関係は急速に悪化し、昌幸は天正13(1585)年6月に再び上杉氏に従属することを決めるのです。

この時期までの幸村の動向は定かではありませんが、この年の8月、昌幸が上杉氏の人質として幸村を越後国に送ったことは記録に残っています。幸村はまだ元服していなかったと考えられています。

ただし『真武内伝』によると、上杉景勝は幸村に信濃国埴科郡千貫文(およそ三千石)の領地を与えていたと記されています。

このことから幸村は人質というよりも、家臣として知行を与えられ上杉氏に仕えていたのではないでしょうか。残念ながらその頃の活躍振りについては不明です。

なお、この直後に徳川勢が真田の居城である上田城に攻め込んできますが、父昌幸がこの「第一次上田合戦」において勝利し、真田の武名をとどろかしたのは周知のとおりです。

今度は秀吉の人質として

真田氏が豊臣秀吉に従属すると、人質として幸村は越後国から大坂へ移されたと考えられていますが、それがいつ頃のことなのか、本当に人質として処遇されたのかは諸説あり定かではありません。

慶長5年(1600年)には幸村の母親である山之手殿が大坂城下の真田屋敷に入っていたことは記録されていますので、当初は人質でしたが、どこかの時期に秀吉の家臣として仕え、代わりに山之手殿が人質になったと考えられます。

一説には天正18(1590)年の北条征伐が幸村の初陣であったとされており、兄の信幸と共に出陣して碓氷峠や松井田城下で北条氏の家臣である大道寺勢と交戦しています。しかし一部の史料には信幸の軍功のみ記されており、幸村が初陣を飾ったかどうかははっきりとしていません。

北条氏が滅び、秀吉が奥州仕置を行った際には幸村は昌幸と共に先陣を命じられ、天正19年(1591年)九戸政実の乱の鎮圧に貢献したとされています。

豊臣政権下、秀吉の直臣として表舞台へ

ここまでの幸村はとても影の薄い存在です。そんな幸村が表舞台に登場できたのは、その才能を買われて秀吉が直臣に引き上げたためです。

文禄元(1592)年に朝鮮出兵が行われますが、『大鋒院殿御事蹟稿』によると幸村の身分は「馬廻」と記されています。昌幸や信幸は真田氏の軍勢を率いて肥前国名護屋に参陣していますが、その際にはすでに幸村は秀吉の直参衆のひとりに加えられていたわけです。

幸村が秀吉から特別に眼をかけられていたことがうかがえる事例がいくつかあります。そのひとつが文禄3(1594)年、兄の信幸と同時期に従五位下左衛門佐に叙任され、豊臣の姓を下賜されたことです。幸村の嫡男で真田氏の次期当主と同じ扱いを受けていたのですから異例の待遇です。

さらに秀吉の重臣である大谷吉継の娘(竹林院殿)を正室に迎えており、幸村の存在感は増していきます。大坂に移り、秀吉に出会ったことで幸村の運命は大きく変わったのです。

ちなみに幸村は大坂に来る以前に、真田氏家臣の堀田作兵衛興重の妹との間に長女「すへ」と二女「於市」が生れており、さらに幸村の傅役と考えられている高梨内記の娘との間にも三女「阿梅」と四女「あぐり」が生れており、側室はいたことがわかります。

文禄の役の後、幸村は昌幸や信幸と共に大坂へ帰還していますが、その際に伏見城普請を命じられています。領土を所有していた昌幸や信幸だけでなく、幸村にも普請役が賦課されたことから、幸村が所領を領有していたことがわかります。

百石につき二人というのが本役で、真田父子には1680人が賦課されおり、昌幸の上田領三万八千石、信幸の沼田領二万七千石の他に、幸村は馬廻として一万九千石を知行していたことになるのです。

その所領がどこだったのか明確にはされていませんが、上田領の一部が幸村の所領だったと考えられています。

犬伏の別れ、そして第二次上田合戦へ

ようやく日の目を見ることのできた幸村でしたが、慶長3(1598)年に秀吉が死去すると暗雲が立ちこめます。大老のひとりである徳川家康が、秀吉の遺命を破り、諸大名との姻戚関係を次々に結びだしたのです。

そして慶長5(1600)年、家康に反発した石田三成らが挙兵し、天下分け目の戦となる「関ヶ原の戦い」が行われました。「家康憎し」の昌幸は三成らの西軍に味方し、兄の昌幸は家康の養女(本多忠勝の娘:小松殿)を正室に迎えていることもあり家康らの東軍に味方しました。

三成勢には義父の大谷吉継も味方していましたし、これまでの秀吉に対する恩義を考えると幸村が西軍に味方したのは自然な流れです。こうして昌幸と幸村は西軍、信幸は東軍に分かれるという決断が下されるのです。下野国の犬伏の地でこの真田父子による密談が行われたことから「犬伏の別れ」と呼ばれています。

真田父子犬伏密談図(出所:国立国会図書館サーチ)
真田父子犬伏密談図(上田市立博物館蔵。出所:国立国会図書館サーチ

関ヶ原の戦いはわずか1日で勝敗が決し、西軍の石田方は敗れました。昌幸・幸村父子は上田城に籠城して徳川秀忠の軍勢を翻弄しましたが、西軍の大敗に上田城を明け渡し、降伏しています。

九度山での蟄居生活

昌幸・幸村父子は信幸による助命活動も功を奏し、処刑を免れ、高野山への追放という処分になりました。幸村は高野山の麓の九度山でここから長い蟄居生活を送ることとなるのです。

このとき昌幸・幸村父子に付き従った家臣はわずか16人でした。幸村の妻子も同行しています。こうして幸村は大名としての地位を失ったのです。ただし蟄居生活といっても狩猟や釣などといった活動の自由は認められており、一般的なイメージよりも悪くはない待遇だったようです。

慶長7(1602)年には竹林院殿との間に嫡男となる真田大助が生れており、さらに慶長9(1604)年には五女となる御田(生母は豊臣秀次の娘である隆清院殿とされています)が生れた他、生年未詳ですが、竹林院殿との間には六女の阿菖蒲、七女おかね、さらに生母不明ながら八女、九女も誕生しました。

慶長11(1606)年には竹林院殿との間に二男の真田大八も生れていますから、かなり子宝には恵まれた様子です。ただし二女の於市はこの九度山で死去しています。

そして慶長16(1611)年には赦免を心待ちにしていた昌幸も病没、家臣も帰国する者が相次ぎ、幸村はその無力感からか40代ながら頭を丸め、「好白」と号しました。

大坂の陣での幸村の活躍

大坂入城

幸村の運命が再び激しく動き出すのは慶長19(1614)年のことです。後顧の憂いを断つために豊臣勢力を一掃しようと考えた家康は、方広寺鐘銘事件を口実にして大坂城攻めの命令を諸大名に発していました。

それに対抗すべく、豊臣秀頼は幸村に使者を送り、黄金二百枚、銀三十貫目を支度金として大坂城へ招いたのです。幸村は同年10月7日~9日の間に九度山を脱出し、13日には大坂城に入城しています。

『大坂御陣山口休庵咄』によると秀頼は幸村を召し抱えた牢人衆の筆頭とし、五十万石を与えるという約束を交し、幸村は赤備えの兵六千を率いて入城したと記されていますが、史料によって数字は大きく異なり、『石合家記』では九度山からの随身十六騎、信濃国からの参陣五十騎と記しています。こちらが実像に近いと考えられます。

大坂冬の陣

「大坂冬の陣」が開戦となると、豊臣勢はいくつかの派閥があったために軍議が難航。このとき幸村は昌幸の遺言もあり、「城外出撃策」を主張したのですが受け入れられず、籠城戦となりました。

幸村は大坂城唯一の弱点である三の丸南側に砦を構えて迎撃しようと考え、「真田丸」と呼ばれる出城を築きます。11月には徳川勢による大坂城攻めが開始されますが、真田丸で迎え撃った幸村の軍勢は快勝。こうして幸村はその武名を天下に知らしめたのです。

大阪の陣での真田幸村のイメージ

家康は本多正純を交渉役にして幸村を十万石で引き抜こうと画策しますが、「秀頼に忠義を付くし和睦後ならば千石でご奉公する」と返事したと『慶長見聞録』に記されています。つまり、断ったということです。

秀頼は和睦案を退けていましたが、家康がオランダから買い入れた大砲で大坂城を直接攻撃したため秀頼の母親である淀殿が動揺し、幸村らの反対をよそに和睦が成立しました。そして和睦の条件にある大坂城の堀の埋め立て、惣構、二の丸、三の丸の破却によって大坂城は防衛機能を失ってしまいます。

大坂夏の陣と幸村の戦死

和睦をした幕府と大坂でしたが、慶長20(1615)年に家康は「牢人衆を退去させること」、「秀頼の国替え」を要求しました。秀頼がこれを拒絶したことで、豊臣家の最期となる大坂夏の陣を迎えます。

防衛機能のない大坂城に籠城できない豊臣勢は4月26日未明に大和国郡山城を攻撃し陥落して夏の陣は幕を開けます。その後、徳川勢の侵攻を防ぐため幸村を含めた四万の軍勢を道明寺に派遣。

ここで異常に突出した後藤基次が討ち死、豊臣勢は各個撃破されていきます。さらに河内国若江・八尾口でも豊臣勢は大敗。敗色は濃厚となりました。

ここに至り、豊臣勢は幸村に最期の指揮を託し、幸村は茶臼山に陣を布いて家康本陣への一点突破を敢行します。間にある松平忠直の陣を突破し、家康の本陣を守る旗本に二度突撃してその守りも破りました。家康と秀忠は三里本陣を後退しています。

三度目の突撃でついに幸村の軍勢の疲弊は頂点に達して攻撃を断念。最期、幸村は高台で身体を休めていたところ、松平忠直隊の西尾宗次と出くわし、覚悟を決めて首を取られました。

まとめ

劣勢に立たされながらも家康の首を取る目前まで追い詰めた幸村。ここで家康が切腹も覚悟したというのはさすがに大げさではありますが、その武威を見せつけたのは事実でしょう。

『薩摩旧記雑録後編』に記された「真田 日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」という評価が後世に語り継がれていくのです。


【主な参考文献】
  • 黒田基樹『豊臣大名 真田一族』(洋泉社、2016年)
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社 、2015年)
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
  • 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP新書、2015年)

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。
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