関ヶ原合戦後、石田三成はどういう逃亡経路で脱出したのか

田中吉政に捕縛される三成(『関ケ原軍記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
田中吉政に捕縛される三成(『関ケ原軍記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

石田三成の逃亡経路

 慶長5年(1600)9月15日、東軍に負けた石田三成はただちに戦場を離脱して逃亡した。関ヶ原から逃亡した三成の足跡は、多くの二次史料に書かれている。

 『庵主物語』によると、三成は伊吹山(滋賀県米原市、岐阜県揖斐川町・関ケ原町)に落ち行き、幼い頃に手習いを受けた草野谷(滋賀県長浜市)の繁福なる者を頼った。しかし、家康の探索は厳しく、三成を隠すことは困難という理由で断られた。そこで、三成は川井(合)村(同上)に行き、源右衛門のもとで匿われた。その後、源右衛門の訴えにより、三成は田中吉政に捕らえられたのである。

 『関原御一戦記』は、もう少し違った書き方をしている。逃亡した三成は脇坂(長浜市)に潜み、そこから北を目指そうとしていた。それから草野谷に行ったところ、田中吉政の家人・小沢清兵衛に捕らえられたのである。その後、三成は大津(同大津市)に連行されたが、逃げたときに一揆に着ているものを剥ぎ取られて見苦しかったので、小袖2つを与えたという。

 三成が北を目指したということは、『田中吉政系図』にも書かれている。三成は越前を目指しているとの情報のもと、田中吉政は家康の命に従って探索を行った。9月23日、三成は草野谷に身を隠し、樵(きこり)の姿をして潜んでいた。吉政の配下の田中正武は樵を見て怪しみ、素性を尋ねたところ、男は「樵だ」と答えた。しかし、その顔をよく見ると三成だったので、捕らえて大津に連行したという。『寛政重修諸家譜』(田中吉政譜)も、ほぼ同じ内容である。

 『関ヶ原記』には、三成の捕らえられた状況がもう少し詳しく書かれている。三成は草野谷の奥の岩窟に潜み、破れ笠で顔を隠し、草刈鎌を腰に差した樵の姿で生活していたという。あるとき、人が「何者だ」と尋ねると、三成は「つまらない者です」と答えた。続けて「薪を拾う山人か」と尋ねたが、とにかく不審に思ったので、三成を絡め取って田中吉政、同正武に進上した。これを聞いた家康は大変喜び、褒美として三成が差していた「切刃貞宗」の脇差を正武に与えた。家康は捕らえられた三成を不憫に思い、小袖を与えたという。

 『田中興廃記』によると、三成が「切刃貞宗」の脇差を与えたのは正武ではなく、吉政になっている。現在、「切刃貞宗」は東京国立博物館に所蔵されており、「石田貞宗」とも称されている。

 この4つの史料に共通するのは、三成が草野谷に潜んでいたということである。ところが、三成が捕らえられた状況は、史料によって少しずつ違っている。

関ケ原での石田三成陣所跡と、草野谷の位置など。(編集部作成、色塗り部分は近江国)

もっとも詳しい『美濃国雑事記』の内容

 三成の逃亡の過程をもっと詳しく書いているのは、『美濃国雑事記』である。以下、その内容を紹介しておこう。

 戦場を離脱した三成は、3人の従者とともに伊吹山から草野谷に行き、さらに小谷山から馬上山へと向かった。三成は3人の従者にこれまでの忠節に感謝するとともに、自身は大坂へ行って島津義弘を頼みとし、運を開こうと考えている旨を話すと、3人にここから逃げるように伝えた。3人は涙を流し、御供することを願うと、従者の1人は自身の兄が塩津(長浜市)で僧侶をしているので、頼るよう三成に勧めた。そして、塩津から船で大津(滋賀県大津市)に行き、そこから大坂に向かうよう助言したのである。

 3人の従者と別れた三成は、幼少の頃に手習いをした法華寺(長浜市)の三重院という僧を頼ることにした。三成は夜に紛れて法華寺に向かったが、すでに田中吉政の探索の手が伸びており、すでに三重院が連行されたあとで、弟子が言うには、三成を匿うことはできないということだった。力を落とした三成は、近くの善衽院の知り合いの僧を頼ろうとしたが、落人になった三成を匿ってくれることはなかった。そこで、三成は山林に身を潜めたが、4日も食事にありつけなかった。

 思い余った三成は、生の稲穂を口にしたが、これで胃腸を悪くして下痢になった。こうして三成は山中で伏せていたが、かつて恩を与えた古橋村(長浜市)の与次郎のことを思い出して支援を頼み込んだ。与次郎は快く応え、三成を山中の洞に隠し、毎日食事を運んだというのである。

捕らえられた三成

 しかし、これを見ていた古橋村の又左衛門は与次郎に対して、重罪人の三成を匿うことは大ごとになるので、よく考えるよう伝えた。このことを聞いた三成は、与次郎に感謝の意を表しつつ、与次郎自身や家族に累が及ぶことを恐れていると話した。そして、三成は与次郎が訴人になり、三成を捕らえて差し出すようにと述べた。与次郎は涙を流して断ったが、三成の強い説得もあって、最終的に泣く泣く田中吉政のもとに三成を連行したのである。

 喜んだ吉政は将兵を遣わし、三成を乗物に入れて井ノ口(長浜市)に連行した。吉政は近江の様子をよく知っており(吉政は近江の出身)、三成が近江北部にいることを予想していたので、そこに番所を設けて山野を探らせた。落人を捕らえることもあったが、それは三成ではなかったという。

 異説としては、吉政の家来の田中伝右衛門が三成を捕らえたとの説を載せている。吉政は三成を幽閉して家来を見張りに付け、食事を勧めたが、三成は何も食べなかった。吉政の家来は困ってしまったが、韮味噌はどうだろうかということになり、準備したというエピソードがある。

『常山紀談』のエピソード

 余談ながら『常山紀談』によると、吉政は三成に対して「数十万の兵を率いたのは智謀が優れていたからで、戦の勝敗は天命にあるので、その力には及ばなかった」と言い、韮雑炊をふるまったという。韮味噌よりも、韮雑炊のほうが食べやすいだろう。

 吉政は捕らえられた三成に一礼して「今度の手柄は末代までも評価されるだろうが、運がなかった」と述べた。これを聞いた三成は「私は若年の頃から秀吉の厚恩を受けたので、その恩に報いるため秀頼を推戴して天下に奉ろうとしたが、運が尽きてこのようになってしまった」と答えた。吉政は「ご気分が悪いようなので、薬を飲んではどうか」と勧めたが、三成はそれを辞退した。

 吉政は重ねて「三成の命はないが、大将たる者の最後の嗜みなので、薬を飲んで健康を保つべきだ」と言うと、三成は素直に応じたという。そして、三成の世話係として、宮部善八なる者を付けた。それから三成は井ノ口を発ち、高宮(滋賀県彦根市)を経て守山(同守山市)に到着した。すると、三成は懐から秀吉の形見である切刃兼真を取り出し、吉政に与えたというのである。

 吉政が三成を捕縛した事実は、多くの一次史料で確認できる。その際の逸話がこのように流布したのだろう。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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