「相良油田」石油王に俺はなる! 太平洋側で唯一の油田とは
- 2024/06/26
『週刊少年ジャンプ』(集英社)で連載されていた人気漫画「Dr.STONE」の作中で、主人公たちが石油をもとめて訪れたのが相良油田(さがらゆでん)です。
実はこの油田、静岡県牧之原市に実在する“国内では太平洋側で唯一の油田”であることを皆さんご存知だったでしょうか?油田採掘は停止しているものの、現在もわずかながら石油が湧き出る「相良油田」について、今回紹介していきます。
実はこの油田、静岡県牧之原市に実在する“国内では太平洋側で唯一の油田”であることを皆さんご存知だったでしょうか?油田採掘は停止しているものの、現在もわずかながら石油が湧き出る「相良油田」について、今回紹介していきます。
「相良油田」の歴史
明治5年(1872年)2月、現在の牧之原市相良町片浜に「イノシシが泥浴びしている油臭い沼がある」という話を聞いた旧徳川家旗本の村上正局によって発見。村上はすぐに静岡学問所の教師エドワード・ウォーレン・クラークに鑑定を依頼。そして、沼の泥水が石油であると判定されたのです。“深谷の油田” と呼ばれたこの場所は明治6年(1873)から石坂周造(いしざか しゅうぞう)によって、5ヶ所の油井(ゆせい。石油をくみあげるために掘った井戸のこと。)で手掘りによる採掘が始まりますが、この地は産出量が少なかったため、6kmほど離れた “菅山地区” が採掘のメインとなりました。
石坂は東京石油会社相良支社を設立し、同年10月にはアメリカ製の “綱掘機” を試験的に導入して採掘に成功します。これが「相良油田が日本初の機械掘り油田」と言われる理由です。
この “菅山地区(菅山新田・時ケ谷・大知ケ谷)” は、最盛期(明治17年頃)になると、手掘り油井が240ヶ所あり、年産721.6KLの石油を産出していたようです。その後、一旦産出量は落ちますが、明治37年(1904)に日本石油会社が綱掘機を持ち込んで参入し、年産683KLを産出する第2次ピークを迎えます。
しかし、大正時代に入ると規模が減少します。油井の数も大正14年(1925)には機械掘り油井6ヶ所、手掘り油井34ヶ所にまで減ります。
さらに昭和に入ると、産出量も年産100KLを下回り、昭和13年(1938)には日本石油会社も撤退。以降は、“小形ロータリー機” による機械掘りが続けられますが、産出量の低下や安く大量に入ってくる外国産原油に押され、昭和30年(1955)に完全廃坑となり、約80年の歴史に幕を下ろします。
“日本の石油王 ”石坂周造 について
ここで、初期の「相良油田」の発展を支えた石坂周造を簡単に紹介しましょう。 石坂周造は元々、熱心な尊王攘夷論者で、清川八郎が発案したといわれる“浪士組”に浪士取締役として参加します。文久3年(1863)4月に清川八郎が暗殺されると、彼も捕縛されて5年間投獄されます。その後は義兄である山岡鉄舟の許で蟄居生活を送っていましたが、長野県長野市の浅川で石油が採れることを知った宣教師から事業化するように強くすすめられ、明治4年(1871)に長野石炭油会社を設立します。
尊王攘夷に向けていた情熱が、今度は石油に向けられたわけです。この会社は明治5年(1872)に東京石油会社と改称し、「相良油田」の採掘へ本格的に参入します。なお、“石炭油”と呼ばれていたものは、この社名変更以後、一般的に“石油”という名称になります。
石坂は、石油が国家の為に重要な資源であると信じ、多額の投資を行います。そして、この「相良油田」だけでなく新潟の油田採掘にも尽力し、後に“日本石油産業の祖”と呼ばれるようになりました。しかし残念ながら、思うように油田の開発は進まず、明治14年(1881)に東京石油会社は倒産してしまいます。
それでも彼は諦めません。同年12月、石坂は相良油田会社を設立します。そして先述の通り、明治17年頃に「相良油田」は最盛期を迎えるわけです。
う~ん、熱すぎる! まさに“日本の石油王”に彼はなったのです!!
「相良油田」の紹介
「相良油田」が開坑して初期のころは、手掘りによる採掘が主でした。 「相良油田」の手掘り油井は、以下のような構造だったようです。- ①:人力で垂直に穴を掘り、穴の中の入った人が桶に石油を汲み取り、上に引き上げる(※穴の深さは平均80m、深いものでは200m近い油井もあったそう。)
- ②:油井の上に小屋を建て、屋根に大きな明かり窓を設けることで、地下に光を届ける(※地下での石油採掘ですが火は使えない)
- ③:小屋の中に“たたら”をつくり、地下の作業員へ空気を送る(※たたらを踏むのも重労働ですよね・・・)
このような小屋付の油井が、最盛期で240ヶ所もあったのです。凄い・・・。
一方で、機械による採掘は石坂が試験的に“綱掘機”を導入するも、比較的浅い所から石油が採れた「相良油田」では引き続き、手掘りが主流でした。大正以降は機械による採掘がメインとなり、手掘り油井は減少していきます。
現在は、昭和25年(1950年)に設置された“小形ロータリー機”による油井が1ヶ所現存しており、こちらは静岡県指定文化財(天然記念物)&近代産業遺産になっています。
なお、石油採掘中の事故で亡くなった人は22名いたようで、彼らの名が刻まれた “石油坑山遭難者の碑” が菅山地区内にある坑山神社の境内に建っています。
「相良油田」の存在と衰退理由
日本で石油が採れること自体、まれな話ですが、それでも新潟や秋田など日本海側では何箇所か油田が存在します。一方で太平洋側は「相良油田」が唯一(※2024年4月現在)となります。では、なぜ相良に油田が存在したのでしょうか? そもそも石油(原油)は、太古の生物の死がい等が地中のバクテリアや地熱の働きによって原油へ変化します。そして、油田の形成にはそれを溜める構造とタイミングが必要です。
「相良油田」は、原油を多く含んだ第3期中新世の地層(相良層)と、この地質時代の日本では珍しい傾斜構造とがつくりあげた油田です。つまり、“原油が溜まりやすい珍しい地下構造” が相良にあったことが理由です。また、精製しなくてもオートバイを動かすことが出来るくらい良質で透き通った原油が採れる油田です。
しかし、その傾斜構造の規模は狭くて小さいため、含油量が少なかったのが、相良油田の衰退理由になってしまうのです。油田の形成って難しいのですね。
現在の「相良油田」
現在、油田としては廃坑となっていますが、今でも僅かながら採取することが出来ます。「相良油田」の中心地となった “菅山地区” には油田の名残を感じ取れる所が下記の通り、存在します。油田の里公園
広い園内には油田の里資料館(なんと無料!)や復元された手掘り油井の小屋(中まで入れます)などが建っています。「相良油田」について学びたい人は是非行ってみましょう。相良油田 油井
現在唯一残る油井で、昭和25年に設置された機械掘櫓等が保存されています。毎年4月に実施される「桜まつり」では、今でもこの油井で原油を汲み上げてオートバイを動かす催しが行われています。三枚碑(相良油田功労者の碑)
「相良油田」開発の功労者である村上正局、石坂周造、山岡宗之助(石坂の子)を讃える石碑です。日本最初の石油機械掘り成功井(庄八屋敷)跡
日本で初めて機械による石油採掘に成功した綱掘機があった場所です。ここでは2日間で0.54KLの石油を汲み上げたそうですが、今は石碑と説明板が建つのみです。坑山神社
石油採掘の盛隆を祈願して建てられた神社です。現地に行ってみると分かりますが、現参道の脇に鳥居が建っている奇妙な境内です。多分、元々の参道は山林で埋没したと思われます。また、一番最初に発見された“深谷の油田”も森の中に残されており、今でも微量ながら油が湧き出ていて「イノシシが泥浴びしている油臭い沼」のイメージそのままです。
なお、現地には案内標識や説明板がありますが、油井まで行くのに獣道のようなところを通るので、実際に訪れる時はそれなりの格好(運動靴に長袖・長ズボンを推奨)で行きましょう。
最後に
日本では太平洋側唯一の油田である「相良油田」は、非常に稀な地層と情熱を持った男(石坂周造)によって栄えた油田だったことが分かりましたね。今では上記の通り、僅かながら名残を見ることが出来る程度ですが、“油田の里資料館”にある当時のジオラマ模型を見ると当時の「相良油田」の盛隆っぷりを感じることができます。
機会があれば、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
【主な参考文献】
- 『相良町神社誌』(相良町氏子会、1962年)
- 『相良町史 通史編 下』(相良町、1996年)
- 真島節郎『「浪士」石油を掘る 石坂周造をめぐる異色の維新史』(共栄書房、2018年)
- 牧之原市HP
- 油田の里資料館(静岡県牧之原市菅ケ谷“油田の里公園”内)
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