【静岡県】浜松城の歴史 大河ドラマで注目を浴びる家康の出世城。江戸時代の歴代城主は要職に出世した人も多かった?

浜松城の模擬天守と天守門(復元)
浜松城の模擬天守と天守門(復元)
年間20万人以上の観光客が訪れる浜松城は、まさに東海地方を代表するお城です。戦国時代には徳川家康が本拠を置き、やがて江戸幕府260年の歴史を支える出世城となりました。

また、近年でも令和4年(2022)に天守の外装工事が完了してリニューアルされ、さらに令和5年(2023)の大河ドラマでは主人公・家康の城として描かれます。

そんな注目を浴びる浜松城の歴史について、前身の曳馬城と合わせてご紹介していきましょう。

浜松城が築かれる以前にあった曳馬城とは?

中世の遠江・浜松一帯は「浜松庄」と呼ばれ、交通の要衝として引間宿が繁栄していました。その賑わいは「引間、市は富み、屋は千区」と謳われたほどで、東海道を代表する都市の一つだったようです。そして寛正年間(1460~1466)に吉良氏によって築かれたのが曳馬城(引間城とも)でした。

ところが遠江の支配をめぐって、今川氏と斯波氏が抗争を繰り返します。その煽りを受けた吉良家中も内訌を起こし、親今川派と親斯波派に分かれてしまいました。

永正12年(1515)、斯波義達が挙兵して遠江へ侵攻。親斯波派の吉良重臣・大河内貞綱もこれに応じて曳馬城を占拠します。しかし永正14年(1517)には、吉良氏と結んだ今川氏親が出陣し、曳馬城で籠城戦が始まるのです。

曳馬城をめぐる攻防戦は激しかったようで、その様子は連歌師・宗長が記した『宗長日記』に詳しく描かれています。以下、現代語訳でご紹介します。

折からの洪水で川(天竜川)は海のようになっている。そこに三百余艘で舟橋を架け、数万の軍勢で討ち入った。敵を城に押し込めたあと、六月から八月まで城攻めをおこなった。安倍の金堀衆に外から掘らせ、城内の井戸はすっかり枯れ尽くしたようである。

大河内兄弟父子はじめ城に籠もる者は、ことごとく討ち死、討ち捨て、あるいは生け捕りとなった。捕らえられた男女が引き立てられる様は、目も当てられないほどである。

曳馬城が陥落したあと、西条城主・吉良義信は親今川派の飯尾賢連を城代として派遣しました。しかし賢連の子・乗連の代になると飯尾氏は吉良氏から離反し、今川氏の家臣として活動することになります。

さて、当時の曳馬城はどんな城だったのでしょうか?

まず位置的には、現在の浜松城において「古城」という部分にあたり、東西120メートル、南北140メートルほどの敷地を、堀で4分割した構造になっていました。

また、城の北側並びに北東部には「椿屋敷」「蛇屋敷」と呼ばれる区画があり、そこに屋敷地があったことをうかがわせます。あくまで吉良氏の支城ですから、さほど規模は大きくなかったのでしょう。

浜松城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

家康の本拠「浜松城」として大拡張される

永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が敗死し、今川氏の遠江支配は大きく揺らぎました。やがて「遠州忩劇」と呼ばれる国衆の反乱が相次ぐ中、乗連の跡を継いだ飯尾連龍は、今川氏を離れて徳川氏と結ぶ動きを見せます。

しかし離反が今川方に露見したことで、永禄5年(1562)には大軍で曳馬城を攻められました。何とか城を守り切るものの、そののち連龍は今川氏真によって謀殺されてしまいます。

永禄11年(1568)には、武田信玄が駿河、徳川家康が遠江、と今川領へ同時に攻め込みます。この同時侵攻の背景には、武田と徳川で今川領を割譲する密約があったともいいます。井伊谷三人衆の案内で進軍した家康は、早くも侵攻5日後には曳馬城へ入りました。そして周辺の今川家臣に調略を仕掛け、匂坂吉政・久野宗能・小笠原氏助といった者たちが帰順しています。

なお、家康が曳馬城へ入る際、連龍の妻・お田鶴の方が城兵とともに奮戦し、徳川勢を悩ませたという伝承もあるようです。

浜松城下にある椿姫観音。お田鶴の方が討ち死にした場所といわれる。
浜松城下にある椿姫観音。お田鶴の方が討ち死にした場所といわれる。

やがて家康は、掛川城に籠もる今川氏真を屈服させて追放すると、ほぼ遠江を平定する形となりました。とはいえ、安定的な支配が進んだ三河と違い、遠江の情勢はまだ不安定です。また、武田信玄が約束に反して遠江へ兵を送り込んだことから、武田氏との関係も微妙なものとなっていました。そこで遠江を防衛する必要を感じた家康は、思い切って岡崎城から本拠地の移転を考えるのです。

まず家康が候補に選んだのは、天竜川の東にある「見付」でした。見付はかつて国府が置かれた所で、南北朝~室町期には今川氏が守護所を置いた場所でもあります。いわば遠江の政治・経済の中心地だったわけですね。

家康は永禄12年(1569)から見付に築城を命じますが、なぜか途中で放棄させています。その理由は武田氏との関係悪化にありました。もし攻められれば、西を天竜川が流れていますから「背水の陣」となります。たとえ織田信長に援軍を要請しても、川の水量によっては後詰できない可能性もあったのです。

そこで家康は見付に代わって、天竜川より西にある曳馬城を選びます。この城を大拡張することで、新たな本拠として生まれ変わることになります。

まず、西側の台地へ向かって城域が広げられ、東西420メートル、南北250メートルの規模を誇りました。また、本丸・二ノ丸・三ノ丸が直線に並んだ梯郭式城郭とし、防御性を高めています。そして城の名も「浜松城」へ改められました。

とはいえ、現在の浜松城とは違い、この時期には石垣や天守すらなく、土造りの城だった可能性が高いそうです。一方で家臣団の屋敷は、浜松城を取り囲むように三方ヶ原台地や東海道など、主要な街道沿いに配置されていました。

家康は元亀元年(1570)に初めて入城しますが、その後も改修・拡張工事は続けられたようです。徳川家臣・松平家忠が記した『家忠日記』によると、天正6年(1578)には「新城普請」と記載があり、大規模な城普請があったことがうかがえます。

また『遠江風土記伝』によれば、城が拡張されるに従い、そこにあった寺社が別の場所へ移転しているのです。まさに元亀~天正年間は、浜松城の大拡張期だと言えるでしょう。

堀尾吉晴の大改修で近世城郭となる

家康が駿府城へ移るまでの17年間、浜松城は徳川氏の本拠であり続けました。遠江支配の拠点として、また対武田氏の策源地として機能したのです。

天正10年(1582)に武田勝頼が滅び、続く天正壬午の乱で甲斐・信濃の2か国を獲得した徳川氏にとって、新たな本拠地が必要となります。天正14年(1586)に駿府城を完成させた家康は、浜松から駿府へ居城を移します。代わって菅沼定政が城代として、浜松城の維持管理にあたっていたようです。

やがて天正18年(1590)に家康が関東へ移封になると、代わって豊臣系大名が東海道沿いに配置されました。浜松城には堀尾吉晴が入ることになり、ここから大改修が加えられていきます。

まず丘陵の頭頂部には新たに天守曲輪が普請されました。その東には本丸や二の丸が配置され、その先にある曳馬城跡も古城曲輪として活用されたようです。

さらに城の主要部には高石垣が積まれ、浜松城では初めてとなる天守が造営されました。ただし天守台の石垣には算木積の技法が用いられていることから、のちの文禄期に積まれた可能性が高いでしょう。

また、天守曲輪で出土した瓦には、織豊期の特徴がうかがわれることから、瓦葺きの建物が存在したことを示しています。

さて、関ヶ原の戦い(1600)が終わると、全国における諸大名の配置が一変しました。東海道筋には徳川譜代の大名たちが置かれ、浜松城には松平忠頼が入封しています。

浜松城は江戸時代を通じて改修と拡張が繰り返され、城下町と一体になった改変が進められました。三ノ丸は大きく広がって南に大手門、東に瓦門が新たに設けられています。また、東海道を城下へ移設するに伴い、旧来の引間宿を解体。浜松城を中心に新たな城下町が形成されました。ただし、堀尾氏が築いた天守は失われたようで、近世を通じて天守が再建されたという記録はありません。

譜代大名たちの出世城として

松平忠頼が浜松藩主になって以降、頻繁に藩主交代が繰り返されてきました。幕末まで実に11家が浜松と関わっています。

歴代藩主の中には幕府要職を務めた者も多く、老中が13人、側用人が5人、若年寄が10人、京都所司代が5人、大坂城代が3人と、まさに浜松藩主になることは出世コースに乗ることを意味していました。中でも異色の存在なのが水野忠邦でしょう。江戸時代後期に「天保の改革」を断行した人物として有名ですね。

忠邦は唐津20万石の藩主だったにもかかわらず、たった6万石の浜松藩への転封を願い出ました。幕府要職への意欲が強く、減収を恐れた家臣の反対を押し切ってまで、出世コースに乗ろうとしたのです。その願いが叶って大坂城代から京都所司代、そして老中首座となって天保の改革を強行しますが、結果的に意図した成果を上げることはできませんでした。改革に失敗した忠邦は失脚し、晩年には出羽で蟄居・謹慎となっています。

さて、明治時代に入ると、明治6年(1873)に廃城令が発布され、浜松城の建物や土地は払い下げられました。この時に天守曲輪・本丸以外の曲輪は、大規模な土地改変を受けています。また明治19年(1886)には古城曲輪の跡地に東照宮が建立されています。

そして戦後の昭和25年(1950)年になると浜松城公園が開園。プールや動物園、遊具などが設置されました。さらに昭和33年(1958)には天守台の上に復興天守が築造され、現在でも浜松市のシンボルとして親しまれているのです。

おわりに

室町時代から幕末まで400年もの歴史を刻んできた曳馬城、そして浜松城ですが、小さな土造りの城から遠江支配の拠点、さらに大名たちの出世城へと役割を変えてきました。

そして現在、大河ドラマの反響によって浜松城は注目されつつあります。野面積みの武骨な石垣は戦国の息吹を感じますし、少しこじんまりとした天守も風情があって良いものです。浜松城には、大きな城にはない魅力が詰まっていると言えるでしょう。ぜひ機会があれば訪れて頂きたいですね。

補足:浜松城の略年表

出来事
寛正年間
(室町時代中期)
吉良氏によって曳馬城が築かれる。
永正14年
(1517)
今川氏親によって攻め落とされる。
永禄5年
(1562)
今川氏真が曳馬城を攻めるも陥落せず。
永禄8年
(1565)
曳馬城主・飯尾連龍が今川氏によって謀殺される。
永禄11年
(1568)
徳川家康による遠江侵攻により、曳馬城が陥落。
元亀元年
(1570)
徳川家康、浜松城へ本拠を移す。
元亀3年
(1573)
三方ヶ原の戦いが起こる。
天正6年
(1578)
本丸・天守曲輪。作左曲輪などの新城普請(家忠日記)
天正14年
(1586)
家康、浜松城から駿府城へ本拠を移す。菅沼定政が浜松城代となる。
天正18年
(1590)
小田原の役後、徳川氏が関東へ移封。代わって堀尾吉晴が浜松城へ入る。
慶長5年
(1600)
関ヶ原の戦い後、堀尾氏が出雲へ転封。代わって松平忠頼が入封。
延宝8年
(1680)
大風によって浜松城内に被害が及ぶ。
宝永4年
(1707)
宝永地震によって二ノ丸御殿が被災。
明治6年
(1873)
廃城令の発布。2年後、二ノ丸と三ノ丸が民間に払い下げられる。
明治19年
(1886)
旧古城曲輪に東照宮が建立される。
昭和25年
(1950)
浜松城公園が開設される。
昭和33年
(1958)
鉄筋コンクリート造の復興天守が完成。
昭和34年
(1959)
天守曲輪・本丸とその周辺が市指定史跡となる。
平成21年
(2009)
浜松城公園歴史ゾーン整備基本構想を策定。
平成25年
(2014)
天守門が復元される。
平成29年
(2017)
続日本100名城に選出される。
令和4年
(2022)
浜松城復興天守の外装改修工事が完了。


【主な参考文献】
  • 大塚勲『井伊城・安倍城と戦国今川の城』(羽衣出版、2019年)
  • 小和田哲男『戦国静岡の城と武将と合戦と』(静岡新聞社、2015年)
  • 城郭遺産による街づくり協議会『浜松の城と合戦』(サンライズ出版、2010年)
  • 藤崎定久『日本の古城Ⅰ 中部・近畿編』(新人物往来社、1979年)
  • 本多隆茂・酒井一『東海道と伊勢湾』(吉川弘文館、2004年)
  • 中井均『秀吉と家臣団の城』(KADOKAWA、2021年)
  • 浜松市教育委員会『浜松における中世城館の調査』(2016年)

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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