【静岡県】浜松城の歴史 大河ドラマで注目を浴びる家康の出世城。江戸時代の歴代城主は要職に出世した人も多かった?
- 2023/04/04
また、近年でも令和4年(2022)に天守の外装工事が完了してリニューアルされ、さらに令和5年(2023)の大河ドラマでは主人公・家康の城として描かれます。
そんな注目を浴びる浜松城の歴史について、前身の曳馬城と合わせてご紹介していきましょう。
浜松城が築かれる以前にあった曳馬城とは?
中世の遠江・浜松一帯は「浜松庄」と呼ばれ、交通の要衝として引間宿が繁栄していました。その賑わいは「引間、市は富み、屋は千区」と謳われたほどで、東海道を代表する都市の一つだったようです。そして寛正年間(1460~1466)に吉良氏によって築かれたのが曳馬城(引間城とも)でした。ところが遠江の支配をめぐって、今川氏と斯波氏が抗争を繰り返します。その煽りを受けた吉良家中も内訌を起こし、親今川派と親斯波派に分かれてしまいました。
永正12年(1515)、斯波義達が挙兵して遠江へ侵攻。親斯波派の吉良重臣・大河内貞綱もこれに応じて曳馬城を占拠します。しかし永正14年(1517)には、吉良氏と結んだ今川氏親が出陣し、曳馬城で籠城戦が始まるのです。
曳馬城をめぐる攻防戦は激しかったようで、その様子は連歌師・宗長が記した『宗長日記』に詳しく描かれています。以下、現代語訳でご紹介します。
折からの洪水で川(天竜川)は海のようになっている。そこに三百余艘で舟橋を架け、数万の軍勢で討ち入った。敵を城に押し込めたあと、六月から八月まで城攻めをおこなった。安倍の金堀衆に外から掘らせ、城内の井戸はすっかり枯れ尽くしたようである。
大河内兄弟父子はじめ城に籠もる者は、ことごとく討ち死、討ち捨て、あるいは生け捕りとなった。捕らえられた男女が引き立てられる様は、目も当てられないほどである。
曳馬城が陥落したあと、西条城主・吉良義信は親今川派の飯尾賢連を城代として派遣しました。しかし賢連の子・乗連の代になると飯尾氏は吉良氏から離反し、今川氏の家臣として活動することになります。
さて、当時の曳馬城はどんな城だったのでしょうか?
まず位置的には、現在の浜松城において「古城」という部分にあたり、東西120メートル、南北140メートルほどの敷地を、堀で4分割した構造になっていました。
また、城の北側並びに北東部には「椿屋敷」「蛇屋敷」と呼ばれる区画があり、そこに屋敷地があったことをうかがわせます。あくまで吉良氏の支城ですから、さほど規模は大きくなかったのでしょう。
家康の本拠「浜松城」として大拡張される
永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が敗死し、今川氏の遠江支配は大きく揺らぎました。やがて「遠州忩劇」と呼ばれる国衆の反乱が相次ぐ中、乗連の跡を継いだ飯尾連龍は、今川氏を離れて徳川氏と結ぶ動きを見せます。しかし離反が今川方に露見したことで、永禄5年(1562)には大軍で曳馬城を攻められました。何とか城を守り切るものの、そののち連龍は今川氏真によって謀殺されてしまいます。
永禄11年(1568)には、武田信玄が駿河、徳川家康が遠江、と今川領へ同時に攻め込みます。この同時侵攻の背景には、武田と徳川で今川領を割譲する密約があったともいいます。井伊谷三人衆の案内で進軍した家康は、早くも侵攻5日後には曳馬城へ入りました。そして周辺の今川家臣に調略を仕掛け、匂坂吉政・久野宗能・小笠原氏助といった者たちが帰順しています。
なお、家康が曳馬城へ入る際、連龍の妻・お田鶴の方が城兵とともに奮戦し、徳川勢を悩ませたという伝承もあるようです。
やがて家康は、掛川城に籠もる今川氏真を屈服させて追放すると、ほぼ遠江を平定する形となりました。とはいえ、安定的な支配が進んだ三河と違い、遠江の情勢はまだ不安定です。また、武田信玄が約束に反して遠江へ兵を送り込んだことから、武田氏との関係も微妙なものとなっていました。そこで遠江を防衛する必要を感じた家康は、思い切って岡崎城から本拠地の移転を考えるのです。
まず家康が候補に選んだのは、天竜川の東にある「見付」でした。見付はかつて国府が置かれた所で、南北朝~室町期には今川氏が守護所を置いた場所でもあります。いわば遠江の政治・経済の中心地だったわけですね。
家康は永禄12年(1569)から見付に築城を命じますが、なぜか途中で放棄させています。その理由は武田氏との関係悪化にありました。もし攻められれば、西を天竜川が流れていますから「背水の陣」となります。たとえ織田信長に援軍を要請しても、川の水量によっては後詰できない可能性もあったのです。
そこで家康は見付に代わって、天竜川より西にある曳馬城を選びます。この城を大拡張することで、新たな本拠として生まれ変わることになります。
まず、西側の台地へ向かって城域が広げられ、東西420メートル、南北250メートルの規模を誇りました。また、本丸・二ノ丸・三ノ丸が直線に並んだ梯郭式城郭とし、防御性を高めています。そして城の名も「浜松城」へ改められました。
とはいえ、現在の浜松城とは違い、この時期には石垣や天守すらなく、土造りの城だった可能性が高いそうです。一方で家臣団の屋敷は、浜松城を取り囲むように三方ヶ原台地や東海道など、主要な街道沿いに配置されていました。
家康は元亀元年(1570)に初めて入城しますが、その後も改修・拡張工事は続けられたようです。徳川家臣・松平家忠が記した『家忠日記』によると、天正6年(1578)には「新城普請」と記載があり、大規模な城普請があったことがうかがえます。
また『遠江風土記伝』によれば、城が拡張されるに従い、そこにあった寺社が別の場所へ移転しているのです。まさに元亀~天正年間は、浜松城の大拡張期だと言えるでしょう。
堀尾吉晴の大改修で近世城郭となる
家康が駿府城へ移るまでの17年間、浜松城は徳川氏の本拠であり続けました。遠江支配の拠点として、また対武田氏の策源地として機能したのです。天正10年(1582)に武田勝頼が滅び、続く天正壬午の乱で甲斐・信濃の2か国を獲得した徳川氏にとって、新たな本拠地が必要となります。天正14年(1586)に駿府城を完成させた家康は、浜松から駿府へ居城を移します。代わって菅沼定政が城代として、浜松城の維持管理にあたっていたようです。
やがて天正18年(1590)に家康が関東へ移封になると、代わって豊臣系大名が東海道沿いに配置されました。浜松城には堀尾吉晴が入ることになり、ここから大改修が加えられていきます。
まず丘陵の頭頂部には新たに天守曲輪が普請されました。その東には本丸や二の丸が配置され、その先にある曳馬城跡も古城曲輪として活用されたようです。
さらに城の主要部には高石垣が積まれ、浜松城では初めてとなる天守が造営されました。ただし天守台の石垣には算木積の技法が用いられていることから、のちの文禄期に積まれた可能性が高いでしょう。
また、天守曲輪で出土した瓦には、織豊期の特徴がうかがわれることから、瓦葺きの建物が存在したことを示しています。
さて、関ヶ原の戦い(1600)が終わると、全国における諸大名の配置が一変しました。東海道筋には徳川譜代の大名たちが置かれ、浜松城には松平忠頼が入封しています。
浜松城は江戸時代を通じて改修と拡張が繰り返され、城下町と一体になった改変が進められました。三ノ丸は大きく広がって南に大手門、東に瓦門が新たに設けられています。また、東海道を城下へ移設するに伴い、旧来の引間宿を解体。浜松城を中心に新たな城下町が形成されました。ただし、堀尾氏が築いた天守は失われたようで、近世を通じて天守が再建されたという記録はありません。
譜代大名たちの出世城として
松平忠頼が浜松藩主になって以降、頻繁に藩主交代が繰り返されてきました。幕末まで実に11家が浜松と関わっています。歴代藩主の中には幕府要職を務めた者も多く、老中が13人、側用人が5人、若年寄が10人、京都所司代が5人、大坂城代が3人と、まさに浜松藩主になることは出世コースに乗ることを意味していました。中でも異色の存在なのが水野忠邦でしょう。江戸時代後期に「天保の改革」を断行した人物として有名ですね。
忠邦は唐津20万石の藩主だったにもかかわらず、たった6万石の浜松藩への転封を願い出ました。幕府要職への意欲が強く、減収を恐れた家臣の反対を押し切ってまで、出世コースに乗ろうとしたのです。その願いが叶って大坂城代から京都所司代、そして老中首座となって天保の改革を強行しますが、結果的に意図した成果を上げることはできませんでした。改革に失敗した忠邦は失脚し、晩年には出羽で蟄居・謹慎となっています。
さて、明治時代に入ると、明治6年(1873)に廃城令が発布され、浜松城の建物や土地は払い下げられました。この時に天守曲輪・本丸以外の曲輪は、大規模な土地改変を受けています。また明治19年(1886)には古城曲輪の跡地に東照宮が建立されています。
そして戦後の昭和25年(1950)年になると浜松城公園が開園。プールや動物園、遊具などが設置されました。さらに昭和33年(1958)には天守台の上に復興天守が築造され、現在でも浜松市のシンボルとして親しまれているのです。
おわりに
室町時代から幕末まで400年もの歴史を刻んできた曳馬城、そして浜松城ですが、小さな土造りの城から遠江支配の拠点、さらに大名たちの出世城へと役割を変えてきました。そして現在、大河ドラマの反響によって浜松城は注目されつつあります。野面積みの武骨な石垣は戦国の息吹を感じますし、少しこじんまりとした天守も風情があって良いものです。浜松城には、大きな城にはない魅力が詰まっていると言えるでしょう。ぜひ機会があれば訪れて頂きたいですね。
補足:浜松城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
寛正年間 (室町時代中期) | 吉良氏によって曳馬城が築かれる。 |
永正14年 (1517) | 今川氏親によって攻め落とされる。 |
永禄5年 (1562) | 今川氏真が曳馬城を攻めるも陥落せず。 |
永禄8年 (1565) | 曳馬城主・飯尾連龍が今川氏によって謀殺される。 |
永禄11年 (1568) | 徳川家康による遠江侵攻により、曳馬城が陥落。 |
元亀元年 (1570) | 徳川家康、浜松城へ本拠を移す。 |
元亀3年 (1573) | 三方ヶ原の戦いが起こる。 |
天正6年 (1578) | 本丸・天守曲輪。作左曲輪などの新城普請(家忠日記) |
天正14年 (1586) | 家康、浜松城から駿府城へ本拠を移す。菅沼定政が浜松城代となる。 |
天正18年 (1590) | 小田原の役後、徳川氏が関東へ移封。代わって堀尾吉晴が浜松城へ入る。 |
慶長5年 (1600) | 関ヶ原の戦い後、堀尾氏が出雲へ転封。代わって松平忠頼が入封。 |
延宝8年 (1680) | 大風によって浜松城内に被害が及ぶ。 |
宝永4年 (1707) | 宝永地震によって二ノ丸御殿が被災。 |
明治6年 (1873) | 廃城令の発布。2年後、二ノ丸と三ノ丸が民間に払い下げられる。 |
明治19年 (1886) | 旧古城曲輪に東照宮が建立される。 |
昭和25年 (1950) | 浜松城公園が開設される。 |
昭和33年 (1958) | 鉄筋コンクリート造の復興天守が完成。 |
昭和34年 (1959) | 天守曲輪・本丸とその周辺が市指定史跡となる。 |
平成21年 (2009) | 浜松城公園歴史ゾーン整備基本構想を策定。 |
平成25年 (2014) | 天守門が復元される。 |
平成29年 (2017) | 続日本100名城に選出される。 |
令和4年 (2022) | 浜松城復興天守の外装改修工事が完了。 |
【主な参考文献】
- 大塚勲『井伊城・安倍城と戦国今川の城』(羽衣出版、2019年)
- 小和田哲男『戦国静岡の城と武将と合戦と』(静岡新聞社、2015年)
- 城郭遺産による街づくり協議会『浜松の城と合戦』(サンライズ出版、2010年)
- 藤崎定久『日本の古城Ⅰ 中部・近畿編』(新人物往来社、1979年)
- 本多隆茂・酒井一『東海道と伊勢湾』(吉川弘文館、2004年)
- 中井均『秀吉と家臣団の城』(KADOKAWA、2021年)
- 浜松市教育委員会『浜松における中世城館の調査』(2016年)
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