【愛媛県】伊予松山城の歴史 江戸時代最後の天守を持つ名城
- 2025/05/01

また幕末に再建された天守は、江戸時代を通じて最も新しく、いわゆる現存12天守の一つに数えられています。さらに本丸と二の丸を繋ぐ登り石垣は国内で最長であり、希少価値の高い遺構と言えるでしょう。
そんな松山城は、「賤ヶ岳の七本槍」で知られる加藤嘉明(かとう よしあきら)によって築かれますが、なぜ彼は以前の城を捨ててまで松山城を築いたのか? その歴史とともにひも解いていきましょう。
なぜ加藤嘉明は、松山城築城を決断したのか
加藤嘉明は、豊臣政権の傘下にあって数々の軍功を挙げ、文禄3年(1594)に伊予6万石を与えられて松前城(まさきじょう。愛媛県伊予郡松前町)へ入りました。
朝鮮出兵から戻ってきた嘉明は、さっそく領内の整備に取り掛かり、家臣の足立重信を普請奉行に任じて、伊予川の改修工事を行います。当時の伊予川は暴れ川として知られ、一度決壊すれば付近の農村だけでなく、松前城までが危機に陥る恐れがあったからです。
足立重信は、現在の石手川の流路を南へ寄せて改修し、伊予川と合流させることで地域の灌漑・農地確保に成功。また要所に堤を築くことで水害を防止しました。現在でも「左馬助殿堤」という堤の痕跡を見ることができます。伊予川は改修工事に尽力した重信の名を取って、のちに「重信川」と呼ばれていますね。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで東軍に加わった嘉明は、加増を受けて20万石の大名となりました。新城の築城を決意するのは、ちょうどこの頃だと考えられますが、実はいくつかの理由があったようです。
まず松前城は堅固ではあるものの、大きな問題を抱えた城でした。嘉明は水軍の将として名を馳せますが、松前城も例に漏れず、海から近い城です。強い西風を受けて砂塵がもうもうと舞い上がり、風に煽られた高波が押し寄せることで、城の破損も少なくありません。さらに松前城は砂丘の上に建つことから、地震に対する弱点を抱えていました。
『松前叢談』はこのように述べています。
「然るに風強ければ砂天にあがり、波浪築地を越し高汐に櫓顛せんとす、或物音譁し、依て嘉明、閑地にて静なる処へ移んと眼を四方四維にくばり思慮を廻し給ふに云々」
砂塵や高波がひどくて喧しいから、どこか静かな場所へ引っ越したい。だからいい土地がないかと、領内をあちこち探し回ったということでしょう。
また、松前城は領内の端に寄り過ぎており、しかも20万石の太守の居城としては狭すぎたため、大きな城を築く必要に迫られたのかも知れません。
五重天守もあった? 築城場所の選定と普請
築城地を求めて領内をくまなく物色した嘉明は、道後平野にぽっかり浮かぶ勝山に白羽の矢を立てます。 とはいえ、勝手に城を築くわけにはいきません。新しい天下人である徳川家康の許可が必要でした。『松山俚人談』によれば、嘉明は「勝山・御幸寺山・天山」の3つの候補を提示したといいます。なぜなら家康は、新たに築城する者に対して、候補地を3つ上申させておいて、都合の良い場所に許可を与える方針を取っていたからです。
たしかに同じような話は、伊達政宗の仙台城や、毛利輝元の萩城などでも見られ、必ずしも架空とは考えられません。家康が「このような場所を好む」という傾向も事前にわかっていたらしく、諸大名は苦慮しながら候補地を選定していたのでしょう。
さて、「家康が第2候補を許可する傾向がある」との情報を得た嘉明は、第2案に勝山を提示しました。すると見事に的中し、あっさりと築城の許可が下りたといいます。
そして普請奉行には、伊予川改修工事で名を上げた足立重信が任じられ、慶長7年(1602)から築城工事が始まりました。
勝山は南北2つの峰で成っていたことから、まず両峰の山頂を削り、谷を埋めることで平地にしています。頂上にある本丸は、南北に細長く、一説には五重天守が聳え立っていたとか。ただし、絵図には描かれていないため、正確なことはわかっていません。きっと山麓から見上げれば、堂々たる威容を備えていたことでしょう。
次いで勝山の南西麓に二の丸を置き、西の平地に三の丸を配置しています。築城当時、二の丸に置かれた御殿が城主の居館であり、政治の中心となる政庁となっていました。三の丸には上級家臣の屋敷を置き、周りを堀で囲んだことから「堀之内」と呼ばれています。
一から城を築くのに費用も資材も足りていなかったため、松前城をはじめ、近隣の湯築城を取り壊して資材を再利用したといいます。昭和24年(1949)に焼失した筒井門などは、松前城から移築した門だったそうです。
ついに城が完成 松山の基礎が出来上がる
翌慶長8年(1603)には、嘉明をはじめ、家臣たちが勝山へ移り、この時に初めて「松山」と名付けられました。また、城下町の整備もどんどん進んでいきます。築城にあたっては、桶を頭に載せて海産物を売り歩く「おたた」が活躍したという言い伝えがあります。彼女たちは魚の代わりに、築城用の資材を桶に載せ、松前から松山まで列を成して運んでいたとか。
おたたたちは、そんなふうに唄いながら働いたそうです。また、嘉明の正室が労をねぎらい、路上で握り飯を振舞ったという逸話も伝わっていますね。現在、松山市の日招八幡大神社には、おとよ石(重さ約300キロ)という巨石が残されています。これは「於豊」というおたたが、石を築城現場へ運ぶ途中、あまりに重いので落としてしまった石と伝わるそうです。
その後も築城工事は続きましたが、寛永4年(1627)に加藤家が会津へ移封となったことで、嘉明は完成した姿を見ることはできませんでした。次いで松山城へ入ったのが、蒲生氏郷の孫にあたる忠知です。この時期にようやく二の丸が完成し、ついに25年の歳月を掛けた築城工事は終了。松山城は完成したのです。
それから8年後、京都にいた忠知が病死し、嗣子のなかった蒲生家は断絶となりました。そして寛永12年(1635)に松平定行が松山城へ入ります。その家柄は久松松平家として知られ、徳川家康の生母・於大の方の血統を継ぐ一族でした。ちなみに久松松平家の系統は松山のほか、桑名、今治にも配され、徳川将軍家を守るべき存在として、幕末まで存続しています。
こうして松山城は完成を見ましたが、城下町の整備も同時に進められていました。まず東・南・北の各曲輪に重臣クラスの屋敷が配置され、三の丸と城南・城西には上級家臣の居住地が置かれます。さらに城の南北には、中・下級家臣が住む侍町、城東には徒士町が定められ、侍町の南東一帯が町人町として配されました。
時代が下り、人口が増えるにつれて武家地や町人町は拡大していき、現在見られる松山市街の基礎が出来上がったといいます。今でも松山市には「松前町」や「古町」という地名が残りますが、かつて嘉明が城下町を作ろうした際、租税を免除するという条件で、松前の町人たちを集団移住させました。
その名残は今も残っており、例えば今の地図と古地図を照らし合わせてみると、その町割りの様子はほとんど変わりません。つまり420年が経過した現在でも、嘉明が作った町割りはしっかり機能しているのです。

なぜ現在の天守が三重になった!?
新しい城主となった松平定行は、幕府の許可を得て城の改修を行いました。この時、櫓や石垣の手直しをするとともに、天守の改築に乗り出しています。なぜ五重から三重にする必要があったのでしょうか?往時の記録が残っていないために定かではありませんが、2つの理由が考えられます。まず、立派な威容を誇っていた五重天守ですが、谷を埋めた軟弱な地盤にあったことで、年月の経過とともに傾いたというもの。三重天守に改築することで、地盤への負荷を抑えたかったとされています。ただし、蒲生時代に描かれた城絵図には、天守の姿がどこにもありません。そもそも加藤嘉明が天守を築いたのではなく、蒲生忠知によって築かれたという説もあるとか。
次に五重天守が倒壊もしくは破損したために、新たに三重天守を建築したという説です。現在の本壇石垣は、すべて久松松平時代のものであり、とりわけ天守台は江戸後期に築造されたと考えられます。従って文献に残されている「五重天守を三重天守に改築した」という記述は、後世の錯誤もしくは脚色だという可能性も否定できません。
また、宝永7年(1710)に編纂された『予陽郡郷俚諺集』によれば、このような一文が出てきます。
「慶長十九年十月廿五日、大地震して温泉元の如し、又、寛永二年三月十八日、地震して温泉没して出てす」
おそらく加藤嘉明の時代に、温泉が止まってしまうほどの大地震が2度あったのでしょう。この時に五重天守が倒壊し、解体された可能性も指摘されています。
江戸時代最後の城郭建築となる
貞享4年(1687)、松平定直が新たに御殿を建設し、政務の中心は三の丸に集約されました。従来の二の丸御殿は世子(藩主の跡継ぎ)の住居として用いられたようです。やがて松平定国の治世にあたる天明4年(1784)のこと、落雷によって天守が焼失しました。定国はすぐさま幕府に掛け合って再建の許可を得ますが、財政悪化のため一向に着手できません。ようやく工事に取り掛かったのは、実に37年も経った頃でした。
一時的に工事が中断する期間はあったものの、安政元年(1854)に念願の天守再建が成り、これが現在見られる松山城天守となります。実に70年の歳月を掛けたわけですね。また、江戸時代最後の城郭建築だとされています。当初は隅櫓や渡櫓などを持つ複合式天守だったのですが、のちに放火によって、現在のような姿となります。
そして幕末、旧幕府側だった松山藩は、追討令を受けたことで朝敵となってしまいます。やがて土佐藩兵に城を明け渡すこととなり、しばらくは新政府の預かりとなりました。
明治6年(1873)、松山城は廃城令の対象となるものの、県庁移転や陸軍省への移管を機に、多くの建造物が残されることになりました。明治30年代になると、市民による公園化の声が高まり、明治43年(1910)には「松山公園」として開園。さらに旧藩主の養子・久松定謨が、本丸跡を松山市へ寄贈したことで、本格的な公園化への道が開けました。
昭和8年(1933)、天守を除く建造物の多くが焼失。また太平洋戦争末期、戦災によって11の建物が失われています。それでも天守を含む、21棟の建造物が国の重要文化財に指定され、復元された建物と合わせて、城全体が史跡公園として残ることになりました。
おわりに
松山城天守から見渡せば、なぜ加藤嘉明がそこに城を築いたのかが、よくわかることでしょう。眼下には城下町を望み、さらに道後平野を360°一望できるからです。「松山城こそが伊予の中心である」そんな思いが伝わってきますね。
そして四国随一の大都市・松山は、城ととともに発展してきました。もちろん松山の人々にとって、城は誇りであり、心のシンボルに違いありません。
かの俳人・正岡子規は次の素晴らしい句を残しています。 まさに松山城は地域を代表するランドマークなのでしょう。
「松山や秋より高き天主閣」
補足:伊予松山城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
慶長7年 (1602) | 加藤嘉明によって勝山の築城工事が始まる。 |
慶長8年 (1603) | 勝山の城へ嘉明が入り、松山城と名付けられる。 |
寛永4年 (1627) | 嘉明が会津へ移封。代わって蒲生忠知が藩主となり、松山城が完成する。 |
寛永11年 (1634) | 忠知が死去し、蒲生家が断絶。大洲藩主・加藤泰興らが城を預かる。 |
寛永12年 (1635) | 伊勢桑名より、松平定行が松山藩主となる。 |
寛永19年 (1642) | 定行が五重天守を三重天守へ改築する。(もしくは新築) |
貞享4年 (1687) | 三の丸御殿が完成し、政務の中心となる。 |
天明4年 (1784) | 落雷によって天守が焼失。 |
安政元年 (1854) | 天守が70年ぶりに再建される。 |
明治3年 (1870) | 火災により三の丸が全焼。 |
明治5年 (1872) | 火災により二の丸が全焼。 |
明治43年 (1910) | 城跡が松山公園として開園する。 |
昭和8年 (1933) | 放火により小天守・隅櫓・多聞櫓などが焼失する。 |
昭和20年 (1945) | 戦災により乾門などが焼失する。 |
昭和25年 (1950) | 天守はじめ21棟の建造物が、国の重要文化財に指定される。 |
昭和27年 (1952) | 城の大部分が国の史跡に指定される。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選定される。 |
【主な参考文献】
- 四国地域史研究連絡協議会『四国の近世城郭』(岩田書院、2017年)
- 日下部正盛『加藤嘉明と松山城』(愛媛新聞サービスセンター、2010年)
- 森敦・北畠八穂ほか『日本名城紀行1』(小学館、2018年)
- 松山市教育委員会『日本の城と城下町⑥ 松山城』(創元社、2023年)
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
コメント欄