【長野県】荒砥城の歴史 信玄の強敵・村上一族の重要拠点。現在は千曲市城山史跡公園として整備

 信濃国更級郡(現:長野県千曲市)には、かつて築城されてからおよそ60年で廃城となった荒砥城(あらとじょう)がありました。戦国時代を代表する合戦である川中島の戦いを繰り広げた武田信玄と上杉謙信が奪い合った城でもあります。

 今回はそんな荒砥城の歴史についてお伝えしていきます。

信玄を苦しめた村上氏の支城

 冠着山から千曲川へと延びている舌状屋根の突端部分に築かれたのが荒砥城です。当時この一帯を支配していた村上氏の氏族である山田氏によって、大永4年(1524)に築城されたと伝わっています。山田城は荒砥城の別名で、砥沢城とも呼ばれていました。

 城の形式は郭を連ねる「連郭式山城」で、同じ屋根上には、荒砥小城や若宮入山城といった支城や狼煙台と考えられている證城が続いて建てられています。ちなみに村上氏の居城である葛尾城が千曲川を挟んで対岸に位置しており、村上氏の領地の中でも重要な拠点であったことがわかります。

荒砥城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 村上義清が侵攻してくる武田信玄(当時は武田晴信、以降の表記は武田信玄で統一)と争っていた頃、この荒砥城は村上氏の庶流である屋代氏が城主を務めています。

 上田、更級、埴科地方を支配していた村上氏は、甲斐国から信濃国の佐久地方や諏方地方に侵攻してきた武田氏と激突します。義清は二度に渡って武田氏の軍勢を撃退しましたが、天文21年(1552)にはついに居城である葛尾城まで押されました。

 対岸の荒砥城の城主である屋代政国は、天文22年(1553)に塩崎城の城主と共に武田氏に内応します。追い込まれた義清は態勢を整えるために葛尾城を一端捨てて、越後国の上杉謙信(当時は長尾景虎、以降の表記は上杉謙信で統一)を頼りました。

 荒砥城はその後も屋代氏が城主を務めますが、戦いは武田氏と村上氏から武田氏と上杉氏へと発展していき、その激戦に巻き込まれていきます。そのため荒砥城は、武田氏の領地になったり、上杉氏の領地になったりと二転三転することになるのです。

 なお、荒砥城の城主であった政国は享禄4年(1561)の第4次川中島の戦いで戦死したという説と、その後も生きており、武田氏の滅亡後には織田信長の配下である森長可の与力となったという説があります。

上杉氏と武田氏の争い

 武田氏の領地となった荒砥城でしたが、謙信が義清に力を貸す形で信濃国に侵攻、天文22年(1553)、上杉氏の軍勢が荒砥城を落としました。

 しかし上杉氏の軍勢が越後国に帰還すると、武田氏に寝返っていた屋代氏や室賀氏などが再び城に攻め寄せ、葛尾城も荒砥城も奪還することに成功します。義清は葛尾城に火を放ち、城を捨てて越後国へ落ち延びていきました。

 つまり荒砥城はわずか1年間のうちで、激しい合戦を経て村上氏→武田氏→上杉氏→武田氏と領主を変えたのです。そしてこの後、5回に渡って川中島合戦が行われ、12年間続く武田氏と上杉氏の戦いの渦中に身を置くことになるのです。

上杉氏の領土となり、まもなく廃城。

 天正10年(1582)に武田氏が滅びると、荒砥城の城主を務めていた屋代秀正(屋代政国の養子、政国の弟・室賀満正の子)は、上杉氏に従属します。これにより、荒砥城は上杉氏の領地となり、秀正は海津城代である山浦景国(村上義清の嫡男、上杉景勝の養子)の与力として仕えました。景国にとっては父の代の旧領を見事に奪還したわけです。

 従属を誓っても以前に義清を裏切って武田氏に寝返った屋代氏は上杉氏から警戒されており、その隙を突いて内部分裂を狙う徳川家康が更級郡の本領安堵を条件に内応の密約を交します。徳川氏もまた信濃国に侵攻していたのです。

 秀正は天正11年(1583)に上杉氏から正式に離反して荒砥城に籠城しますが、まもなく上杉氏の軍勢に攻められ落城。秀正は落ち延びて家康を頼り、その後は旗本となっています。荒砥城を屋代氏が奪還する機会はなく、上杉氏によって廃城となってしまいました。

城山史跡公園として整備される

 その後、江戸時代、明治時代と長い期間放置されていた荒砥城跡でしたが、平成2年(1990)から取り組みが始まった上山田町(現千曲市)の「ふるさと創生事業」によって、5年の歳月をかけて整備され、平成7年(1995)6月に「城山史跡公園」としてオープンしました。

 戦国時代の山城を感じられるように曲輪の遺構が残されている他、曲輪には石垣、標高590mの山頂(千曲川との高低差220m)には本郭、その下には二の郭、櫓、兵舎が復元されています。城跡は千曲市の史跡に指定されています。

 ちなみに荒砥城跡は、NHK大河ドラマの撮影ロケ地として利用されたことでも有名で、平成19年(2007)に放映された「風林火山」では佐久海ノ口城に見立てて撮影され、平成22年(2010)に放映された「江~姫たちの戦国」では小谷城に見立てて撮影されています。

あとがき

 60年間という短い寿命ではありますが、戦国時代を代表する戦国大名の武田信玄と上杉信玄の軍勢が何度も激突した戦場が荒砥城です。

 武田氏、上杉氏、双方どのような願いでこの城を奪い合ったのか、復元された山城の城郭を歩きながら思いをはせてみるのもいいのではないでしょうか。春は桜の名所であり、北信濃の山々や北アルプスの雄大な絶景も楽しむことができます。

補足:荒砥城の略年表

出来事
大永4年
(1524)
山田氏によって築城されたと伝わる
天文22年
(1553)
城主の屋代政国が武田氏に内応。同年、長尾氏の軍勢が占領するが、武田氏が再び奪還
天正10年
(1582)
武田氏滅亡後、城主の屋代秀正が上杉氏に従属
天正11年
(1583)
屋代秀正は徳川氏に寝返るが、上杉氏の軍勢によって落城。その後、荒砥城は廃城
平成7年
(1995)
本丸跡の太鼓櫓が再建
平成19年
(2007)
NHK大河ドラマ「風林火山」のロケ地となる(佐久海ノ口城の見立て)
平成22年
(2010)
NHK大河ドラマ「江」のロケ地となる(小谷城の見立て)


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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