【滋賀県】大津城の歴史 たった15年しか存在しなかった豊臣の城
- 2023/11/09
かつて近江国大津には、琵琶湖を望む壮大な城が存在しました。それが豊臣秀吉の肝入によって築城された大津城です。この城は琵琶湖水運の要衝として、また物流の拠点として機能し、戦略上の要地としても重要視されていました。
現在、城跡は大津の市街地化にともなって消滅し、わずかに歩道橋下にある石碑が、かつてそこに城があったことを示すのみです。しかし近年、発掘調査によって建物遺構や石垣跡が検出され、徐々に大津城の姿が明らかになりつつあります。
たった15年しか存在しなかった大津城ですが、その太く短かった歴史をご紹介していきましょう。
現在、城跡は大津の市街地化にともなって消滅し、わずかに歩道橋下にある石碑が、かつてそこに城があったことを示すのみです。しかし近年、発掘調査によって建物遺構や石垣跡が検出され、徐々に大津城の姿が明らかになりつつあります。
たった15年しか存在しなかった大津城ですが、その太く短かった歴史をご紹介していきましょう。
【目次】
秀吉によって築かれた大津城
大津城が築かれる以前、琵琶湖北岸にあった坂本城が水運・物流の一大拠点として機能していました。坂本城は明智光秀が築いた城ですが、山崎の戦い(1582)で光秀が敗死すると落城し、新たに丹羽長秀が入って天守の修復をおこなったといいます。天正11年(1583)に秀吉が賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を打ち破ると、坂本城に杉原家次、次いで浅野長政を配しました。さらに近江の支配を確実なものにしようと動きます。それが新たな城の築城でした。従来、琵琶湖水運によって運ばれる物資は坂本で陸揚げされ、さらに山中越えを経て京都へ輸送されていましたが、これを逢坂越えに変更しようとしたのです。
逢坂を越えれば宇治川を経て淀川へ出られますから、大坂城までワンストップで物資の輸送が可能でした。秀吉は京都を経由せずに運べるルートを確保したかったのでしょう。そこで坂本城の南に位置する浜大津に目を付けたのです。
いつ大津城の築城が始まったのか? これはハッキリしていませんが、天正14年(1586)頃が定説となっています。『兼見卿記』によると、前年の正月を最後に秀吉の坂本城滞在が記述されておらず、それ以降は大津城に関する記録のみが見られるからです。
完成した大津城の城主には浅野長政が任命され、天正17年(1589)に長政が小浜城へ移封になると、次に増田長盛が入りました。いずれも秀吉が信頼する豊臣大名だったことから、まさしく大津城は豊臣の城だったのです。
また、浅野や増田らは琵琶湖各地の津(港)から水運業者を大津へ集めさせ、「大津百艘船」と呼ばれる船持仲間を組織させました。これは琵琶湖水運を掌握するとともに、大津を経済都市として発展させる目的があったからでしょう。
坂本城の遺構を再利用して築かれた大津城
坂本城の廃城に伴って、大津築城が連動していることから、坂本城の遺構が移築されたのでは?と考えられています。おそらく解体後の廃材や石材が大量に浜大津へ持ち込まれ、新たな城として生まれ変わったのでしょう。ちょうど戦国時代末期から安土桃山時代にかけては空前の築城ブームが現出し、多くの織豊系城郭が誕生しています。必然的に城を構成する部材が慢性的に不足していたはずで、新しい城を造るにしても、古い部材の再利用が普通に行われていました。
その際に活躍したのが近江の穴太衆だと言われています。棟梁となる穴太頭たちは、各地からの築城要請に従い、弟子を二、三人引き連れては現場へ出向いていたとか。ただし石材の運搬や補助作業については、現地の農民を臨時雇用したようです。そのため築城工事の期間は、稲刈りが終わってから田植えが始まるまでと決まっていました。
坂本城の石材も浜大津へ運ばれ、そこで城の石垣として再利用したのでしょう。現在の坂本城址に石垣がほとんど残っていないのも、そこに理由があるのです。
また面白いことに、坂本と大津には共通の地名がいくつも存在していました。これは城下町ごと移転したことを示しており、城だけでなく住民も含めた引っ越しだったことがうかがえるのです。
さて、当時の大津城がどんな城だったのか?もちろん絵図など残っておらず、城跡はすっかり市街地と化していることから、復元は困難な状況です。しかし、明治以降に考証された図面などの資料が残っていることから、大津市教育委員会が昭和55年(1980)に『大津城復元図』として縄張りを復元しています。
それによると、本丸は琵琶湖に面して浮かぶように配置され、さらに本丸を守るかのように奥二の丸・二の丸・三の丸や伊予丸などが並んでいました。
それぞれの曲輪を分割するように三重の水堀めぐっていて、まさに水城の様相を呈していたようです。また城域は東西700メートル、南北600メートルだったと推定され、外堀の向こうに城下町が存在していました。
昭和から平成に至るまで、十数カ所で発掘調査が行われていますが、石垣や礎石建物跡などが検出され、豊臣の城を示す金箔瓦なども出土しているとか。ただし本丸以外の発掘が進んでいないことから、今後の調査によって新たな大津城の遺構が見つかるかも知れません。
関ヶ原合戦の前哨戦となった「大津城の戦い」
浅野長政・増田長盛の次に城主となったのが、秀吉の御伽衆だった新庄直頼です。さらに文禄4年(1595)には、秀吉の縁戚にあたる京極高次が6万石で入封してきました。そして慶長5年(1600)、いよいよ関ヶ原の合戦が始まります。この時、高次は東軍に属して大津城で籠城し、西軍の毛利元康・立花宗茂ら1万5千の軍勢を迎え撃ちました。
ところが、大津城はすり鉢状の地形にあったことから、長等山に据え付けられた大砲によって狙い撃ちに遭っています。京都の町人たちは籠城戦の様子を見るため、弁当持参で見物にやって来たとか。
それでも京極勢は粘り強く戦いました。水城の利点を生かして効果的な反撃を繰り出し、京町口と尾花川口を固めて敵を大いに悩ませています。それでも数で圧倒する西軍が外堀を埋めて三の丸へ攻め込み、さらに二の丸を攻略したことで、いよいよ本丸を残すのみとなりました。
ここに至って高次は、木喰応其や淀殿の説得に応じて開城することに踏み切り、剃髪したうえで高野山へ登ったといいます。とはいえ大津籠城戦の結果、毛利元康らは本戦に間に合わず、これが関ヶ原における東軍の勝利へと繋がりました。
その後、大津城へ入った徳川家康は7日間留まって戦後処理をおこない、さらに高次へ使者を派遣して功績を高く評価しています。その結果、高次には若狭小浜8万2千石が与えられました。
しかし大津城は籠城戦によって、本丸以外は激しく焼亡してしまったといいます。
膳所城の築城によって廃城となる
関ヶ原の戦いが終結した直後、戸田一西が大津城主となりました。さっそく被害を受けた城の修築に乗り出すものの、低地にある大津城では守りに難があると見なされてしまいます。そこで新たに膳所城を築くこととなり、解体された大津城の部材が再利用されました。しかし家康は大津城を高く評価していたようで、「井伊年譜」はこのように記述しています。
「此殿守ハ遂ニ落不申目出度殿主ノ由」
天守を含めた本丸は落ちなかったのだから、縁起の良い城であると褒め称えたのです。
そこで大津城の天守は、膳所城ではなく彦根城へ移設されました。昭和32年(1957年)の彦根城天守解体修理の際には、移築天守であることが明らかとなり、前身の天守は五層四重であると判明しています。また二階と五階には破風が設けられていたとか。
やがて江戸時代になると大津は天領となり、西廻り航路で大量の米が入ってくることから、蔵が立ち並ぶ商業都市として発展しました。しかし、廃城後の本丸跡には大津代官所が置かれ、琵琶湖と直結していた三重の堀も一部を残して埋め立てられています。
江戸時代を通じて大津城の遺構は徐々に消滅し、現在ではその痕跡すら見つけることができません。しかし大津城の城郭研究は現在進行形で進んでおり、新たな遺構の発見も含めて、今後の研究成果が期待されているのです。
おわりに
わずか15年という短命に終わった大津城ですが、果たした役割は大きいものがあります。歴史的な戦いの舞台になっただけでなく、今ある大津の繁栄は大津城の存在があったからに他なりません。また日本の城郭史を知る上でも、貴重な城郭であることは間違いないでしょう。坂本城から遺構を引き継ぎ、さらに彦根城へ天守が移されたわけですから、これは「城の系図」と呼んでも差し支えないかも知れません。彦根城天守は、今はなき大津城のDNAを現在も受け継いでいるのです。
補足:大津城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
天正14年 (1586) | 坂本城が廃され、新たに大津城が造られる。初代城主は浅野長政。 |
天正17年 (1589) | 浅野長政が若狭小浜へ移り、新たに増田長盛が城主となる。 |
天正19年 (1591) | 増田長盛に代わって新庄直頼が城主となる。 |
文禄4年 (1595) | 新庄直頼が摂津高槻へ移り、新たに京極高次が城主となる。 |
慶長3年 (1598) | 近畿地方を襲った地震によって、大きな被害を受ける。 |
慶長5年 (1600) | 関ヶ原の戦いに伴って大津籠城戦が勃発。京極高次は降伏・開城。 |
同年 | 徳川譜代の戸田一西が入城。城の修築を行う。 |
慶長6年 (1601) | 新たに膳所城が築城され、大津城は廃城となる。 |
【主な参考文献】
- 仁木宏・福島克彦「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」(吉川弘文館 2015年)
- 滋賀県教育委員会「近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く」(サンライズ出版 2006年)
- 中井均「近江の山城ベスト50を歩く」(サンライズ出版 2006年)
- 須藤譲「穴太衆積みと近江坂本の町」(サンライズ出版 2021年)
- 淡海文化を育てる会「近江の城下町を歩く」(サンライズ出版 2005年)
- 中井均「戦略で探る近江の城 大津籠城戦と京極氏」(しがぎん経済文化センター 2016年)
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