大河ドラマ「光る君へ」 平安時代の人々は疫病にどのように対応したのか?
- 2024/04/22
大河ドラマ「光る君へ」第16回は「華の影」。主人公のまひろ(紫式部)が疫病に苦しむ人々を見て衝撃を受ける場面が描かれていました。
一条天皇の御代の正暦5年(994)、都を疫病が襲います。それは紫式部が10代後半か20代頃のことでした(式部の生年に諸説あるため)。平安時代後期の歴史書『本朝世紀』には、疫病に人々がどう対応したかが記されています。
同年4月24日、京中の路頭に「借屋」(仮屋)が設置されています。その仮屋は薦筵で覆われていました。「病人」を収容するための仮屋が、宣旨(天皇の命令を伝える文書)が発給されることにより造られたのです。
病人は仮屋に収容されただけでなく、空車に乗せられて薬王寺に運送されます。それでも疫病で亡くなる者が多く、死体が路頭に転がっていたと言います。まさに、劇中でまひろが目にしたような惨状です。京中には死臭が満ち、犬や鳥は死体を漁り、骸骨が散乱するという地獄絵図が『本朝世紀』に記載されているのです。
疫病を防ぐため、清涼殿(内裏の殿舎の一つ)にて臨時の読経が行なわれます(4月28日)。また、疫病は「神」の祟りとされたため、伊勢神宮や石清水八幡宮ほか各社に奉幣使が遣わされました(5月20日)。それでも疫病の流行はなかなか止みません。疫病を沈めるため「石塔」を作ることが命じられたり、大赦(罪の免除)が行われたりしました。現代人から見たら「非科学的」なことかもしれませんが、あの手この手で疫病を封じ込めようとしたのです。同年6月16日には「妖言」(怪しげな流言)が発生します。それは「疫神」(疫病の神)が「横行」するというものでした。
しかし、この流言を都人は信じます。庶民のみならず、高貴な公卿も同様でした。彼らは疫神の横行を恐れて、門を閉め、外に出なかったのです。疫病流行という恐慌時には、公卿も庶民もその対応に違いはなかったと言えましょう。災害などの恐慌時に流言が飛び交うことは現代でもよく見られることですが、その流言が真実か否かを見極めることが肝要と言うべきでしょう。
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