江戸っ子の四季の楽しみ 「た~まや~」…夏は大川の花火と納涼船
- 2024/07/09
つましい暮らしの中でも四季の移ろいを忘れず、日本の美しい自然を愛して暮らした江戸っ子たち。そんな彼らの夏の楽しみと言えば、やはり大川(江戸の人々は墨田川を大川と呼んでいました)の花火大会です。
最初は貴人・権力者が楽しんだ花火
花火の楽しみもご多分に漏れず、最初は貴人や権力者のためのものでした。天正17年(1589)7月、明国人3人が花火を持って仙台の伊達政宗の元を訪れ献上、列席者に配ってそれぞれが楽しんだ、とありますから手持ち花火のようなものだったのでしょう。それから24年後の慶長18年(1613)8月、今度は徳川家康が同じく明国人が持ってきた花火を楽しんでいます。
このころはまだまだ一部の者しか味わえない楽しみでした。ところが慶安元年(1648)になると、お江戸に次のような町触れが出されています。
「町中にて鼠火、流星その外花火の類をすまじき事。ただし川口に置いては格別の事」
つまり、すでに禁止しなければならないほど花火は市中に出回っていたこと、少なくとも鼠火・流星と具体的な名前が付いた花火があったこと、そして墨田川の河口付近での花火は特別に認められていたことがわかります。
どうやら花火は30年ほどの間に江戸市中に出回り、庶民が楽しめるものになっていたようです。そしてそれは舶来品の高価なものではなく、日本で花火の製造・販売が行われていたことを示しています。
大花火大会は吉宗公のお声がかり
旧暦の5月28日、お江戸は大川の川開きです。初日は両国橋近辺で大々的に花火が打ち上げられ、江戸っ子が待ちに待っていた大川の花火大会が始まります。この大花火は享保10年(1725)ごろに、八代将軍徳川吉宗のお声がかりで始まったと言われます。飢餓や疫病によって続出した多くの犠牲者の供養と厄払いを兼ねての催しでした。これが現在までも続いている墨田川花火大会の始まりです。
川開きの日から川終いの8月28日までの3ヶ月間は、夜の納涼船の運航が許されました。特に初日は何でも一番になりたい江戸っ子たちが乗り込んだ屋形船や屋根船で墨田川は大混雑「こっちが先だお前が譲れ」の争いもあちこちで見られました。
ところでここで言う屋根船が現在の屋形船で、江戸時代に屋形船と呼んでいたのは、ほとんどまるまる家一軒を船の上に造ってしまったたほどの豪勢なものでした。豪商たちが仕立てて特別な客人を招く船だったのでしょう。屋根船の船賃は船頭一人だと客一人頭300文、二人付くと400文ほどです。現在だと9000円から12000円ほどですから、出せないお金でもありません。明治時代の写真には、屋根船の屋根に上って川遊びをしている人たちが写っています。
このような納涼船は川岸にずらりと並ぶ船宿の所有物で、ここで予約を取って船を出してもらいます。1800年代の文化年間には江戸の船宿は600軒もありましたが、宿と言っても人間は泊めずに釣り船や川遊びの船を貸し出して商売をしていました。船宿の建物は船の停泊所の意味で宴会や休憩によく利用され、遊里への客が待ち合わせに使うなど、気の利いた社交場として大いに繁盛しました。
それにしても600軒が商売として成り立っていたのですね。川開きがされている3ヶ月の間は周辺の茶屋や見世物小屋も夜間営業を行い、毎晩大勢の夕涼み客で賑わいます。
八重桜・唐松・山吹、美しい名前の花火の進歩
現在では世界有数の美しい花火を持つ日本ですが、江戸時代の人々も出回り始めた花火に様々な工夫を凝らします。宝永3年(1706)の『孝坂流花火秘伝書』なる書物に絵入りで紹介されています。すでに手持ちではなく、筒を使って上方へ火花が噴き出すようにした「和国一」や、支柱に4つの吹き出し口付き羽根車を取り付けて、点火するとそれぞれがくるくる回りだす「からくり花火」がありました。花火にも八重桜・唐松・山吹・御代桜・車火など美しい名前が付けられます。
その後も花火職人は工夫を凝らしますが、打ち上げ花火は筒から飛び出した花火玉が最高点に到達したころに内部の火薬に火が回り、爆発させる構造です。これらの技術は花火屋独自での開発はなかなか難しかったようで、花火屋として有名な鍵屋では、大筒を扱う武士に頼み込んで製造術を教えてもらった、と昭和の時代になってから明かしています。狼煙や鉄砲の火薬を扱う武士のほうが、このような技術を持っていたのでしょう。
子供用と銘打った花火も、大黒福鼠・薄・三ケン玉・鼠に鼬に道成寺と各種売り出され、江戸の町中を振り売りが売って廻ります。そのうちの9種類は火事を起こす恐れがあるので禁止されるほどでした。また、打ち上げ花火の高さも24、5間(約45m)までに制限され、打ち上げる場所も大川筋に限られます。火災防止と共に華美になるのを止めるためですが、技術的にはもっと高く打ち上げられたようです。
打ち上げに使う筒もしっかりと作っておかねば事故の元です。一例として大木の幹を縦2つに割り、それぞれ内部を半円形にくり抜きます。これを合わせて筒にしますが、打ち上げの勢いではじけぬよう、両側に銅板を食いこませてしっかり止めつけます。さらに竹のタガをはめたり縄でぐるぐる巻きにして補強しました。
賑やかに川遊びをする人たち
川開き以降、大花火は3回行われ、その費用は船宿や両国橋近辺の飲み屋・料理屋が出します。花火大会がない日でも納涼船は多数浮かんでおり、その間を花火船が「花火はいいかが」と声を掛けながら漕いでまわります。これは客から注文を受けてその場で手花火を上げて見せるものです。金を出す客がいると「上州屋の旦那、一両の花火」と大声でまわりに知らせ、花火を上げます。一両と言えば10万円と結構な値段ですが、裕福な商人は「上州屋の旦那だ、気前の良いことだ」の声に惜しげもなく金を出します。
大川には見物の船だけでなく、酒や食べ物を売る船、猿回しや人形を使う見世物船、賑やかに音曲を奏でる船など、涼み客を当て込んだ様々な船が納涼船の間を縫うように漕ぎまわり、人々を楽しませます。長屋の衆は船も出せませんが、橋の上で夜風に吹かれながら江戸の夏を楽しみました。
おわりに
楽しい一夜もやがて、花火船が松明を回して炎で円を描くと花火大会はお開きです。しかし、川面の納涼船が減ることは無く、涼み客は夜明けまで飲み歌い明かし、お江戸の夏を楽しみました。【主な参考文献】
- 河合敦監修、時野佐一郎著『歴史群像シリーズ、図解・江戸の四季と暮らし』学研/2009年
- 福澤徹三『ものと人間の文化史、花火』法政大学出版局/2019年
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