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  • 毛利元就
 2019/07/01

「安国寺恵瓊」毛利の外交僧(使僧)として生きた男、最後の最後に見誤る

安国寺恵瓊の肖像画

毛利家の活躍の傍らには、常に安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)という禅僧がいました。毛利の使僧として活躍した恵瓊は、やがて秀吉との関係を深め、関ケ原の戦いの選択で身を亡ぼすことになります。

人生の後半は豊臣側に寄りつつも最後まで毛利と運命を共にした安国寺恵瓊。そもそも、彼はなぜ毛利家に仕えることになったのでしょうか。その出自から追っていきましょう。
(文=東 滋実)

敵の毛利に仕えるまで

安国寺恵瓊が臨済宗の僧になる以前、もともと彼は毛利よりも上の立場にありました。しかし、後に仕えることになる毛利の手で一族が滅びることになるのです。

安芸武田氏の生まれ

安国寺恵瓊は鎌倉時代から続く名門・安芸武田氏の生まれとされています。父親に関しては諸説ありますが、武田信重が父ではないかといわれています。信重は当主・信実の従兄弟にあたります。

安芸武田氏は鎌倉時代、壬申の乱の戦功で幕府から安芸守護職に任じられ、武田信玄の出自である甲斐武田氏と分かれて始まった家です。つまり、時を大きくさかのぼれば恵瓊と信玄の先祖は同じということですね。そしてそれ以来、安芸武田氏は代々安芸守護職を世襲して、このころは銀山城を拠点としていました。

対して毛利はというと、安芸の小領主に過ぎなかったので、もともと武田氏が上であったことは明らか。世が世ならば恵瓊に毛利が仕えることもあったかもしれません。

生き延びるため出家して僧侶に

運命が大きく変わったのは、天文10(1541)年のこと。このころ安芸で何があったかといえば、毛利と尼子の戦い「吉田郡山城の戦い」です。大内の援軍が来たことにより尼子軍は散り散りになって敗走し、その後は衰退していくことになりました。割を食ったのが、尼子軍として戦っていた安芸武田氏です。

恵瓊の父・信重は居城の銀山城に籠りますが、大内の命を受けた毛利によって滅ぼされてしまったのです。このとき安芸武田氏は滅亡。

幼い子どもが寺を頼って生き延びる、という展開はよくあることで、幼かった恵瓊(幼名を竹若丸という)は、縁のあった臨済宗の寺・安芸の安国寺を頼って城を脱出し、生き残りました。幼い子どもにとっては、それくらいしか道は残されていなかったのです。

安芸安国寺(不動院)の金堂
安芸安国寺(不動院)の金堂(出所:wikipedia

ここで出家した恵瓊は、安国寺の住持(じゅうし/住職のこと)であった竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子となります。「恵瓊」という名も恵心からもらったものでしょう。

毛利の使僧として活躍

禅僧になった恵瓊は、やがて毛利家の使僧として活躍するようになります。これは恵心と毛利に親交があった縁によるものと考えられます。

安芸武田氏の再興を考えなかったのか?

ところで、安芸武田氏の生き残りとして御家再興を考えなかったのか、という疑問が生じますよね。もちろん、最初こそはやく武田の再興を、と願ったでしょうが、時代の流れを見ていればあきらめざるを得なかったのかもしれません。

毛利は安芸武田氏を滅ぼして以降、大内まで破って中国最大の戦国大名にまでなったのです。もはや毛利の力が大きすぎ、家を再興して復讐を考えるような状況ではなかったと思われます。恵瓊と同じように生き残った一族がいますが(武田宗慶)、これもまた毛利の家臣となっています。

戦国時代を生き延びるには、毛利について上手く立ち回るほうがよいと考えたのではないでしょうか。

使僧として毛利の外交を担当

恵瓊が毛利の使僧となったのは永禄年間(1558~70年)の終わりごろといわれています。

使僧とは、戦国大名おかかえの外交僧のこと。合戦に従軍して講和の交渉などにあたりました。僧侶は出家して俗世を離れているため、敵の陣営でも快く迎えられたのだとか。そういう面で戦国大名は僧を重宝し、当時だいたいの武将は恵瓊のような使僧を抱えていました。

臨済宗の僧である恵瓊がどのようにして武士の外交手腕を身につけたのかは不明ですが、このころ臨済宗の寺院では『孫子』などの兵法書がよく読まれていたそうで、恵瓊も兵法に触れる環境下にあったものと思われます。

本能寺の変を予言した?

天正元(1573)年7月8日、将軍・足利義昭は信長に京を追放されました。このとき義昭が頼ったのが吉川元春でした。義昭としては毛利に援軍を送ってもらい、京で再起を図りたかったのでしょう。しかし、毛利としては義昭を匿って信長と戦いになることは避けたかった。そこで、毛利は恵瓊を調停工作の使者として送り出します。

上京して会談に参加した際、恵瓊は信長側の使僧と交渉していますが、信長本人と対面する機会があったかどうかは定かではありません。ただ、この上京の折に羽柴秀吉とは対面を果たしています。恵瓊は交渉の経過を文書として報告しているのですが、その中に信長と秀吉について書かれた条があり、これが「恵瓊が本能寺の変を予言した」といわれるゆえんです。

内容はこうです。

「信長之代、五年、三年は持たるべく候。左候て後、高ころびに、あふのけに、ころばれ候づると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」

(『吉川家文書』所収、天正元(1573)年12月12日付、山県越前守他一名宛、「安国恵瓊書状」より)

つまり、恵瓊の印象では信長の時代はあと5年程度しか続かないだろう、というのです。

「高ころびにあふのけに」というのはかなり印象的な表現。信長はあっという間に転落してしまうだろう、と言っているのです。それに対し、「藤吉郎」すなわち秀吉はなかなかの人物である、と評しています。

実際の本能寺の変はここから9年後なので、ピッタリ予言を的中させたとはいえませんが、恵瓊は織田家中が一枚岩ではなく、危ういことを見越していたのかもしれません。そして、秀吉がその後信長に代わって天下を取る(とはいわないまでも、大物になる)ことを予想していた、とされています。

豊臣政権下で秀吉から厚遇を受ける

備中 高松城の戦いでの和睦交渉

恵瓊は天正10(1582)年備中高松城の戦いにおいて、和平交渉に当たっていました。このとき使僧として秀吉の陣中を訪れており、毛利の代表として和睦をまとめたのです。

秀吉の陣中を訪れ、和睦交渉をする恵瓊(月岡芳年 画)
秀吉の陣中を訪れ、和睦交渉をする恵瓊(月岡芳年 画)

その間、6月3日、信長が討たれたという報が秀吉のもとに飛び込みます。これはまだ毛利が知らないことであり、秀吉はその事実を毛利側に伏せたまま和睦を急ぎました。

備中・備後・美作・伯耆・出雲の五か国割譲にこだわって交渉は長引いていましたが、ここにきて秀吉は「備中・美作・伯耆の三か国割譲でどう?」と条件を引き下げてきたのです。恵瓊はこの条件を飲んで講和を結びます。結果、備中高松城の城主・清水宗治は切腹することになりました。

恵瓊はこのとき、信長の死を全く知らなかったのか。知っていて、あえて和睦をスムーズにまとめて秀吉に恩を売った可能性もあります。この一件で秀吉は恵瓊に恩を感じたのか、恵瓊は伊予和気郡2万3千石を与えられ、大名として引き立てられています。

秀吉の側近として

あくまでも毛利の一家臣としての位置づけとは思われますが、使僧が大名の仲間入りをするというのは異例のことでした。こうして大名として働く一方で、僧侶としてもしっかり働いていました。毛利の家臣として動くかたわら、同時に東福寺の住持も兼ねていたのです。

この後も毛利の家臣ではありましたが、どちらかというと豊臣に近い存在。ほとんど秀吉の側近として行動するようになります。天正14(1586)年の九州征伐においては6万石に加増されています。以降も安芸安国寺に1万1500石の知行が与えられるなど、秀吉から厚遇を受けました。

関ケ原の戦いで輝元を総大将に

秀吉亡き後、恵瓊は石田三成と近しい関係にありました。もともと毛利で豊臣と関係を築いていたのは小早川隆景でしたがすでに亡く、恵瓊はその穴を埋めるようにさらに豊臣との距離を縮めていたのです。

隆景は秀吉に寵愛されており、豊臣政権下の毛利は隆景を中心に回っていた。それがなくなった今、毛利はどうなってしまうのか……。恵瓊としては毛利の存続を危惧しての行動であり、毛利に背く気持ちはなかったと思われます。

輝元を総大将に担ぎ上げる

慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いの直前に恵瓊は佐和山城での西軍首脳会談に参加していました。その場で「毛利輝元を総大将にしよう」と決まると、恵瓊はすぐに交渉に動きます。輝元は恵瓊を毛利の外交官として信頼していたため、恵瓊の説得に応じて大坂城入りしました。

ところが毛利軍は動かず……

しかし、毛利家中では反対意見もあったのです。吉川元春の子・広家は「徳川の東軍が勝つ」と見ていました。もともと広家と恵瓊は関係が悪く、対立していたともいわれています。

<a href='https://sengoku-his.com/238'>吉川広家</a>の肖像画
吉川広家の肖像画

広家は当主である輝元が大坂城入りした以上、西軍として出陣するしかありませんでしたが、裏では毛利存続のため徳川と交渉。親交のあった黒田長政を通じ、家康に毛利の所領安堵を願い出たのです。

「今回のことはすべて恵瓊のせいで、輝元の本意は違う。今回の戦では輝元を出陣させず、毛利軍は西軍として出陣はしても、一兵たりとも動かさない」

こう言って広家は毛利の助命を乞うて東軍と内通し、関ケ原の戦い当日はその約束通り、兵を動かすことなく終えました。恵瓊の軍も出陣していましたが、数は1800。広家の軍のほうが圧倒的に多く、毛利の付庸にすぎない恵瓊には強引に毛利の軍を動かすことはできなかったのです。恵瓊はただ西軍が崩れていくのを見ていることしかできませんでした。

処刑された最期

西軍について敗れた毛利でしたが、広家の必死の交渉によりなんとか首の皮一枚つながりました。大幅に減封のうえ転封という、当初の約束からは程遠い結果になったものの、毛利宗家は存続できたのです。

が、恵瓊までは守られませんでした。敗れた恵瓊は関ケ原の戦いからおよそ一週間後の9月23日に捕らえられます。家康には自害を勧められましたが、恵瓊は処刑されることを選んだといいます。

10月1日、西軍首脳の石田三成、小西行長らとともに大坂や京の町で引き回され最後は京都六条河原で処刑されて果てました。

信長が討たれることを予言したという恵瓊は先見の明があるといわれましたが、それならばなぜ西軍の大敗は見抜けなかったのでしょうか。秀吉のカリスマ性にほれ込み、豊臣によほどの思い入れがあったのか。恵瓊は広家が反対した時点で、すでに西軍に不利だと悟っていたのではないでしょうか。それでも豊臣を捨てきれず、秀吉への恩に報いたい気持ちが勝ったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
  • 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
  • 河合正治『安芸毛利一族』(吉川弘文館、2014年)




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