西軍総大将の毛利輝元は関ヶ原合戦で何を考えていたのか? 敗戦よる失意のスタートとなった長州藩での功績とは?

萩城跡(山口県萩市)にある毛利輝元公像
萩城跡(山口県萩市)にある毛利輝元公像
 戦国時代、稀代の名将・毛利元就が一代で中国地方を中心に勢力を拡大した戦国大名毛利氏。元就の後を継いだのは孫の輝元です。元就の嫡男である隆元は既に亡くなっていたため、隆元の嫡男輝元が若くして毛利氏の家督を継承したのです。

 輝元といえば、関ヶ原合戦で西軍に付いたため、徳川家康によって所領を長門・周防の2か国に減移封されたことが知られています。そのことから偉大な祖父である元就、そして叔父の吉川元春や小早川隆景と比較して、暗愚のイメージを持つ人が多いかと思います。しかし、関ヶ原合戦後の輝元は20年以上存命し、毛利領国の最高権力者として存在していました。

 そこで、本記事では関ヶ原合戦とその後における毛利輝元の動向を深掘りしたいと思います。

豊臣政権下の毛利氏

 当主となった輝元はまだ若年であったため、吉川元春・小早川隆景、福原貞俊・口羽通良などが輝元を補佐しました(「御四人体制」)。毛利氏は、大友氏や宇喜多氏、織田信長との敵対がありましたが、最終的には豊臣秀吉に臣従し、豊臣政権下の中国地方において一代勢力を誇っていました。

 このような輝元に対して、亡くなる直前の秀吉は「西国の儀任せ置かるの由候」(『萩藩閥閲録遺漏』)とあるように、西国は毛利輝元に任せる意向を示していました。秀頼が幼少のため、政務を執ることが現実的に不可能であったことを考慮する必要はあるとはいえ、秀吉が毛利氏の実力を認めていたのは事実でしょう。

 また、ご存知の方も多いかと思いますが、輝元は豊臣政権の五大老の1人に列していました。この頃の毛利家中は、前述の「御四人体制」の面々は全員没しており、毛利領国において輝元をトップとする統治構造が成立していたとされています。

関ヶ原合戦と防長減封

 そして、秀吉の死から2年後の慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いが勃発します。

 従来の認識では、輝元は形式的な西軍の総大将で、実態は石田三成が指揮を取っていたと考えられていましたが、近年の研究において、輝元は総大将として機能していたのではないか、と捉えられるようになりました。

 輝元は大坂城に入城。そして毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊などを中心とする毛利勢は、伊勢国の安濃津城攻めに出陣し、その後は関ヶ原近辺の南宮山に布陣しました。その間に輝元は何もしていなかったワケではありません。実は裏で四国や九州に毛利軍を派遣し、東軍方の勢力を攻撃したことがわかっているのです。

 例えば、阿波国おいて蜂須賀氏の徳島城を毛利軍が占領したり、伊予の東軍方加藤嘉明・藤堂高虎の領内に残存していた、かつての国人領主らに対して調略を働きかけたりしました。旧国人領主のなかには、加藤嘉明・藤堂高虎等が新たな領主となった際に召し抱えられず、以前の立場を失った者も多くいたようです。

 輝元はそこに目を付けて、彼らに蜂起を呼びかけました。また、九州においても秀吉によって改易されていた大友吉統を、かつての領国豊後一国を恩賞とすることを条件に味方につけて、豊後に侵攻させています。

 このように大坂にいる輝元は西国を中心に東軍方の攪乱を行なっていたのです。

 その一方で、岐阜城を落とした東軍の攻勢や家康本人の西上に対して、不安を抱いた輝元が東軍と「不戦の密約」を結んでいたことも、近年の研究において指摘されています。これは西軍が敗北した場合の自己保身のためと考えられています。

 ただし、南宮山に毛利軍を布陣させ、東軍不利とみた場合は東軍をいつでも攻撃できる状態は整えていました。つまり、輝元はどちらが勝利しても対応できる状況を作り出していたのです。

 しかし関ヶ原合戦に勝利した家康は、そのような輝元を赦しませんでした。前述の四国や九州の東軍方の各勢力に対する占領・調略行為を問題視し、長門・周防の2か国への減移封を輝元に言い渡しました。

 このとき減封をまぬがれた長門・周防の2か国が、幕末に至るまで毛利氏の領国となり、「長州藩」を形成しました。

家督譲渡と長州藩の誕生

 大減封を受けた輝元は家督を嫡男秀就に譲渡のうえ、剃髪して法名を「幻庵宗瑞」としました。それだけ輝元にとってショックが大きかったのだろうと思われます。しかし、秀就は当時6歳であったため、実際の政務は隠居した輝元がとりました。

 なお、正式な家督譲渡の儀式は元和9年(1623)9月に実施されたとみられており、輝元が寛永2年(1625)に亡くなるまで、輝元・秀就による二頭体制であったと考えられています。輝元としては、内外に後継者秀就を明示する目的があったとみられます。

 また、当時の官途状・加冠状の発給状況を確認した研究によると、元和期以降、輝元の発給文書数が減っていき、秀就の発給文書が増えていく傾向にあることがわかっています。秀就の成長に伴い、徐々に当主の権限を輝元から秀就に移行していったものとみられます。

 なお、秀就は事実上の人質として、基本的に江戸に滞在することとされました(元和期以降は隔年で帰国を許された)。秀就の在国の有無も発給文書数に影響を与えたかもしれません。

 いずれにせよ、長州藩は失意のあまりの家督譲渡からスタートしたのです。

長州藩の藩政整備

 さて、長門・周防に移った輝元は支配機構の再編を行いました。

 関ヶ原以前、「御四人体制」の面々が政務から退いた後、輝元は一元的支配を構築しつつあったとされていますが、関ケ原敗戦による防長移封後には、国許にいる輝元の家臣と、江戸にいる秀就の家臣が構成されることになりました。さらに今後は徳川幕府との折衝も重要になる事情もあって、支配機構が国許に常置する役職と、藩主に随従する役職の二元構造に再構築されました。

 また、一門の実力者で豊臣政権から独立大名に準じる扱いを受け、徳川家康との関係も良好であった吉川広家・毛利秀元等に支藩の設立を認めました。もし両者の処遇を誤ると、長州藩が分裂する恐れがあったためとされています。

 輝元は毛利領国(長州藩)の東の守りとして、広家に岩国藩を、東の守りとして秀元に長府藩の設立をそれぞれ認めました。ちなみに広家は元就次男・吉川元春の子で、秀元は元就の4男・穂井田元清の子になります。なお、秀元は一時輝元の養子となっており、秀就が生まれるまで輝元の後継者の地位にいました。

 このような支配機構の再構築に伴い、従来の輝元による一元的支配から、一門や譜代家臣、旧国人領主層など各層のバランスの上に輝元・秀就が立つというような体制となりました。

 こうしてみると、関ヶ原合戦前と比べて、輝元の権威は大きく低下したと言えるでしょう。

おわりに

 今回は関ヶ原合戦以降の毛利輝元や毛利氏の動向をみてきました。最後に大坂の陣(1614~15)に毛利氏の動向についても触れたいと思います。

 実は大坂の陣において、出陣したにもかかわらず、特に目立った動きはありませんでした。冬の陣(1614)では大坂城の包囲に参加、夏の陣(1615)では、毛利軍が到着する前に大坂城が落城しています。

 徳川方として出陣した毛利氏ですが、毛利家臣の内藤元盛(輝元の母方の従兄弟)が「佐野道可」を名乗って大坂城に入城したのは、輝元の指示によるもの、とする説があります。これは万一、豊臣家が勝利した場合の保険であった、との見方もあるようです。

 この点は関ヶ原合戦時の輝元の行動と相通じるものが感じられますね。輝元の対応は優柔不断にみえるかもしれませんが、毛利家を守るための行動であったと考えれば、多少理解の余地があるかもしれません。時代の狭間に生きた大名家の当主には、家の存続のために様々な決断が必要だったと思います。

 輝元が遺した長州藩は江戸時代を生き抜き、高杉晋作・木戸孝允・伊藤博文など、幕末には多くの傑出した人物を排出します。彼らは江戸幕府の倒幕、明治維新の道を歩んでいくのです。


【主な参考文献】
  • 光成準治『毛利輝元』(ミネルヴァ書房、2016年)
  • 布谷陽子「関ヶ原合戦の再検討―慶長五年七月十七日前後―」(谷徹也編『石田三成』戎光祥出版、2018年)

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  この記事を書いた人
yujirekishima さん
大学・大学院で日本史を専攻。専門は日本中世史。主に政治史・公武関係について研究。 現在は本業の傍らで歴史ライターとして活動中。

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