大塩平八郎の乱(1837年)はなぜ起こったのか? その顛末とは

大塩平八郎の肖像(大阪城天守閣蔵。出典:wikipedia)
大塩平八郎の肖像(大阪城天守閣蔵。出典:wikipedia)
 幕末がすぐそこまで迫っていた天保年間に起こった元大坂町奉行所与力による武装蜂起は、半日で鎮圧された。しかし、首謀者が元役人という前代未聞の事件が与えた影響は大坂だけに留まらなかった。

 世に「大塩の乱」と呼ばれるこのクーデターの中心的人物の名は大塩平八郎(おおしお へいはちろう)。授業で習った覚えのある人は多いのではないだろうか。多くの民衆を巻き添えにした武装蜂起によって彼が目指そうとしたものはいったい何だったのだろうか。

大塩平八郎の経歴

 大塩平八郎が生まれたのは、寛政5年(1793)である。諱は正高、平八郎は通称である。平八郎からさかのぼること7代前が大坂東奉行組与力となり、以来大塩家は代々与力が家職となった。

大坂町奉行所与力時代の大塩

 14歳のときに与力見習いとして大阪東町奉行に出仕した大塩は、父が亡くなった後の25歳で与力となった。正義感が強く、真面目で優秀な仕事ぶりだったらしく、東町奉行の高井実徳には非常に重用されていたという。この時代には普通に行われていた賄賂も受け取らず、不正や腐敗を憎む清廉実直な役人だった。

 在職中には、西町奉行所筆頭与力・弓削新右衛門の不正の処断、キリシタンの弾圧、破戒僧(宗教の戒律を破った僧・なまぐさ坊主のこと)の処断などの難事件を処理しているが、大塩は自身の著書の中でこれらの手柄を「三代功績」と書いている。

 自画自賛ともいえるこの行動から想像するに、大塩は自分の正しさを強く信じ、それに酔うタイプだったのかもしれない。

陽明学者・大塩

 大塩は与力在職時代から独学で陽明学を修め、文政7年(1824)には「洗心洞」という学塾を開いている。

 陽明学は、中国が明と呼ばれた時代の学者・王陽明が始めた学問である。知識を持っているだけではなく、それを実践することが肝要という意味の「知行合一」など、実践力を重んじた学問だ。

 周囲のだらけた空気に苛立ちを覚えていた大塩が陽明学を学ぶ姿は、まさに「水を得た魚」のごとく。知り合いの頼山陽から「小陽明」と称せられるほどの学者となる。

 文政13年(1830)に上司である高井が転勤したのに伴い、大塩は与力を辞職した。まだ働き盛りの大石が辞職を決意した裏には封建的な身分制度の中では、「十分な才能を持っていても出世の道は開けない」という不満が大きく影響していたのではないだろうか。

 大塩は跡目を養子の格之助に継がせると、学問に専心して子弟の指導や書籍の執筆に時間を費やす日々を過ごした。

天保の大飢饉

 天保年間は飢饉が多く、天保4年(1833)から翌年、天保7年(1836)から翌年にかけて特にひどく、天保の大飢饉と呼ばれた。

飢饉の際、救小屋に収容・保護を受ける罹災民が描かれている。(渡辺崋山画『荒歳流民救恤図』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
飢饉の際、救小屋に収容・保護を受ける罹災民が描かれている。(渡辺崋山画『荒歳流民救恤図』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 天保4年の飢饉のとき、大塩はすでに隠居していた。しかし、当時の大阪西町奉行・矢部定兼が平八郎を招請し、矢部の部下と共にさまざまな対策を講じたおかげで、大坂市中は大きな被害にはならず、何とか切り抜けることができた。

 天保7年の飢饉では、矢部が勘定奉行に昇進していたため、大坂東町奉行の跡部良弼(あとべよしすけ)が対応した。ところが、跡部はろくな対策を取らない。市中の惨状を無視して江戸幕府からの廻米命令に応じたり、飢えに耐えかねてやみ米を運んでいた市民を捕縛させたりなど、無施策どころか暴政を繰り返した。

 こうした事態に、大塩は与力である養子の格之助を通じて、蔵米の放出や豪商の米買い占めなどの献策を訴えたが、それが聞き入れられることはなかった。

大塩の乱とは?

大塩の檄文

 業を煮やした大塩は、蔵書を売却してその金で市民の救済にあたった。しかし、この時に彼が市民に渡したのは金や米だけではなかった。大塩は檄文(げきぶん。)も配布したのである。

 そこには民衆の困窮を解決するには、不正を働いて私腹を肥やし、幕府にしっぽを振る跡部たち役人を処断するしかないと書かれていた。

大塩平八郎の檄文(『明治維新 (社会科文庫)』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
大塩平八郎の檄文(『明治維新 (社会科文庫)』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 檄文の袋の上書きには「天より下された文。村々の小百姓の者に至るまで伝えよ」とあった。本文は「四海困窮せは天禄永絶えん、小人に国家を治めしは災害並至る、、、」という言葉から始まる長文である。

 訳してみると

「四海(この世界)が困窮しては、天から与えられた禄(幸い)も永く絶たれてしまう。小人(道徳の欠けた人間)が国を治めれば、災害が相次いで起こる、、、」

 大塩は、これを持って民の力を結集し、暴政を敷く役人に立ち向かおうとした。

大塩の計画

 洗心洞の子弟たちにも大塩の計画が明かされる。いわく、

「天保8年2月19日。東町奉行・跡部が西町奉行に就任した堀利堅とともに天満を巡回した後、大塩自宅の向かいにある朝岡邸で休息をとる予定である。その時を狙って挙兵し、一気に両町奉行を誅する。続いて豪商を襲い、火を放ち、豪商から奪った金銭を困窮する民衆に分配する」

 これを聞いて奮い立つ者もいたが、反対意見もあり、数人が大塩に考え直すように進言したという。しかし、大塩は聞く耳を持たずに着々と準備を進めた。

準備不足のまま挙兵

 お上に逆らうなど、この時代に到底考えられることではない。幕府に逆らったところで、何も変わらない。自身は切腹、お家は断絶となるだけである。案の定挙兵前日、師の暴挙に恐れをなした平山助次郎と吉見苦労右衛門が奉行所に密告した。

 計画が漏れたと知った大塩は、予定を変更して19日未明に挙兵する。自邸に火をかけ奉行所を目指した。この火を見て、近隣の農民たちが大塩のもとに駆け付け、勢力は百数十人に膨れ上がった。

 一党は大筒を引きながら進む。天満一帯は火の海になり、豪商を襲い、金や米を奪う。民衆がそれを拾った。このままの勢いでクーデターは成功するかのように見えたが、この頃になりようやく奉行所が鎮圧に乗り出してきた。

たった1日で鎮圧される

 両町奉行の慌てぶりはひどく、砲撃の音に驚いた馬から振り落とされるという醜態まで晒している。しかし、一旦奉行所が動き出せば、農民や町民ばかりの烏合の衆はあっという間に壊滅してしまった。

 19日未明に起こった大塩軍は、その日の夕刻には完全に壊滅していた。乱で起こった火災は天満一帯を中心に大坂市中の5分の1が焼失、当時の人口の5分の1にあたる約7万人が焼け出され、270人以上の焼死者が出た。のちの「大塩焼け」と呼ばれる火災である。

 乱の後、大塩平八郎と格之助父子は姿を消した。

※参考:【マンガ】大塩平八郎の乱(KADOKAWA最強歴史チャンネル)

なぜ大塩はすぐに自決しなかったのか

 大塩たちは大坂近郊を転々と逃亡していたが、すでにほとんどの挙兵参加者は捕縛され、調べを受けている。

「大塩様」

 大塩父子は、大坂市中の商家・美吉屋五郎兵衛の家に潜伏。躍起になって彼らを捜索している奉行所は、銀百枚を平八郎の懸賞金として出したが、

「たとひ銀の百枚が千枚になろうとて、大塩さんを訴人されうものか」
(『浪華騒擾紀事』藤田東湖より)

「懸賞金が千枚になっても大塩様を売ることなどしない」

 「大塩焼け」で焼け出された民衆の中には、飢饉で苦しみ民衆を救おうとした「大塩様」として尊敬する者もいた。

約40日間の潜伏

 大塩父子はなぜ約40日もの間潜伏し続けたのだろうか。実は挙兵前夜の2月18日、大塩は江戸に向けて密書を出している。幕政の在り方を批判し、救民のために決起するとの内容が書かれた建議書を老中に宛てて送った。

 添状は水戸家用人宛てだったといい、これにより大塩と水戸藩・徳川斉昭に何らかのつながりがあったと考えられる。

大塩の真の狙いは?

 大塩が40日も待っていたのは、水戸の斉昭ではないだろうか。
 
 上は老中から奉行、与力に至るまで汚職にまみれ、私腹を肥やす一方、飢饉への対策はあまりにもお粗末である。それに業を煮やした大塩は、大坂で乱をおこし、江戸における斉昭の行動を待っていた。

 「大塩の乱」は、窮民を救うためでなく、幕政をひっくり返すための前哨戦だった。江戸で斉昭が動くと同時に大塩も再び動くつもりだったと考えると、大塩の40日にも納得がいく。

はしごを外された大塩

 しかし、大塩が江戸へ送った建議書は斉昭へも老中の下へも届いていない。建議書は江戸へ到着する途中の伊豆で押収されていた。それを韮山代官の江川太郎左衛門が預かり、その後水戸藩の藤田東湖のもとに行った。

 もしこの建議書が幕府に知られれば、水戸藩と大塩平八郎の関係に疑念を持たれる。水戸藩にとってはあまりありがたくないことである。藤田東湖は建議書を握りつぶしたのではないだろうか。

 これはあくまで想像だが、斉昭と大塩の間で幕政の改革に関する書状や何らかの約束があったのではないだろうか。それがあったから英明な頭脳を持った大塩が無謀ともいえるクーデターを謀ったのではないか。

 しかし、斉昭は動かなかった。幕政改革という大屋根に登った大塩は、はしごを外された。そして、「大塩の乱」は大塩平八郎が民を救うために起こした無謀な武力蜂起として歴史に残った。

大塩平八郎の最期

 天保8年3月27日早朝。潜伏先である美吉屋が幕府探索方に包囲される。大塩父子は、隠れ家に火を放ち、自刃した。大塩平八郎享年45。

 大塩の乱は本人の意図したものとは違う結果になったが、元与力で著名な陽明学者が起こした事件は全国に大きな影響を与えた。

 同年4月には備後三原で一揆が、6月には越後柏崎で国学者生田万による挙兵、7月になっても摂津能勢において山田屋大助による乱が起こっている。いずれも大塩の門弟と称していたという。圧政に苦しむ民にとって大塩平八郎は、我が身を省みずに幕府に立ち向かってくれた偉大なヒーローとなった。

あとがき

 「大塩の乱」は、実は幕政批判と改革が大塩の本当の目標だった。

 水戸の斉昭というバックボーンがあったからこその行動かもしれないが、まだ幕府の土台が盤石であったあの時代によくそのような行動ができたものだ。大塩平八郎!確かにすごい人だと思う。

 しかし民衆の側から見るとどうだろうか。「大塩の乱」がなければ平穏無事に暮らせた者もいるはずだ。国の体制や政治を変える手段は暴力しかないのだろうか。明治維新もしかり。

 今も自分の思想や宗教を貫くため、いや結局は欲のために戦争をする国がある。結局泣くのは民衆だけというお約束は、いったいいつになればなくなるのだろう。


【主な参考文献】
  • 藪田寛『大塩平八郎の乱 幕府を震撼させた武装蜂起の真相』(中央公論新社、2022年)
  • 『国史大辞典』ジャパンナレッジ
  • 『詳説日本史図録』(山川出版社、2021年)
  • 『日本史人物辞典』(山川出版社、2000年)

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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