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「宇喜多秀家」関ケ原が原因で島流しに遭った戦国屈指のイケメン武将!

  • 豊臣秀吉
 2017/11/16
宇喜多秀家の肖像画

宇喜多秀家といえば、大名としての功績よりも残された肖像画から伝わる「イケメン伝説」や、晩年の流罪生活のほうが有名な戦国武将です。彼についてはその晩年に謎が多く、島流し先では裕福な暮らしをしていたとも、妻を迎えていたとも、様々な説話が存在します。

しかし、戦国大名としての彼については、その功績が父の直家の陰に隠れてしまっているような印象が否めません。そこで、この記事では秀家の語られることが少ない前半生を中心に、その生涯を解説していきます。
(文=とーじん)

父の死によって若くして家督を継承する

秀家が生まれたのは、元亀3年(1572年)とされています。父は戦国稀代の謀将宇喜多直家で、母は円融院という人物です。しかし、その父も天正9年(1581年)に亡くなってしまったため、彼は若くして勢力を伸ばしていた宇喜多家の家督を継承します。

翌10年には秀家もこの年で秀吉による備中高松城攻めに参加し、あの有名な水攻めによって戦況を優位に運んでいました。ところが、本能寺の変勃発により秀吉は国元へと帰らなければならなくなり、彼は速やかに敵対していた毛利氏と和睦。結局、和議の成立後は備中半国の所有を認められました。

その後明智光秀を討った秀吉が天下に名乗りを上げていくことはご存知だと思いますが、直家の時代から秀吉に従っていた秀家にしてみれば、彼の出世は願ってもない幸運でした。秀吉も中国地方の抑えとして秀家には目をかけ、さらに自身の養女で前田利家の娘でもある豪姫を彼と結婚させるなど、秀家は異例とも呼べる出世を果たしていくことになります。

彼の出世速度は豊臣秀次豊臣秀長といった豊臣姓を有する親族らと比べても遜色なく、その確たる証拠が彼の名である「秀家」に含まれた秀の字でしょう。さらに、先の備中半国に加えて備前・美作国の所有も認められ、石高にして50万石以上の領地を手にする大大名へと成長しました。

戦においても何度か功を挙げており、賤ケ岳の戦いや小牧・長久手の戦いなど、秀吉が天下を狙う過程で遭遇した戦での活躍も見られます。

軍事・領国経営の両面で活躍し、秀吉の重臣として栄華を極める

戦においても見せ場を作っていたことはすでに触れましたが、彼は四国攻めや根来・雑賀攻めにおいても大軍を率い、秀吉軍の重要な戦力と見なされていました。その後も九州遠征や小田原合戦において活躍するなど、彼の軍事的功績には目を引くものがあります。

ただ、秀家が軍事一辺倒であったかというと、決してそうでもないようです。彼は自身の城下を発展させることに力を入れており、居城である岡山城の改修やそれに伴う城下町の整備、さらには商工業への投資も惜しみませんでした。

農業政策に関してもこれは同様で、堤防や新田の開発、用水の整備など、当時の他大名と比較しても領国経営には力を注いでいたことがわかります。さらに、年貢の確実な徴収を行うべく検地事業も強力に推進し、領国経済発展の地盤を形成しました。

こうした事業に奔走する一方、権力の座に就いた秀吉の威光が上昇するにつれて、彼もまた栄達を極めていきました。天正16年(1588年)、秀家は後陽成天皇の聚楽第行幸に参列し、その際に織田信雄徳川家康・豊臣秀次・豊臣秀長・前田利家というそうそうたる顔ぶれとともに起請文へ署名。秀吉への忠誠を誓うこの起請文からは、秀家の家臣団内における極めて高い立場が読み取れます。

さらに、秀家は茶道や能・鷹狩りなど当時の上級武士に求められた教養面についても造詣が深く、先に触れた5名のうち秀長のみが欠席となった和歌会にも参加しました。この会の参加者は摂関家に次ぐ格のある家柄の人々として認められており、秀家が公家たちの世界でも高い位についていたことを示しています。

もっとも、彼の没頭した貴族趣味は、多額の費用を要したことから後世で批判の的となってしまいました。確かに権力を見せびらかすという意図がなかったわけではないでしょうが、秀吉重臣として人間関係を構築していくための必要経費ともとらえることができ、同情の余地は十分にあります。

一方、この頃には秀吉が中国大陸の侵略を視野に入れはじめ、その要因として秀家にも声がかかりました。これに応じた秀家は朝鮮大陸へと渡海していきましたが、彼に与えられた役割は後詰として戦場を眺めることでした。秀吉はまだ彼を保護したかったとも、将来に備えて大局的に戦場を眺める力をつけさせたかったとも言われていますが、秀家自身は前線に出て功を立てることを望みます。

その結果として彼は前線に出て戦う意欲を見せ、やがて秀家は日本側の総大将として位置づけられるようになります。ただ、彼の補佐を担当したのは小早川隆景で、隆景が実務面を担当していたと考えられることから、あくまで総大将というのは名目的なものであったと考えるのが自然でしょう。

ただ、秀家とその配下は朝鮮の地で数々の活躍を見せ、総大将の名に恥じない働きを見せていたことは事実です。もっとも、日本側は次第に劣勢となっていき、また諸大名の経済的負担も増大していたことから、いったんは和議が成立したかに思えました。

和議を担当したのは石田三成小西行長らでしたが、彼らが早期和睦のために秀吉の意に反した行動をとっていたことが発覚。秀吉は激怒し、秀家はふたたび朝鮮の地へと向かいました。ただ、この時は日本軍全体が厭戦ムードに包まれており、勇猛であった秀家すら戦線の縮小を秀吉に申し出るほどでした。結局、秀吉の死をもって彼も撤兵しています。

関ケ原に敗れ、八丈島へと流される

秀吉治世下では栄華を極めていた秀家ですが、彼の死後はその風向きが変わります。彼は五大老の一角に位置づけられ、同時に豊臣秀頼の後見役を任されていましたが、このころから同じく五大老の家康が徐々に不穏な動きを見せ始めます。

さらに、慶長4年(1599年)には宇喜多氏内でお家騒動が勃発し、前田家から豪姫に付き添って宇喜多家へと仕官した中村次郎兵衛という人物が、同じく宇喜多家臣から襲撃されてしまいます。最終的に首謀者は処刑されましたが、この騒動を裁くには経験が不足していた秀家が家康に頼った可能性が指摘されており、彼はこの機を狙って宇喜多家の弱体化を試みました。

こうして動揺した宇喜多家の中には東軍に味方した家臣らも多く、家臣団をまとめきれなかった秀家の能力が疑問視されるゆえんです。彼はこうした不安を抱えながら西軍の一員として関ケ原に参戦し、宇喜多家臣が東西に分裂する中で「寄せ集め」の軍勢を率いなければなりませんでした。

最終的に敗れた秀家はわずかな家臣を連れて戦場を離脱し、家康の追手や落ち武者狩りをかわしながら伊吹山中を逃げまどいました。秀家をかくまう勢力も現れ、彼はひそかに薩摩へと送られます。ここで島津氏の庇護下にあった秀家は三年ほど潜伏しますが、島津が家康と講和してしまったために秀家の処遇が問題となります。

当初家康は秀家を処刑するつもりだったようですが、島津方による懸命な助命嘆願によって死を免れ、当初駿河国に幽閉されました。それから数年後、秀家は八丈島へと流されます。島での生活はハッキリと伝わっていませんが、ろくに米も生産できなかった流島生活は大変苦しいものであったと考えられています。それでも懸命に生き延びた秀家は、最終的に明暦元年(1655年)に84歳の生涯を終えました。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』
  • 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
  • 渡邊大門『宇喜多秀家と豊臣政権』洋泉社、2018年。


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