関ヶ原合戦後、家の再興がならなかった長宗我部盛親の悲劇

長宗我部盛親の肖像(蓮光寺蔵、出典:wikipedia)
長宗我部盛親の肖像(蓮光寺蔵、出典:wikipedia)

長宗我部盛親とは

 長宗我部盛親は、元親の四男として誕生した。ところが、長男の信親が九州征伐のおりに戦死したため、天正14年(1586)に後嗣に定められた。盛親が正式に家督を継承したのは、元親が亡くなった慶長4年(1599)のことである。

 しかし、長宗我部家中では、盛親が家督を継ぐことに反対する家臣がいたので、盛親はそれらを克服しなければならなかった。盛親は家中統制に忙殺され、それが自身の運命を暗転させることになる。

関ヶ原合戦での敗戦と改易

 元親が亡くなった翌年の慶長5年(1600)9月に関ヶ原合戦が勃発すると、盛親は石田三成率いる西軍に属した。しかし、西軍の敗色が濃厚になると、盛親は戦わずして領国の土佐に逃げ帰ったのである。

 実はその直前、盛親は家臣の久武親直にそそのかされ、兄の津野親忠を殺害していた。親忠が藤堂高虎と協力し、土佐国を支配しようとする動きがあったからである。四男である盛親が家督を継承したことについて、長宗我部家中では未だに混乱が続いていたことが判明する。家康は、この一件に激怒していた。

 盛親は井伊直政を通して徳川家康に詫びを入れ、何とか処罰を逃れようと画策したが、一方で浦戸城の防備を固め、兵粮の運搬や普請を命じた。指示を出したのは、盛親膝下の奉行人である非有と桑名三郎兵衛であった(「土佐山内家宝物資料館所蔵文書」)。

 盛親は侘びを入れながらも、万が一の事態に備えて、合戦の準備を進めていたのである。しかし、親忠の殺害に家康の怒りは収まらなかった。盛親は上京して事情説明を行ったが許されず、ついに土佐一国を召し上げられたのである。

 代わりに土佐に入封したのは、山内一豊である。盛親は大岩祐夢と号すると、京都の小川通りで子供たちを集め、手習いの私塾を開いた。西軍に属して敗北した仙石秀範と同様に、京都で私塾を開き牢人生活を送ることになったのだ。

 私塾を開くまでの盛親は、京都伏見で再仕官活動をしていたと指摘されている。関ヶ原合戦で敗北を喫した盛親は牢人になり、もはや一国の太守としての面影がなかったといってもよい。

盛親の仕官運動の失敗

 盛親はどのような方法で、長宗我部家の再興を果たそうとしたのであろうか。その際に、重要人物となったのが蜷川親長(道標)である。

 親長は名門・蜷川氏の系譜を引き、足利義輝に幕臣として仕えていた。しかし、永禄8年(1565)に義輝が三好三人衆らに謀殺されると、たちまち親長は路頭に迷った。そこで、親長は土佐国の元親を頼って下向したのである。

 親長の妻と元親の妻は、父は異なるものの姉妹であり、そうした血縁関係を頼ったのである。親長は有職故実や和歌・連歌に優れており、元親から重用されたといわれている。いうなれば親長にとって、元親は恩人だったのである。

 関ヶ原合戦が終わると、親長は長宗我部氏の下級家臣の反乱である浦戸一揆の制圧に協力し、その才覚が家康に評価された。名門の流れを汲む親長は、家康から旗本に抜擢され、山城国綴喜郡内に500石を与えられた。慶長7年(1602)のことである。

 のちに、親長は家康の御伽衆に加えられたという。御伽衆とは、主人に近侍して武辺咄や諸国咄をしたり、雑談の相手をつとめたりする職である。盛親の扱いとは対象的であった。当然、親長と盛親は互いに周知の間柄であった。

 盛親は、家康と親しい間柄にある親長に書状を送っていた(「蜷川家文書」)。盛親は親長を通して、長宗我部家の再興を画策していたのである。つまり、親長の口添えによって、何とか突破口を開こうとしたのだろう。

 盛親にとって、親長は一縷の望みであり、長宗我部家の再興という重要なミッションを託すことができる唯一の人物だった。盛親の長宗我部家の再興にかける熱意と覚悟は、かなり大きなものがあったのだ。

 しかし、当の親長にとって、家康の処分を受けた盛親の申し出は非常に迷惑であったに違いない。親長は何かと理由をつけて、盛親との面談を断っていたという。親長が盛親と関わりを持ちたくなかったのは、なんと言っても盛親が家康の不興を被っていたからである。のちに触れるとおり、香宗我部氏も親長と同様に、盛親と距離を置いていた。親しく交わって、あらぬ嫌疑を受けるのを避けるためである。

 盛親は親長を頼ったのであるが、この交渉は不調に終わった。盛親の落胆した心中を察するところである。

旧臣へのメッセージ

 京都で生活を送る盛親には、明神源八が近習として付き添った。その源八に対して、盛親はこれまでの忠節に感謝するとともに、他家に早く仕官するように勧めている(「個人所蔵文書」)。こうして、いったん主従関係を解き、家臣に再仕官を勧めることは普通だった。

 この盛親の書状は年次を欠くが、おおむね慶長6・7年(1601・02)頃のものと考えられている。史料の中に「私の身上もうまくいったときは・・・」とあるので、盛親は長宗我部家が再興されると確信していたようである。

 同時期、盛親は父・元親の実弟香宗我部親泰の次男・右衛門八(のちの貞親)の後見人・中山田政氏に対しても、書状を送っていた(「個人所蔵文書」)。その内容は、先の源八宛の書状とほぼ同内容で、他家への仕官を勧めるものだった。むろん生活のためである。

 もっとも重要なことは、長宗我部家が再興された際には、帰参してほしいということだ。盛親は、家の再興ができると確信していた。ところが、盛親の気持ちに反して、香宗我部氏は盛親と距離を置くようになったという。

 このように、盛親自身は長宗我部家の再興について強い確信があったのかもしれないが、意外なほど周囲の判断は冷静であった。結局、盛親の夢は潰え、家の再興はならなかったのである。

 慶長19年(1614)に大坂冬の陣が勃発すると、盛親は豊臣家の誘いに応じて、大坂城に入城した。しかし、翌年に大坂城は落城し、豊臣家は滅亡。盛親は逃亡したが捕縛され、無残にも斬首されたのである。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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