【家紋】忠臣・名君・律義者? 好感度急上昇「石田三成」の家紋について
- 2019/11/21
歴史上の人物に対する評価というものは、時代や時世によって流動していくことが知られています。たとえば足利尊氏が朝廷への「反逆者」として忌み嫌われたり、逆に楠木正成が「大忠臣」として崇拝されたりといった具合に、歴史的に中立な目というよりはその時代背景における感情的ともいえる文脈で人物像を捉えられることが多々あります。
戦国武将はとかく講談や創作の題材になりやすく、そういった傾向が強いジャンルでもあります。古い時代に定着してしまったイメージはなかなか払拭することが難しいですが、近年では歴史研究の進展や新しい角度からの人物像の見直しなどにより、従来の人物評に変化の兆しがみられる武将たちが存在します。その一人に「石田三成」の名を挙げられるのではないでしょうか。
三成はよく知られているとおり、豊臣家の重臣として関ヶ原の合戦を戦い、豊臣の世の栄枯盛衰をその目で見届けました。西軍の大将は「毛利輝元」でしたが、実質的な豊臣の家臣筆頭として語られることも多い三成。
ところがこれまではどちらかというと、豊臣家中の嫌われ者というイメージが先行していたきらいがあり、その事績には公平な視点による評価がされにくかった人物という印象があります。しかし、豊臣の恩義に報いようとする真っすぐな士道や、平和となった世の中を見越して必要とされた文治的な能力等々、大きく再評価されつつあるともいえるでしょう。
今回はそんな、石田三成と石田氏の家紋についてのお話です。
戦国武将はとかく講談や創作の題材になりやすく、そういった傾向が強いジャンルでもあります。古い時代に定着してしまったイメージはなかなか払拭することが難しいですが、近年では歴史研究の進展や新しい角度からの人物像の見直しなどにより、従来の人物評に変化の兆しがみられる武将たちが存在します。その一人に「石田三成」の名を挙げられるのではないでしょうか。
三成はよく知られているとおり、豊臣家の重臣として関ヶ原の合戦を戦い、豊臣の世の栄枯盛衰をその目で見届けました。西軍の大将は「毛利輝元」でしたが、実質的な豊臣の家臣筆頭として語られることも多い三成。
ところがこれまではどちらかというと、豊臣家中の嫌われ者というイメージが先行していたきらいがあり、その事績には公平な視点による評価がされにくかった人物という印象があります。しかし、豊臣の恩義に報いようとする真っすぐな士道や、平和となった世の中を見越して必要とされた文治的な能力等々、大きく再評価されつつあるともいえるでしょう。
今回はそんな、石田三成と石田氏の家紋についてのお話です。
「石田氏」とは
この時代の武将たちの多くがそうであるように、石田三成の一族・石田氏の来歴には諸説あり、家譜も詳細は不明となっています。余程の由緒がない限りは書面としてその記録が残ることはなく、言い伝えや伝聞などでそのルーツが語られるにすぎません。はっきりした記録で確認できるのは、三成は近江の土豪とも京極氏の家臣とも伝わる「石田正継」の次男として生を受けたことです。三成は少年期より兄の「正澄」、父・正継らとともに秀吉に仕官し、いわゆる「豊臣子飼い」の武将として成長しました。
戦闘に優れた「武断派」、実務能力に秀でた「吏僚派」と俗称される2タイプの人材のうち、三成は代表的な後者「吏僚派」として捉えられています。
実戦参加も行っていますが、検地などの農地実測や家中の経理業務など、事務官としての能力が印象付けられています。
秀吉死後に台頭してきた徳川家康と対立、関ケ原の戦いで激突するも敗北することは先述のとおりです。三成自身は斬首されますが、その子女たちへの対応は決して苛烈ではなかったことが知られ、その命脈は歴史のなかで保たれることになります。
石田氏の家紋と三成の個人紋について
先に述べたとおり、石田氏の系譜には不明な点が多く、詳細は判明していません。ただ、「石田氏の家紋」として周知されているものとしては、矢羽根を二筋並べた「並び矢」などが挙げられます。三成の家紋として現在知り得るところでは、「大一、大万、大吉」という文字列を配したものが有名です。
「一人が万人のため、万人が一人のために尽くせば、天下が幸せ(大吉)となる」という三成の信条が込められているとか。NHK大河ドラマなどの関ケ原合戦のシーンでは、必ずといっていいほど、目にしているのではないでしょうか。
一説に "一"は「カツ=勝つ」、"万"は「よろず=すべて」、"吉"はそのまま「吉」とし、これらの文字に "大"を加えて縁起を良くしたものとも言われ、鎌倉時代の源平合戦の頃に石田次郎為久が使用したといいます。また、山内首藤氏が用いていたとされる家紋とも伝わっています。
ちなみにこの家紋は三成の個人紋であると考えられており、吉祥を表す文字を組み合わせた珍しいタイプの家紋であるともいえるでしょう。
しかし文字列の並びにはいくつかのバリエーションがあり、どれが本来のものかはわかっていません。実際の使用例は石田家足軽へと貸与された胴に書かれた「大一大万大吉」の並びで、三成の肖像画では裃の紋として「大吉大一大万」、『関ヶ原合戦図屏風』には石田の旗印として「大一大吉大万」と、それぞれ異なる配列が描かれています。
また、「九曜」や「丸に三星」、真ん中に「石」の字を配した「丸に下り藤」なども確認されていますが、三成に関する記録は少なく、今後の研究が俟たれる状態となっています。
まとめ:「石田三成」という人物について
三成はどちらかというとあまり好意的な評がなされなかった人物であることは先述しましたが、実に多くの印象的なエピソードが残されています。たとえば、- 秀吉に見出されたとき、のどの渇き具合に合わせて異なる温度と量の茶を三度供した。
- 病を患っていた大谷吉継からまわってきた茶を、嫌がる素振りも見せずに飲み干した。
- 斬首の直前、所望した水の代わりに柿を勧められ、毒であるとして断った。
等々の、賢明さと思いやり、そして強い意志を思わせるものがよく知られています。
もちろん、そのすべてが史実としての信憑性をもっているわけではないものの、豊臣家への忠義を最後まで貫いたことや、自身の領地での善政、そして不器用ながらも筋を通そうとする律義者という観点から、徐々に好感度がアップしてきた武将であるといえるでしょう。
その逸話の数々には、むしろ現代人の感覚からすれば共感できる点も多く、今後ますます再評価されていく人物かもしれません。
歴史上の敗者というイメージがついてしまった三成ですが、その「大一大万大吉」という紋には、天下万民が平和で幸福であるようにという切なる願いが込められていたのかもしれませんね。
【参考文献】
- 『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)
- 『逸話文庫:通俗教育.武士の巻』 通俗教育研究会 編 1911 大倉書店
- 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
- 「「見聞諸家紋」群の系譜」『弘前大学國史研究 99』 秋田四郎 1995 弘前大学國史研究会
- 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
- 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
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