無味乾燥な官僚タイプではなかった!?石田三成の性格とは

一昔前、石田三成の評価は極めて悪かった。自らの権力欲から千利休、豊臣秀次、加藤清正などを讒言で陥れ、秀吉の権勢を笠に着た嫌みな官吏というレッテルが貼られていたのである。この評価の出所は主に、江戸時代に成立した史料であると言われる。

例えば、新井白石の『藩翰譜(はんかんふ)』では石田三成を「奸臣である」と酷評している。新井白石は学者ではあるが、そもそもは旗本であるから完全に江戸幕府側の人間であり、三成への酷評は当然と言えば当然であったろう。

しかし、私はこの評価に大いに疑問を持っていた。そんな人物が、関ヶ原の戦いにおいて、毛利輝元を総大将とする西軍の8万にも及ぶ軍勢をまとめ上げ、あの百戦錬磨の徳川家康率いる東軍と真っ向から対峙することが果たして可能であろうか。いや、そもそも島左近のような名将がそのような人物の家臣となるであろうか。歴史的な事実をつなぎ合わせていくと、どうしてもこの三成像は不自然であった。

明治維新以降、三成忠臣説が現れ始めるが、その端緒は徳富蘇峰の『近世日本国民史』(1922年)であろう。そして、三成忠臣説の認知度が飛躍的に上昇したのが、近年の歴女ブームにおける三成人気であった。彼女たちを魅了する「義の武将」石田三成とはどのような人物だったのであろうか。

三成の出自

石田三成は永禄3年(1560年)、近江国坂田郡石田村の地に石田正継(まさつぐ)の次男として生を受けた。

石田家の系譜には諸説ある。出家した三成の嫡男重家が記した『霊牌日鑑(れいばいにっかん)』には藤原氏であるとされている。一方で、江戸時代の系図『極楽寺系図』や『相馬藩石田系図』によれば、平氏であるとの記述が見られる。

今のところは平氏であるとの説が有力であるようだ。

三成の父正継は学を好み、和歌にも通じた才人であったとされ、後に頭脳を買われて豊臣秀吉に重用され、「文治派」と称されるようになる三成に多大な影響を与えたと思われる。

「おもてなし」の上手さを秀吉に見込まれたという「伝説」

三成の "人となり" を伝える逸話は多いが、中でも「三杯の茶」と呼ばれる話は特に有名であろう。

茶のイラスト

ある時、鷹狩りの帰りに喉が渇いた羽柴秀吉は近江国のとある寺に立ち寄った。茶を所望すると、寺の小姓はまず、大振りの茶碗にぬるめの茶を出したという。

喉の渇きが癒された秀吉に、小姓はやや小振りの茶碗に少し熱いお茶を出した。秀吉が茶の味を堪能し始めたと見るや、小姓は小振りの茶碗に熱いお茶を出した。十分に茶を堪能した秀吉は、小姓の細やかな心遣いにいたく感服したという。


上記に登場する ”小姓” とは 三成のことで、秀吉は三成を家臣として取り立てたという逸話である。

この話は『武将感状記』など、複数の史料に収録されているのであるが、いずれも江戸時代の成立であり、一次史料ではない。そして、前出の『霊牌日鑑』によれば、三成が秀吉に仕えたのは近江ではなく姫路であり、年齢も18の時分と言うから、この逸話の信憑性を疑問視する人もいるという。

しかしながら、たとえ作り話であったとしても「デキル男三成」を彷彿とさせる逸話という意味では、十分なリアリティを持った話であると感じざるを得ない。

ともかくも、秀吉配下についた三成は次第に頭角を現していく。

緻密さを兵站に生かす

三成は戦場の最前線で戦うというよりは、後方の兵糧・武具などの手配を行う兵站において才能を発揮したことで知られる。

その才能の片鱗を初めて見せたのは天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いのときではないだろうか。秀吉の大垣から木之本への「大返し」において、軍勢がスムーズに行軍できるよう握り飯と松明を用意したのが三成だったのである。

また、堺奉行をはじめとする奉行職にもたびたび任命されていて、武芸に長けた武将と言うよりは有能な「吏僚」というイメージに近い。

そんな三成だから、武断派の福島正則や加藤清正らと最初からそりが合わず、犬猿の仲であったというのが定説であった。ところが最近では、三成をはじめとする近江衆と清正ら尾張衆の対立が根底にあったのではないかという説もあるという。

加藤清正の肖像画
大河ドラマ等の設定でも、三成とは「犬猿の仲」とされる加藤清正

三成は、そもそも「秀才臭くて鼻につく」的なイメージが定着してしまっていることで、そのような定説が生まれたと思われるが、三成の交遊関係は意外に広い。

例えば、大谷吉継との深い友情関係はよく知られているところであるし、直江兼続、小西行長、佐竹義宣らとの親交も深かった。

少々融通がきかない面はあるが、誠実で一本気なタイプの三成は、敵はいたにせよ四面楚歌になるほど嫌われていたとは考えられない。ただ、その武骨さが周囲からは「横柄」と取られてしまった可能性はある。

大谷吉継(『落合芳幾 画』)
関ケ原では三成のために東軍から西軍へ鞍替えした大谷吉継(『落合芳幾 画』)

実際、『常山紀談』(じょうざんきだん)』によれば、大谷吉継は三成に「お主には横柄なところがある」と諫言したと言う。

義の武将

三成の融通のきかなさは、彼が「義」を重んじる一本木な武将であったということに起因すると思われる。

友人直江兼続も義の武将として名高いが、彼は一方で柔軟な判断もできる武将でもあった。表向きは「義」と言いながら、面子を気にし、自分の命あるいは家の存続を図ることを優先してしまいたくなる武将の本音がよくわかっていたのだろう。兼続は割と「融通」のきく武将だったと言って良いのではないだろうか。

ところが、三成は豊臣家というか、秀吉に対する恩義を強く感じすぎていたため、柔軟性を欠く振る舞いとなることがしばしばあったようである。

小早川能久が記した『翁物語』によれば、毛利輝元から季節外れの桃が献上されたことがあった。三成は「見事な桃でござるが、時節はずれなので殿下(秀吉)が召し上がって万一のことがあっては毛利家の名に傷がつきましょう。時節の物を献上なされよ。」と言って突き返したという。

面白いのは、この振る舞いに対する周囲の評価が割れているという点である。心ある人は「もっともな事である。さすが三成は才人である。」と褒め称えたが、そうでない人は「秀吉の権勢を笠に着て横柄だ。」と評したというのだ。

三成のこの対応であるが、私個人としては「横柄」だとはあまり思わない。

ただ、三成の物言いが気にくわないという部分と、面子が潰されたという点から「横柄」という評価が出ているという側面はあるだろう。三成は「義」を重視するあまり、正論にこだわりすぎるきらいがあったのではないかと私は見ている。

「理に叶うのだからその通りにすれば良いではないか。」と三成は思っていたのかもしれないが、理のみで動くほど戦国武将の精神構造は高潔ではない。

やはり、三成は義に生きすぎたようである。

あとがき

石田三成の生涯を見ていくと、極めて優秀かつ高潔でありながら戦国時代から太平の時代への流れに翻弄されてしまった不運という面にどうしても目がいってしまう。

秀吉が目指した中央集権体制の確立のためには、政権において組織を俯瞰して行動できる「官僚」が必要であるが、三成以外にそのような人物がいなかったことには注目したい。

このため三成に権限が集中せざるを得なかったのだ。

まだ武断派が幅を利かせていたこの時期に、この事態は極めて都合が悪かった。なぜなら、三成には武功があまり無かったからである。

武功が少ない三成に権限が集中していったわけであるから、加藤清正ら武断派が不満を募らせるのも無理からぬことであったろう。それでも、前田利家が生きているうちは、文治派と武断派の間の対立も顕在化しなかった。

しかし、利家が秀吉の後を追うように死去してからは、その関係が修復されることはなかったのである。これが関ヶ原の戦いの遠因そして敗因につながってしまったことは言うまでもない。

三成の「義」が豊臣政権を滅ぼした可能性について考えると、どうにも居たたまれない気持ちになってしまうのである。


【主な参考文献】
  • 小和田哲男『石田三成「知の参謀」の実像』PHP新書、1997年
  • 三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』宮帯出版社、2009年
  • 瀧澤中『「戦国大名」失敗の研究』 PHP研究所、2014年
  • 『石田三成 復権!400年目の真実』新人物往来社、2009年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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