丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン
  • その他の将
 2019/01/18

【家系図】謎に包まれている浅井長政の出自にはどんな説があるのか

浅井三代の墓(滋賀県長浜市の徳勝寺)
浅井三代の墓(滋賀県長浜市の徳勝寺)

織田信長の妹を娶り、盟友となって一躍名が知られ渡った「浅井長政」。そもそも浅井氏は守護大名でもなければ、守護を支える守護代の家柄でもありません。突如歴史の表舞台に現れ、そしてすぐに滅びていきました。

果たして浅井氏はどのような血筋だったのでしょうか。今回は浅井氏の出自についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

浅井氏の拠点は浅井郡丁野郷

浅井亮政以前の記録はほとんど不明

浅井三代と呼ぶだけあって、浅井亮政以前の浅井氏の記録はほとんど残されていません。亮政の祖先が源氏なのか、平氏なのかという以前に、亮政の祖父の名前すら不明なのです。

基本的に住んでいる地名を名字にすることが多いですが、浅井という地名はありません。浅井郡は確かにありますが、郡名を名字にすることは一般的にはありえない話です。

有力なのは、浅井郡丁野郷を本拠地としていた土豪または地侍だったという説でしょう。地頭職など確固たる地位や職務を持っている国人と呼ばれる有力武士ではなく、武士の身分を持った村落領主といった感じです。

浅井郡のある北近江の守護は京極氏でしたから、京極氏に被官している国衆のひとりだったということでしょう。ただし、やや特別な存在だったようで、『江北記』によると、京極氏の当主である京極高清が北郡に出張するときは、浅井氏のいる丁野に住居すると記されています。

丁野にある京極氏の住居を管理する身分だったのかもしれません。

三条公綱落胤説

浅井氏は高貴な血筋であると記されている文献も残されています。

『続群書類従』には、三条実雅の長子である三条公綱が嘉吉年間(1441年~1444年)ごろに、天皇の怒りに触れて勅勘をこうむって近江守護の京極氏の預かりとなり、所領である丁野郷の娘との間に一子をもうけたというのです。

この子、重政は京極氏に仕え、以後、忠政、賢政、亮政、久政そして長政と代替わりしていきます。

ただし、この説を『東浅井郡志』は完全に否定しており、勅勘をこうむった時期に公綱は京都で活動していた点や、そもそも公綱は勅勘をこうむったことがない点。丁野郷が三条氏の所領ではなかった点などを指摘しています。

浅井氏当主の名も史実とは異なるようで、どうやらフィクションのようです。

浅井氏はいつから北近江にいたのか?

奈良期から鎌倉期の記録

それでは浅井氏はいつごろから浅井郡に住んでいたのでしょうか?『東浅井郡志』は奈良期までさかのぼって参考資料を探しています。

そうすると奈良期に浅井直馬養の名前が残されていました。平安期には浅井磐稲、浅井広恵根の名前もあります。鎌倉期には、伊香郡の源昌寺に木像の薬師如来立像を寄進した名前の中に、浅井氏も記されていました。

ただし、すべてが同じ一族かどうかは不明であり、仮に同じ一族であったとしてもその末裔が長政かどうかもわかりません。

没落して滅び、また新しい浅井氏が誕生した可能性も大いに考えられます。そして長政の祖先が室町期のどこかで浅井郡に住みついたかもしれません。浅井氏のルーツはまさにいろいろな可能性を秘めています。

物部守屋後裔説

面白い説には、浅井氏は物部守屋の末裔だとするものもあります。

『浅井三代記』には、敏達天皇の皇子である守屋太子の末裔で、藤原忠次の代に至って武家にくだり、その後、俊政から亮政まで27代続いたと記されています。この系図でいくと亮政の父親は広政で、妻の蔵屋の父親は教政、教政と広政の父親が氏政とされています。

『浅井三代記』は、江戸期に浄信寺別当によって書かれた軍記物語であり、裏付けが定かではありませんので、『東浅井郡志』では当然にように完全否定しています。こちらも亮政や蔵屋の父親の名が史実とは異なっていますので、やはりフィクションだと判断すべきでしょう。

戦国乱世で大きな活躍をした長政が、単なる地侍の末裔とは考えられず、おそらく尊い血筋を受け継いでいるのだろうという民間伝承のようなものが、三条公綱落胤説や物部守屋後裔説といったものを生み出したのではないでしょうか。

浅井直種、浅井直政の登場

浅井氏当主を務めた浅井直政

文明年間(1469年~1487年)において、『清水寺再興奉加帳』には伊香郡の井口氏や坂田郡の上坂氏と並び江州の浅井蔵人丞直種の名前が記されています。『江北記』には、備前守(亮政)の親である浅井蔵人が下坂氏の屋敷を攻めたとありますので、この浅井直種が亮政の父親のようです。

また、明応5年(1496年)には美濃国で起きた反乱(船田合戦)が隣国にも影響を及ぼすことになり、京極氏は美濃国に出兵していますが、先陣として派遣され凱旋した浅井もまた直種だと『東浅井郡志』では記しています。文亀元年(1501年)に京極氏の執権である上坂氏を除こうとして京極材宗をたてて今浜で戦って討ち死にした浅井も直種のことです。

浅井氏の当主は浅井井三郎直政でしたが、直政には男子がなく、庶家である直種の子である亮政を直政の娘である蔵屋の婿養子として家督を継がせました。浅井氏の系図については、この直政、直種から始めるのが一般的です。

浅井氏系図

直政の父親は不明ですが、母親の名は慶集と記されています。直政の正室は妙祥、そこに生まれたのが蔵屋です。

一方で庶家の直種には嫡男の浅井新次郎政種、新三郎亮政、さらに娘がおり下坂氏に嫁いでいます。亮政と蔵屋の間には二子の名前が残っており、嫡男の浅井新四郎政弘は早世しています。長女の鶴千代(海津殿)は田屋新三郎明政を婿養子として迎えており、一時はこの明政が亮政の後継者に指名されていました。

亮政には側室の尼子氏(寿松馨庵)の間には四人の子が生まれており、三田村氏に嫁いだ娘と、政種の子である浅井忠種に嫁いだ娘がいます。また、六角氏の後ろ盾で家督を継ぐことができた浅井新九郎久政の他にも虎夜叉という男子の名も見られます。

久政は、井口氏から正室を迎え(阿古御料、小野殿)、長女は主家である京極氏に嫁ぎ、嫡男の浅井新九郎長政は元服後、久政から家督を継いでいます。それまでは京極氏と六角氏の間で揺れ動いていた浅井氏でしたが、六角氏を破ることに成功した長政の活躍によって独立し、戦国大名としての地位を獲得していくのです。

浅井氏が歴史の表舞台に正式に登場したのは、大永3年(1523年)の京極氏後継問題時になりますので、そこで浅井氏当主だった亮政が1代目当主、久政が2代目当主、長政が3代目当主です。

信長を裏切った長政は、やがて信長の逆襲にあって滅びてしまいます。ですから浅井氏は三代と呼ばれています。ただし、長政の三女である江(崇源院)は江戸幕府2代目将軍である徳川秀忠に嫁ぎ、3代目将軍となる徳川家光を生んでいます。

まとめ

守護でも守護代でもなく、地侍という立場から、国人一揆を好機として下克上を果たしたのが北近江の浅井氏です。血筋や家柄ではなく、器量によって戦国大名の地位を確立した浅井氏だからこそ、革新的な信長が同盟の相手にふさわしいと決めたのかもしれません。

浅井氏の出自ははっきりとしたことはわかりませんが、少なくとも長政の血は娘の江を通じて江戸幕府の将軍家に受け継がれ、さらに後年には皇室との婚姻により昭和天皇にも受け継がれていきました。

浅井氏の血筋が高貴なものとなったことに間違いはありません。


【参考文献】
  • 宮島敬一『浅井氏三代 』(吉川弘文館、2008年)
  • 長浜市長浜城歴史博物館『戦国大名浅井氏と北近江』(長浜市長浜城歴史博物館、2008年)
  • 小和田哲男編『浅井長政のすべて』(新人物往来社 、2008年)




おすすめの記事



関連ワード


 PAGE TOP