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 2019/01/19

「浅井久政」浅井三代の中では暗愚とされるも、近年は再評価?

浅井久政の肖像画
浅井久政の肖像画

北近江の支配者として織田信長と同盟を結ぶ浅井氏ですが、それまでは主家である京極氏と南近江の六角氏の間で揺れ動いています。その間の浅井氏当主は、名高い武将の浅井長政の父として知られ、浅井三代の中の二代目「浅井久政」です。

浅井氏滅亡に影響を与え、浅井三代の中では暗愚と称されることの多い久政とは、果たしてどのような人物だったのでしょうか?
(文=ろひもと理穂)

久政の家督相続が問題なく行われた理由

蔵屋の賢と尼子氏の徳

久政の幼名は猿夜叉、通称は新九郎です。大永6年(1526年)、浅井氏当主である浅井亮政と側室である尼子氏(寿松馨庵)の間に生まれました。亮政の正室である蔵屋から生まれた嫡男、浅井新四郎政弘は天文4年(1535年)以前に早世しています。蔵屋には鶴千代という娘も生まれており、海津の田屋氏から嗣養子として迎えられた浅井新三郎明政に嫁いでいます。

亮政は明政を後継者として考えていたようで、天文3年(1534年)、小谷城に京極高清・高延(高広)親子を招いて饗応した際には、明政と久政の扱いや地位の違いがはっきりと示されています。また天文11年(1542年)に亮政が没した際には、本願寺から明政宛てに香典が送られています。状況的には明政が家督を継ぐはずです。しかし、実際に家督を継いだのは庶子であった久政でした。

その理由として、『東浅井郡志』では、蔵屋と尼子氏が姉妹のような関係であり、蔵屋が明政夫婦を諭して家督を久政に譲らせたと記されています。北近江で広く信仰を集めていた竹生島への寄進や宝厳寺の蓮華会頭役を務めていた尼子氏に対し、明政夫婦も心服しており、異議なく同意したようです。つまり後継者争いでもめることなく久政は家督を継いだわけです。

久政の背後には六角氏の存在があった

しかし実際には久政が六角氏を後ろ盾にして家督を継いだのではないかとも考えられています。その象徴が久政の用いた花押です。亮政や京極氏の足利様の高の字を組み入れた台形ではなく、下向きの湾曲線で六角氏の花押の影響を受けたことがうかがえます。

亮政の代からすでに六角氏に従属していたような状態ですが、天文13年(1544年)には久政は正室の小野殿(阿古御料)を人質として六角氏の拠点である観音寺に送り届けているのです。小野殿は翌年にこの地で浅井長政(幼名は猿夜叉)を生みました。つまり嫡男もまた人質として差し出したわけです。完全に六角氏に従属したということです。

京極氏・六角氏との外交術

京極氏と和議を結び六角氏と対立

北近江の守護大名である京極高延は天文10年(1541年)に、亮政打倒のために挙兵しています。この時点での浅井氏の立場は六角氏の庇護下で、京極氏と対立していることになります。

天文13年(1544年)8月には、高延は坂田郡北部へ侵攻。国友氏、若宮氏、加田氏の館や領土を攻めています。長い対立の末、天文19年(1550年)には久政は京極氏と和議を結びました。この頃から久政は新九郎から左兵衛尉を名乗っています。斡旋したのが京極氏なのか、六角氏なのかは微妙でしょう。久政は頼る相手を六角氏から京極氏に変更しているからです。

この時期、六角氏の実権は定頼から義賢に移っており、三好長慶との確執でもめていました。京極氏は三好氏と連合し六角氏や細川晴元と対立し、犬上郡、甲良床などを攻めます。さらに長慶の家臣である松永久秀が近江滋賀へ侵攻すると、晴元が擁する将軍・義藤(義輝)は朽木へ逃れました。天正21年(1552年)に定頼が没すると、高延は佐和山城を陥落させることに成功しています。久政がどこまで活躍したのかは不明ですが、京極氏側に味方し、六角氏に反旗を翻したのは確かなようです。

六角氏に敗れ服従する

押し気味の高延や久政でしたが、天文22年(1553年)の六角氏との戦いに敗れ、地頭山が陥落してしまいます。これでおよそ3年間続いた近江国南北の争乱は一端幕を下ろしました。浅井氏は完全に六角氏に服従するようになり、久政の嫡男である猿夜叉(長政)は、義賢の偏諱を頂戴して浅井賢政と名乗ります。そして義賢の家臣である平井定武の娘を娶りました。

義賢は京都で最大勢力となった長慶とも和睦し、京都の政情は安定していきます。義賢は弘治2年(1556年)から3年かけて伊勢侵攻を行っていますが、これには浅井氏も従軍しています。久政は六角氏の庇護のもと、13ヶ条からなる徳政を実施するなど行政面に力を注いでいます。

『東浅井郡志』では、「軍事的な才能に乏しい」「父親である亮政のような熱意がない」と評価の低い久政ですが、行政面では評価が高く、特に用水に関する裁定には民意を尊重しており、現代では久政の行政手腕を再評価されてきています。

久政の隠居と最期

国人一揆により隠居に追い込まれた

氏側についたり、京極氏側についたり、また六角氏側についたりという久政の処世術に対し、煮え切らないものを感じていた国衆も多かったようです。特に永禄2年(1559年)に15歳で長政が元服してからは、久政を見限り、長政を期待する国衆が増えていきます。長政はそんな国衆の期待に応えるかのように、平井氏の娘と離別し、名も賢政から旧来の新九郎に戻して六角氏との訣別を示しました。

『江濃記』によると磯野員昌を中心とした赤尾氏、丁野氏、百々氏、遠藤氏、安養寺といった有力国衆の評定によって、久政の隠居と浅井氏の自立が決定したとあります。国人一揆をまとめて存在感を高めてきた浅井氏にとって、このような国衆の意向はかなり重要なものだったのではないでしょうか。

永禄3年(1560年)8月、北近江に侵攻してきた六角勢を、長政は野良田で迎撃しています。緒戦は先陣を務める百々内蔵助が討たれるなど劣勢に追い込まれますが、長政は兵を二手に分けて敵の本陣を襲い、六角氏を敗走させています。この結果に満足したのか、10月に久政が隠居を決めたという説が有力です。隠居先は小谷城の小丸で、隠居して後も浅井氏の方針にある程度の発言力を持っていたと考えられます。永禄4年(1561年)からは長政が備前守、久政が下野守へと変わっています。

訣別の宴の後に切腹して果てる

その後、長政は織田信長と同盟を結びますが、信長の朝倉氏討伐時に同盟を破棄してその背後を襲いました。通説では久政が長年の朝倉氏との同盟関係を重要視し、長政はその意向に従ったために信長を裏切ったことになっていますが、そもそも朝倉氏との同盟関係が密なものだったとは考えにくい部分があります。亮政の時代に六角氏と朝倉氏は共同して北近江に攻め込んでいるという記録があるからです。長政が信長を裏切った真相は別にありそうです。

その後、信長と長政は長く対立しました。しかし天正元年(1573年)に朝倉氏の一条谷が陥落し、そのまま北近江の小谷城も包囲されます。秀吉はまずは京極丸を陥落させ、久政が守る小丸と長政が守る本丸を分断しました。最期を悟った久政は、家臣に防がせている間に訣別の宴を開き、その後に切腹、介錯は浅井惟安が務めています。

久政と長政の首は京市中引き回しの後、獄門にさらされ、箔濃にして永く保存され、天正2年(1574年)の岐阜城での宴で酒器として用いられたと『信長公記』には記されています。

まとめ

信長を裏切るように仕向け、浅井氏を滅亡に導いた張本人とされることの多い久政ですが、事実は大きく異なるのではないでしょうか。

軍事面ではあまり活躍の機会がありませんが、時勢を見極め、どちらに味方すべきはよく見抜けている人物だったのではないかと思えます。その才覚があったからこそ、巨大な六角氏と対峙しながらも浅井氏は存続できたのです。

暗愚という評価は的を得ていないかもしれません。


【参考文献】
  • 宮島敬一『浅井氏三代 』(吉川弘文館、2008年)
  • 長浜市長浜城歴史博物館『戦国大名浅井氏と北近江』(長浜市長浜城歴史博物館、2008年)




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