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 2019/09/24

「浅井長政」織田信長の義弟となりながらも反旗を翻した長政が目指したものとは?

浅井長政の肖像画

織田信長の妹であるお市の方を正室に迎え、足利義昭の上洛の手助けをした北近江の戦国大名「浅井長政」。しかし、その後は信長を裏切り、徹底的に戦った後に滅びています。

長政はなぜ信長と手を結び、また、なぜ反旗を翻したのでしょうか。今回は浅井長政の謎についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

六角氏からの独立

六角氏との訣別

浅井長政は天文14(1545)年、久政の嫡男として生まれました。生まれた場所は浅井氏の拠点ではなく、南近江の守護大名である六角氏の拠点である観音寺城です。

長政の母親である小野殿(北近江の豪族である井口氏の娘)が人質として観音寺城に送られていたためです。つまり浅井氏は六角氏に従属しながら北近江の領地を治めていました。

長政の幼名は久政と同じく猿夜叉です。その後は新九郎賢政と名乗っています(表記は長政で統一します)。

浅井氏(浅井三代)の略系図

賢の一字は、六角氏の当主である六角義賢(この時期にはすでに家督は六角義治に譲り承禎と号しています)の偏諱を受けたものです。長政は義賢の意向で、六角氏の重臣である平井定武の娘を室に迎えました。完全に家臣としての扱いです。

この弱腰に異を唱えたのが北近江の国衆でした。『江濃記』によると、磯野員昌を中心にして、赤尾氏、丁野氏、百々氏、遠藤氏、安養寺氏らが評定し、久政の隠居と六角氏との手切れを決めたようです。

永禄2(1559)年、15歳で元服した長政は家督を継ぎ、平井氏の娘と離別。六角氏との対立をはっきりと示します。

野良田合戦と長政の家督相続

長政が愛知郡の高野瀬氏を味方に引き込むと、義賢は永禄3(1560)年に肥田城を水攻めしますが、大洪水が発生し失敗。8月には蒲生賢秀を先陣とし、大軍を率いて再び肥田城に侵攻しました。

愛知川を渡り野良田に布陣すると、員昌らを率いた長政の援軍が到着し、両陣営は激突します。長政の先陣の百々内蔵助は討ち死にし、賢秀の勢いに押されますが、長政は兵を二手に分け、賢秀に対峙しつつ、長政自身は六角氏本陣に突撃を仕掛けます。義賢は支えきれずに潰走し、長政勢は920の敵兵の首を獲って勝利しました。

こうして武力をもって浅井氏は独立を勝ち取ったのです。

一般的にはこの長政の活躍ぶりに惚れ込んだ北近江の国衆が久政に隠居を迫り、長政が家督を継いだとされています。少なくともこの年の10月には、浅井氏の当主は長政であり、久政は隠居しているのです。

しかし、15歳の若者が戦場で敵を圧倒する采配ができるものでしょうか。野良田合戦での逆転勝利、久政の隠居、長政の家督相続には、磯野員昌の存在が大きかったのではないかと考えられます。その後の戦いでも中心にいるのはやはり員昌なのです。

磯野員昌の浮世絵(『太平記英勇伝 二十八』落合芳幾 作)
磯野員昌の浮世絵(『太平記英勇伝 二十八』落合芳幾 作)

信長との同盟

お市の方との婚期の謎

永禄4(1561)年には久政は下野守、長政は備前守を名乗るようになり、5月には賢政から長政に改名しました。

花押を見ると、これまでは下向き湾曲の六角定頼の影響を受けた花押でしたが、長政に改名した後は織田信長と同類の花押に変更されています。長政の長の一字は信長の偏諱を受けたものとも考えられています。

そうなるとこの時期にはすでに、織田氏と浅井氏の間には同盟関係が結ばれていたかもしれません。同盟の証が長政と信長の妹であるお市の方の婚姻ですが、時期ははっきりしていません。

おそらく『信長公記』には意図的に記されなかったのでしょう。長政は信長にとって憎むべき敵になるわけですから記されなかった理由もわかります。

浅井長政とお市の像(滋賀県長浜市)
浅井長政とお市の像(滋賀県長浜市)

元和7年から9年(1621年~1623年)に川角三郎右衛門によって書かれた『川角太閤記』には、永禄2年(1559年)6月と記されています。注目すべきはこの婚姻を成功させようと信長のもとに向かったのが員昌だということです。

しかしこの時期の信長は桶狭間の戦い以前で、駿河国の脅威にさらされている状態ですから、北近江の小勢力にすぎない浅井氏と姻戚関係を結ぶとは考えにくいでしょう。

『東浅井郡志』では永禄4年(1561年)です。ちょうどいいタイミングだといえます。

『続応仁後記』や『浅井三代記』といった軍記物語では輿入れが永禄7年(1564年)、『総見記』では永禄11年(1568年)となっていますが、長政の嫡男である万福丸が処刑されたのが10歳のときで、それが天正元年(1573年)ですから、それを考慮すると婚期はやはり永禄4年(1561年)の可能性が高いでしょう。

なぜ信長との同盟の必要があったのか

ちなみになぜ浅井氏が尾張国の織田氏と同盟を結ぶ必要があったのかというと、敵対する六角氏が美濃国の斎藤氏と結んでいたからです。

実際に斎藤氏は六角氏と連携して刈安尾城に侵攻してきています。これに対抗するためには斎藤氏の背後を突ける織田氏との同盟が必要だったというわけです。

長政も永禄4(1561)年2月に美濃国に攻め込んでいます。先陣を務めたのはやはり員昌です。おそらく同盟を結んでいた信長の要請があっての侵攻でしょう。六角氏と対峙している中で単独で美濃国に攻め込むとは考えにくいからです。

迎撃してきた斎藤勢を破っていますが、その隙に拠点の佐和山城を六角勢に奪われてしまいました。このときは員昌が佐和山城に舞い戻り、六角勢は包囲されることを恐れて敗走していますので、佐和山城は員昌の活躍で取り戻しています。

信長上洛と断絶

上洛に成功し、義昭は将軍となる

その後も浅井氏と六角氏との一進一退の攻防は続きました。永禄6年(1563年)に起きた反乱(観音寺騒動)で、義治が進藤賢豊に攻められて観音寺城を脱出し、蒲生定秀を頼った際には、好機と見た長政は南近江へ侵攻しています。ただし六角氏の支配を崩すまでには至っていません。

そんな中、信長が永禄10(1567)年ついに斎藤氏を追い出して美濃国を制圧します。信長は天下布武の印判状を用いるようになったのとともに、上洛して将軍職に就きたい足利義昭を全力で援助するようなりました。

永禄11(1568)年7月には、越前国一条谷で朝倉氏に庇護されていた義昭が信長のいる岐阜に移っています。移動の途中で北近江を通過する際には、長政は余呉庄で出迎え、義昭は小谷城に逗留しました。

信長の行動は恐ろしく迅速で、8月に佐和山城に入り長政と会って打ち合わせを済ませると、9月には徳川家康の軍勢も伴って自ら出陣し、南近江の六角氏を攻めています。箕作城、和田城がただちに陥落し、義賢・義治親子は戦わずして観音寺城から落ち延びました。定秀らは信長に降伏しています。

観音寺騒動で弱小化していたとはいえ、こうもあっさりと六角氏の支配が終了してしまうとは驚きです。おそらく長政も同じ思いだったのではないでしょうか。

観音寺城の戦いの場所。青線は信長の上洛ルート。マーカー青は織田方、赤は敵方の城など。

信長はさらに周辺の抵抗勢力を一掃し、10月には清水寺に入り、義昭は本國寺に入って征夷大将軍に就任しています。まさに電光石火、あっという間の上洛でした。こうして長政の同名相手であった信長はどんどん巨大な勢力となっていき、室町幕府を傀儡化していくのです。

なぜ長政は断絶を決断したのか

元亀元(1570)年4月、信長は3万の兵を率いて出陣しました。すでに正親町天皇から朝敵討伐の権限を得ており、幕府から上意も得ているため、信長の侵攻には大義名分があります。目的は信長の意に従わない朝倉氏の討伐です。

信長の軍勢は敦賀を抜き、金ヶ崎城を攻略し、木の葉峠にさしかかります。このままだと朝倉氏が滅ぶことは誰の目にも明らかでした。しかし、ここで信長も耳を疑うような報告を聞くことになります。それが長政の離反です。背後を突かれた信長は一転して窮地に追い込まれ、命からがら京都へ逃亡します。(金ヶ崎の戦い

長政は旧敵の義賢らに働きかけ、南近江で牢人らを蜂起させます。長きに渡り死闘を繰り広げてきた浅井氏と六角氏が、信長打倒のために手を結んだのです。なぜ長政は信長との断絶を決断したのでしょうか?

一般的には久政が信長との同盟に当初より反対しており、もともと同盟を結んでいた朝倉氏攻めに怒って信長と手を切るように長政に指示したと伝わっています。しかし、かつて浅井が六角氏と争っていた時期に、その六角と手を結んで北近江に攻め込んできたような朝倉氏に対し、そこまでの深い繋がりがあったとは考えにくいでしょう。

<a href='https://sengoku-his.com/622'>浅井久政</a>の肖像画
父・浅井久政は隠居後もそれなりに浅井家中で影響力をもっていた?

真相は謎ですが、長政が信長という人物を信用できなくなったのは確かです。

「このままでは信長の家臣にされてしまう。越前国が制圧されれば次は北近江が標的にされるかもしれない。」

そんな恐怖が長政にはあったように思えます。

信長の急成長ぶりはそれだけ異常な速度だったのです。「今倒さねば、もう倒せるときはないだろう」という判断のもと長政は信長との断絶を決断したのではないでしょうか。

信長との戦い

長政の離反は想定外だったため、信長はその対応に苦慮しました。戦略は大幅な変更を余儀なくされています。

長政はその逆襲に備えるために国境に長比城、刈安尾城を築城し備えましたが、秀吉の策略によって家臣の樋口直房が裏切り、両城とも落城。長政は直房の人質を串刺しにしています。

こうして信長は25000の兵力で小谷城に攻め寄せました。このときの浅井氏・朝倉氏と織田氏・徳川氏の激突は「姉川の戦い」「野村合戦」「三田村合戦」などと呼ばれています。

浅井方の員昌はここでも大きな活躍を見せ、先陣の坂井政尚を打ち破り、柴田や秀吉、森の陣も突破して信長の本陣に迫ったと伝わっています。ただし朝倉氏の潰走によって、浅井氏も敗北しました。勝利を得たものの、信長は佐和山城までは攻略できずそのまま岐阜に帰還しています。

ここから比叡山、三好三人衆などが長政側に味方し、信長包囲網が形成されていきます。

特に重要だったのが、本願寺が信長に対して挙兵したことでしょう。伊勢の長島一向一揆など信長は多方面に戦場を抱えるようになり、同年9月、この隙に長政は朝倉氏と共同して坂本へ進軍して森可成や信長の弟である織田信治を討ちました。

信長としてはまたも危機に直面することになるのですが、なぜかここで長政らと信長は和議を結んでいるのです。

信長を追い詰めながらなぜ和議を結んだのか

和議については危機を脱したい信長の意向によって、将軍である義昭が仲介し、さらに天皇の勅命でもあったことが締結に至った理由という説もありますし、冬を迎え兵站の確保が困難になった朝倉氏の意向という説もあります。

『尋憲記』によると、この和議により北近江の3分の2は信長の領土となってしまいます。長政の意向は無視された形だったのではないでしょうか。また、ここで信長の態勢を立て直す時間を与えてしまったことで、朝倉氏も浅井氏も滅びることになってしまうのです。

小谷落城と浅井氏の滅亡

信長包囲網が崩壊

元亀2(1571)年、8ヶ月籠城した佐和山城が員昌の降伏によって落城しました。

『島記録』によると小谷城に帰還することを条件に城を明け渡したのですが、長政が員昌の降伏を許さず小谷城に入れずに人質である員昌の母親を磔にしました。員昌はこうして信長の家臣となることを決め、高島郡を得ています。

圧倒的に不利になった長政ですが、希望の光は甲斐国の戦国大名である武田信玄が信長包囲網に加わって動き出したことでした。

元亀3(1572)年信玄は甲府を出陣してから瞬く間に徳川領を制圧していき、遠江国の三方ヶ原の戦いでは徳川家康を圧倒しています。

このタイミングを見計らい、翌元亀4(1573)年2月に信長と不仲だった将軍義昭は打倒信長の兵をあげますが、この後まもなく信玄が病没。その結果、7月には義昭が降伏して室町幕府は事実上滅亡となりました。

同月は山本山の阿閉貞征が信長に降り、長政は人質であった貞征の子を串刺しにしています。

長政の最期

信長包囲網が瓦解したとあって、信長は本格的に小谷城攻めに着手。

8月には朝倉軍が浅井の援軍に駆けつけるも、あえなく潰走。信長の追撃を受けて大打撃を受け、そのまま本拠の一乗谷まで制圧されてしまいます。

このとき長政は援軍を出して朝倉軍を救う余裕は一切なかったようです。一乗谷から逃れた朝倉義景ですが、結局は重臣の裏切りにあい、自害に追い込まれています(一乗谷城の戦い)。

続いてすぐさま小谷城も織田軍に攻められ、あえなく落城(小谷城の戦い)。長政は最期に正室のお市の方と三人の娘を信長のもとへ送り出した後に自害しています。

嫡男の万福丸は10月には捕らえられ、関ヶ原で磔にされました。ここに浅井氏は滅んだのです。

まとめ

長政が信長と断絶しなければ、その後の家康のように大きな勢力となっていたでしょう。長政は信長がどのような人物なのかよくわかっていなかったのかもしれません。それが長政と家康の大きな違いです。

15歳で、いつのまにか家督を継がされ、六角氏から独立させられ、織田氏と同盟を結ばされていた長政が、戦国大名としての自我が芽生え、初めて決断したことが、野心の塊のような凶暴な信長を滅ぼすことだったのかもしれません。


【参考文献】
  • 宮島敬一『浅井氏三代 』(吉川弘文館、2008年)
  • 長浜市長浜城歴史博物館『戦国大名浅井氏と北近江』(長浜市長浜城歴史博物館、2008年)
  • 小和田哲男編『浅井長政のすべて』(新人物往来社、2008年)





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