日本の南極観測の歴史 第一次南極地域観測予備隊派遣は戦後日本の快挙

 太平洋戦争敗戦後の日本は、1964年の東京オリンピック開催で国際社会の一員と認められたと言いますが、それ以前の南極観測への参加もそれに劣らぬ快挙として国内は沸き返りました。

南海の果ての大陸

 「どうも地球の南の果てには大きな大陸があるらしい…」

 人類が南極大陸の存在に気付いたのは、古代ギリシャの時代にまで遡るようです。ギリシャの哲学者たちは陸地と海とは球体を成しており、多くの物体は対を成して存在すると捉えていたので、北の陸地に対して南にもバランスを取れるだけの陸地があるはずだと考えました。

 西暦150年ごろ、地理学者であり天文学者でもあった古代ローマの学者・プトレマイオスは、世界の最南端に「未知の国」が記された世界地図を作っています。

幅広い分野で業績を残したプトレマイオスの想像画(出典:wikipedia)
幅広い分野で業績を残したプトレマイオスの想像画(出典:wikipedia)

 それから数百年、最初に氷の浮かぶ南の海に乗り入れたのは、海洋民族のポリネシア人だったようです。ポリネシアのラトンガ島には、ランギオラと言う若い首長とその仲間がカヌーで海に乗り出し嵐に遭遇、氷の浮かぶ海にまで流され…との伝説が伝わります。日本の飛鳥時代、大化の改新(645年)があったころです。

信長や秀吉は知っていた?

 日本人で初めてこの南の果ての陸地を知ったのは、織田信長や豊臣秀吉などの戦国大名だったようです。

 16世紀末に日本にやって来たポルトガル人が当時の世界地図を持ち込みますが、その中に「未知の南の国」が記されていました。南蛮好きの信長はポルトガルの宣教師や商人の話を聞くのを好みましたから、世界地図を囲んでいろいろ質問を浴びせたでしょう。ポルトガル人がどこまで未知の大陸を理解していたかはわかりませんが…。

 18世紀初頭に完成したと言われる伊能忠敬の『地球図』にも、南の果てに「南極圏」として陸地が描かれています。これは忠敬がヨーロッパで作成された地図を基に書き入れたと思われます。

 実際の南極大陸の発見は、イギリスの探検家やアメリカのアザラシ猟船・ロシアの観測船など、1820年代に次々とこの大陸へ辿り着いた人々によってです。互いに「ウチが一番」と譲りません。月日は流れ、スコット、アムンゼン、白瀬 矗(しらせ のぶ)、と各国の探検家が南極に乗り込み、やがて探検の時代から観測の時代へと移って行きます。

イギリスの探検家・スコット(左)と、ノルウェーの探検家・アムンゼン(右)(出典:wikipedia)
イギリスの探検家・スコット(左)と、ノルウェーの探検家・アムンゼン(右)(出典:wikipedia)

国際地球観測年への参加

 1951年、第二次世界大戦後のサンフランシスコ講和条約により国際社会への復帰が認められた日本は、国際測地・地球物理連合などの国際観測組織とも協力関係を構築していきます。そんな組織の中の1つ・国際学術連合会議(ICSU)において、1957年7月から翌1958年12月までの18ヶ月間を「国際地球観測年(IGY)」とする事が決まります。

 何をするのかと言うと、地球全体の地磁気や電離層・オゾン層の観測、大気光や宇宙線の観測、ほかにも気象学・海洋学・地震学など、地球の自然を丸ごと調べようとの計画ですが、そのなかに未知の大陸南極観測も含まれていました。海岸線もはっきりせず、まともな地形図もない大陸に観測所を設け、科学的に解明しようと言うのです。

日本が発行した国際地球観測年記念切手(出典:wikipedia)
日本が発行した国際地球観測年記念切手(出典:wikipedia)

 ICSUに対応する日本の国内機関は日本学術会議で、国際地球観測年の提案も学術会議を通して国内科学者に伝えられます。科学者たちの話し合いが重ねられ、1955年に日本はICSUの会議で南極観測への参加を表明。第二次世界大戦の敗戦から10年が経っていました。

朝日新聞社が乗り出すも、歓迎されない日本

 ただ、日本は最初から南極観測に参加する予定ではありませんでした。日本は東経140度線沿いの観測の責任者の役割を求められていたのです。政府もそのつもりで予算も考えていましたが、アメリカが赤道付近の観測所設置を決めてしまいます。戦勝国連合国側の盟主と敗戦国では争っても無理、日本は観測予算を南極に向ける事にしました。

 ここで話を聞きつけた朝日新聞社が乗り出して来ます。同社は南極観測に関心を示し、設営面での援助も惜しまないことを申し入れ、日本の南極観測への参加が決まります。朝日新聞社はこの後も南極観測に深いかかわりを持ち続けました。

 参加を表明した日本に基地候補地として、南極大陸から450km離れたピーター1世島はどうかとの打診がありました。日本が最初に希望したのは、かつて白瀬隊も航海した海域に近いアデア岬付近です。最終的に日本の基地建設は東経35度付近のプリンスハラル海岸に決まります。

 しかし、この会議の雰囲気は、決して参加を名乗り出た日本に好意的なものではありませんでした。第二次世界大戦敗戦国の中で、白人種国であるドイツ・イタリアを差し置いて東洋の黄色人種国が出てくるのは歓迎されざる事だったようです。ドイツ・イタリアの南極観測への参加は1980年代になってからなので、この決断は当時の日本学会・政財界の勇断と言うべきでしょう。

第一次は様子見

 最終的に決定した南極観測隊の概要は以下のようなものです。
<観測調査項目>
 気象・地磁気・極光・夜光・地理・地質、その他

<観測地点>
 東経35度付近のプリンスハラル海岸

<観測期間>
 予備観測 1956年12月から1957年1月まで
 本観測  1957年12月から1958年12月まで

<観測隊員>
 予備観測 約20名
 本観測  約40名

 第1回目はともかく基地候補地を決めて基地を建設し、観測は一部を実施後に全員が帰国すると言うものでした。せっかく南極までいくのですから観測結果も大いに求められますが、何よりも事故を起こさずに全員無事に帰国することが最優先されます。もし事故を起こして死者でも出るようなことになれば、その後の観測活動に大きな影響が出ますから。そして、この第一次観測隊は全員無事に帰国しました。

 「平和な国際協力への参加」という明るいニュースは、各新聞社が催した “南極探検隊義捐金募集” に発展します。全国の子供たちが小遣いを節約した5円10円を学校に持ち寄り、「○○小学校四年二組60円」との寄付の記事が紙面を飾りました。このような科学事業へ国民すべてが関心を持ち協力を惜しまない姿勢は、その前にも後にも例を見ません。

おわりに

 「観測隊の機材はすべて国産品で賄う」

 これが国の基本方針でした。ただ、朝日新聞社が提供した航空機関係の機材だけは、輸入品を使わざるを得ませんでした。当時の日本には、それらの機材を提供できるだけの産業はまだ復活していなかったのです。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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