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上杉謙信に娘がいた、っていうのは本当?

諏訪湖の八重垣姫像
諏訪湖の八重垣姫像
 戦国時代の武将の中で、一生涯、妻を持たなかったはずの上杉謙信に「八重垣姫(やえがきひめ)」という娘がいた、と聞いて驚きましたか?

 八重垣姫とは、いったいどのような人物で、本当に謙信の娘なのでしょうか。

諏訪湖に浮かぶ八重垣姫の像

 長野県諏訪市の諏訪湖。湖に浮かぶように女性の彫刻が建っています。この女性が八重垣姫です。

 彫刻は昭和53年(1978)に隣接する茅野市出身の彫刻家、矢崎虎夫氏が制作したもので、八重垣姫が右手に抱えているのは「諏訪法性の兜(かぶと)」。武田信玄がかぶっていた兜として知られています。

 ということは、八重垣姫は謙信の娘というだけでなく、信玄や武田家とも関係のある女性だったのでしょうか?

 種明かしをしましょう。

 八重垣姫とは、浄瑠璃や歌舞伎の演目である「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」に出てくるお姫様で、架空の人物です。

 「本朝廿四孝」は、川中島の合戦で有名な上杉謙信と武田信玄の戦いを脚色した物語で、八重垣姫は謙信の娘として登場します。さらに八重垣姫が嫁いだのは信玄の子である武田勝頼だったので、武田家とも縁のある女性として描かれたのです。

 八重垣姫が活躍するのは「奥庭狐火の段」で、人形浄瑠璃や歌舞伎では「三姫」の一人として、とても重要や役どころを演じるヒロインに位置付けられています。

八重垣姫と諏訪法性の兜の関係とは?

 物語のあらすじをご紹介します。

 謙信の娘・八重垣姫と信玄の息子・勝頼は婚約しますが、謙信は武田家の家宝「諏訪法性の兜」を借りたまま返そうとはしません。そこで勝頼は別人になりすまして謙信の元に潜り込みます。

 正体を見破った謙信は、勝頼を暗殺しようと企てて使いに出します。それに気づいた八重垣姫が後を追いかけますが、諏訪湖が凍っていて船が出せません。

 八重垣姫は湖畔で諏訪法性の兜を掲げます。すると、諏訪明神の使いである白狐が現れ、結氷した諏訪湖上を歩けるようになりました。八重垣姫は無事に勝頼の元へたどり着き、二人は晴れて結ばれたのです。

 諏訪湖の彫刻は、物語のハイライトである「八重垣姫が諏訪湖を渡る姿」でした。

諏訪法性の兜を掲げる八重垣姫(『[絵本] 〔6〕 本朝廿四孝 下』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
諏訪法性の兜を掲げる八重垣姫(『[絵本] 〔6〕 本朝廿四孝 下』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

史実では謙信に娘はいなかった

 八重垣姫は物語に登場する架空の人物でした。では、上杉謙信にはモデルとなるような娘がいたのでしょうか?

 さまざまな史料を紐解いてみても、謙信に娘や息子がいたという形跡はまったくありません。妻帯せず、生涯独身を貫いた武将であるというのが定説になっています。ただし、養子として姉(長尾政景の妻)の子である景勝と、北条氏政の弟である景虎を迎えています。

おわりに

 謙信の死後、跡目争いとして「御館の乱」(景虎 vs 景勝)が勃発しますが、武田勝頼と和睦して同盟関係を結んだ景勝が勝利して後継者となります。 景勝は武田との和睦の際に、武田勝頼の妹・菊姫を正室に迎えました。没後の縁組とはいえ、謙信からすれば義理の息子の嫁となるわけです。

 菊姫は、八重垣姫のモデルになった女性とも言われており、ムリヤリこじつければ「謙信の義理の娘」とも言えないことはないですね。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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