会津征討前夜。石田三成と上杉景勝・直江兼続との間に事前密約はあったのか?

事前盟約を示す史料

 慶長5年(1600)6月、上杉景勝が徳川家康からの上洛要請を拒絶したので、両者の対立は決定的になった。景勝の上洛拒絶から家康の会津征伐の流れは作戦であり、景勝・直江兼続と石田三成が事前に盟約を結んでいたという説がある。この説の根拠史料は、『続武者物語』所収の(慶長5年)6月20日付石田三成書状(直江兼続宛)である。

 次に、内容を提示しておこう。

先日、御細書(細かく内容を記した手紙)を預かり返事をいたしました。家康は一昨日の十八日に伏見を出馬し、かねてからの作戦が思うとおりになり、天の与えた好機と満足に思っております。私も油断なく戦いの準備をいたしますので、来月初めに佐和山を出発し、大坂へと向います。毛利輝元・宇喜多秀家そのほかは、無二の味方です。会津方面の作戦を承りたく思います。中納言様(景勝)にも手紙を送っています。しかるべき御意を得るようお願いする次第です。

 ゴシックの部分を見ればわかるとおり、家康を挑発して会津征討に向かわせたのは、以前から考えていた作戦であるというが、中村孝也氏はこの書状を疑わしいと指摘している。その理由は、『続武者物語』が延宝8年(1680)10月に成立した編纂物で、さまざまな所伝を年次不同で編集した内容にすぎず、質が劣る『武辺咄聞書』と変わらないからだと述べる。

※参考:家康は会津征伐のため、「伏見城→江戸城→小山」へと進軍。(戦国ヒストリー編集部作成)
※参考:家康は会津征伐のため、「伏見城→江戸城→小山」へと進軍。(戦国ヒストリー編集部作成)

偽作である可能性

 『続武者物語』には、この書状に続けて(慶長5年)7月14日付三成書状(兼続宛)が収録され、越後口の撹乱作戦について述べているが、中村氏は信憑性が乏しいと評価する。同様に、今井林太郎氏も「書簡の用語に疑わしい点」があるので、後世の人の偽作であると否定的な見解を示した。

 ほかに事前盟約説を採用する史料としては、『会津陣物語』がある。水野伍貴氏の指摘によると、これは上杉氏が徳川氏に敵対行動を取った責任を直江兼続一人に押し付けようとして、筆者の杉原親清により創作された可能性が高いとする。

 しかし、もう少しはっきりと、事前盟約がなかった証拠を示せないのだろうか?

事前盟約がなかった証拠

 事前盟約説がなかったことを明快に論じたのが、宮本義己氏である。宮本氏は三成が真田氏に宛てた2通の文書を根拠にして、事前盟約説を否定した。

 次に、(慶長5年)7月晦日付石田三成書状(真田昌幸宛)を掲出することにしよう(「真田家文書」)。

私(三成)から使者を三人遣わしました。そのうち一人は貴老(昌幸)が返事を書き次第、案内者を添えて私(三成)のほうに下してください。残りの二人は、会津(景勝・兼続)への書状とともに遣わしているので、昌幸のほうからたしかな人物を添えて、沼田(群馬県沼田市)を越えて会津に向わせてください。昌幸のところに返事を持って帰ってきたら、案内者を一人添えて、三成まで遣わしてください。

 この書状の冒頭の部分では、三成が挙兵する計画を昌幸に事前に知らせていなかったことを詫びている。三成は、昌幸にさえ西軍決起の情報を届けていなかった。この書状には、昌幸を通して景勝のもとに使者を向かわせたことが書かれている。文中の案内者とは、土地の事情に詳しい者という意味である(道案内)。

 宮本氏が指摘するように、三成は昌幸を仲介して景勝に接近しようとしているので、これより以前、景勝との交渉ルートを持たなかったと考えられる。

景勝との交渉ルートを持たなかった三成

 (慶長5年)8月5日付の石田三成書状(真田昌幸宛)によると、三成が昌幸を通して、景勝と交渉を円滑に進めようとした様子がうかがえる。三成は沼田を経て会津へ飛脚を送ろうとしたが、その間に他領があるので、困難だった状況がうかがえる。堀秀治が豊臣秀頼に奉公したとも報告しており、いまだ三成が各地に味方を募っているのが現状だった。

 次に、(慶長5年)8月10日付の石田三成書状(真田昌幸・信繁宛)を確認することにしよう(「真田家文書」)。

とにかく早々に(昌幸・信繁から)会津へ使者を送り、公儀(秀頼)は手抜かりなく三成と相談していることをお伝えいただきたい。言うまでもないことですが、お国柄もあって、景勝は何かと気になさる方です。しかし、このように入魂の間柄になれば、さほど気にすることはないので、物腰柔らかく景勝に気に入られるよう申し入れ、成し遂げることです。

 三成は昌幸を通して、景勝が西軍に味方するように交渉しており、その人柄に及んでまで助言をしている。

 ここまで見れば明らかなとおり、景勝・兼続と三成とは特段懇意でなかったようで、事前盟約説が成り立つわけがない。未だこの段階に至っても、三成は昌幸を通して景勝と交渉していたのが実情になろう。


【主要参考文献】
  • 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館、1961年)
  • 中村孝也『徳川家康文書の研究 中巻』(日本学術振興会、1958年)
  • 水野伍貴「秀吉死後の権力闘争と会津征討」(和泉清司編『近世・近代における地域社会の展開』岩田書院、2011年)
  • 宮本義己「「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年)

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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