信長以前の織田家と朝廷との関係はどうだったのか? 飛鳥井雅綱・山科言継の尾張下向と織田信秀

萬松寺所蔵  織田信秀木像(『郷土偉人展覧会図録』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
萬松寺所蔵 織田信秀木像(『郷土偉人展覧会図録』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 永禄11年(1568)9月、足利義昭の上洛要請に応じた織田信長は、尾張・美濃などの軍勢を引き連れて義昭とともに上洛を果たしました。以後15年間、天正10年(1582)6月2日に本能寺の変で倒れるまで、信長は京都の政治情勢に深く関わる立場にありました。
 
 それに伴い、信長は朝廷や公家との関わりが増えることになりますが、実は上洛以前にも、全く朝廷・公家との接点がなかったわけではありません。さらに遡ると、信長の父・織田信秀の頃から織田家は朝廷・公家との関わりがありました。

 そこで今回は、織田信秀が自身の領国である尾張(現在の愛知県の西半部にあたる)に2人の公家(飛鳥井雅綱と山科言継)を招いた事例を取り上げ、信長以前の織田家と朝廷の関係について深掘りしてみたいと思います。

織田信秀の生い立ち

 戦国時代初期(16世紀前半)、尾張国は守護として斯波氏がトップとしており、その下に守護代織田氏が存在していました。しかし守護斯波氏は応仁の乱以降、内紛を繰り返し衰退。実際の政治的実権は守護代織田氏が握っていたのです。

 尾張国の守護代には2家があり、尾張上四郡を支配する岩倉織田氏(織田伊勢守家)と尾張下四郡を支配する清州織田氏(織田大和守家)が守護代でした。

斯波氏と各織田氏の支配関係
斯波氏と各織田氏の支配関係

 信秀は織田大和守家の分家にあたる織田弾正忠家の当主・織田信定(信長の祖父)の長男として生まれました。織田大和守家には「清州三奉行」と呼ばれた有力な家臣3家がおり、織田弾正忠家はその一角を占めていました。

 信定は伊勢と尾張を結ぶ要衝として栄えていた津島を支配し、織田弾正忠家の勢力を拡大していったとされています。津島は港町・門前町として相当栄えていた町だったようで、織田弾正忠家の経済的な基盤になったと考えられています。

 大永6年(1526)4月~同7年(1527)6月の間に、信定は家督を信秀に譲って引退。当主となった信秀は経済的基盤(津島)を継承し、さらに織田弾正忠家の勢力を拡大していきます。最盛期には尾張の隣国三河西部にまで勢力を広げました。

 信秀の政治的地位や権威は、本家の守護代・織田大和守家や守護斯波氏を凌駕する勢いでした。なお『信長公記』によると、信秀は「器用の仁」と呼ばれ、能力に秀でた戦国武将として高く評価されていたようです。

飛鳥井雅綱・山科言継による伝統芸能の普及

 天文2年(1533)7月8日、信秀は公家の飛鳥井雅綱(あすかい まさつな)と山科言継(やましな ときつぐ)等を尾張に招きました。

 飛鳥井家は連歌や蹴鞠を家業としており、今回の尾張下向でも蹴鞠の伝授を行っており、尾張諸将の多くが雅綱の門弟になっています。尾張下向の目的の1つに、雅綱による蹴鞠・連歌の普及があったことは間違いないと思います。

 ちなみに尾張以外にも、大永5年(1525)・天文18年(1549)の2回、雅綱は相模国の小田原北条氏を訪れ、蹴鞠の伝授をしたことがわかっています。雅綱の活動は、現代で例えると伝統芸能の普及活動といえるでしょう。

 公家はそれぞれの家ごとに「家業」として、蹴鞠などの伝統芸能を保持していました。「家業」は代々の当主によって継承され、文化的な価値として重宝されていました。しかし、戦国時代の公家は金銭的に困窮していたため、度々地方を訪問し、蹴鞠や連歌などの伝統芸能を伝授し、その見返りに金品を獲得し、生活の糧としていたことが知られています。

 雅綱と一緒に尾張を訪問した山科言継の山科家は、装束などの有職故実や雅楽(ががく。日本の古典音楽の一つ)を家業としていました。後年の話になりますが、永禄11年(1568)10月、足利義昭は征夷大将軍に就任するにあたり、将軍宣下の儀式における装束について、言継に相談したりしています。

 さて、話を尾張下向に戻しますと、このときの下向について、実は山科言継が日記(『言継卿記』)に克明に書き残しています。

 『言継卿記』によれば、7月8日に尾張津島に到着した雅綱・言継一向は、信秀の出迎えを受け、信秀の居城である勝幡城に移動しました。このとき、雅綱や言継等は騎乗したのに対し、信秀は徒歩で勝幡まで移動したと、『言継卿記』には書かれています。

 このことから信秀が京から下向してきた雅綱・言継一行を手厚く歓待していたのがわかります。信秀は朝廷に対してある程度の敬意を持っていたと指摘できるでしょう。また、言継は到着した勝幡城の様子に「目を驚かせ候」と、感想を記しています。新造部分が豪勢な造りだったようで、ここに信秀の財力の強さが垣間見えます。

 翌日9日、蹴鞠が催され、見物人は数百人に及んだと言われています。尾張国内において、公家下向の注目度が高かったと思われます。雅綱・言継等の尾張滞在中に蹴鞠は10回程開催され、尾張国内の部将の多くが雅綱の門弟となっています。

 『言継卿記』には多くの尾張諸将が雅綱に献金をしたことが記されていますが、その大部分が門弟料でした。門弟料はだいたい、「銭2百疋と糸巻きの太刀」のセットでした。おそらくこれが門弟料の相場だったと思います。

 蹴鞠の師範の家である飛鳥井雅綱の門弟になることは部将たちにとって、一種のステータスや教養になったのでしょう。

飛鳥井雅綱・山科言継の尾張下向と尾張国内の情勢

 7月8日に尾張に到着した雅綱・言継一行は8月20日まで尾張に滞在しました。到着してから、しばらく一行は勝幡城に宿泊していましたが、7月27日以降は清州城に宿泊しています。

 清州城には尾張守護の斯波氏がいましたが、実質的な城主は尾張下四郡守護代の織田達勝(織田大和守家)でした。信秀からみれば達勝は本家の当主、主君にあたる人物になります。しかし、当時の尾張国下四郡の有力者は達勝と信秀によって二分されており、このため、雅綱・言継一行は両者の居城に宿泊したとみられます。

 ところで、当時の信秀と達勝の関係について、『言継卿記』天文2年7月11日条には、去年の和睦以来、はじめて信秀と達勝が対面したと記されています。ここから、両者は去年まで対立関係にあったことが推定されます。さらに和睦後も主君(達勝)と家臣(信秀)の関係であるにもかかわらず、両者は顔を合わしていませんでした。

 このような状況から、信秀と達勝の関係は、和睦したとはいえ、ギクシャクした関係だったのではないでしょうか。そこで、雅綱・言継等の尾張下向をきっかけに対面を果たしたようにもみえます。

 今回の尾張下向では多くの人々が飛鳥井雅綱の門弟となりました。信秀と達勝自身は門弟となっていませんが、彼らの配下とみられる人々は門弟となったようです。これは尾張国内の諸将(主に尾張下四郡の諸将)が飛鳥井雅綱の門弟として、皆同門同士でつながることを意味します。

 これにより、信秀と達勝が対立しにくい関係になったといえるのではないでしょうか。ここに信秀の意向があるように思われます。また達勝も、実際に雅綱・言継一行を清州城に宿泊していることから、信秀の意向に同意していたものとみられます。

 その一方で、雅綱・言継側としては、今回の尾張下向は金銭収入を得られる貴重な機会でした。そのため、「信秀・達勝」と「雅綱・言継」の利害の一致をみて、今回の尾張下向は計画されたと考えられます。

おわりに

 ここまで、飛鳥井雅綱・山科言継等の尾張下向について取り上げました。

 この尾張下向は尾張国内の情勢と公家側の思惑が一致して実施されたものとみられます。とはいえ、信秀は雅綱・言継等を手厚く歓待しました。津島から勝幡に移動するときに、騎乗する雅綱・言継と比較して、信秀は徒歩で移動したことを取り上げましたが、ここから、信秀が朝廷に対してある程度、敬意を持っていたことがわかります。

 ちなみに、尾張下向のおよそ10年後、天文12年(1543)1月、信秀は御所の修理費用として、朝廷に金銭十万疋(一万貫)を献上しました。この献上に対して、朝廷は信秀の使者として上洛した平手政秀を小御所に招きもてなしました。雅綱・言継の尾張下向以降も、信秀の朝廷に対する姿勢は変わっておらず、ある程度、尊重していたといえるでしょう。


【主な参考文献】
  • 今谷明『戦国大名と天皇』(講談社、2001年)
  • 堀新「戦国大名織田氏と天皇権威―今谷明氏の「天皇史」によせて」(同『織豊期王権論』校倉書房、2011年)
  • 谷口克広『天下人の父親・織田信秀 信長は何を学び、受け継いだのか』(祥伝社、2017年)
  • 横山住雄『織田信長の系譜 織田信秀の生涯を追って』(教育出版文化協会、1993年)
  • 『戦国人名辞典』(吉川弘文館 2006年)
  • 『公家事典』(吉川弘文館、2010年)
  • 高橋隆三・斎木一馬・小坂浅吉校訂『言継卿記』(八木書店、1972年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
yujirekishima さん
大学・大学院で日本史を専攻。専門は日本中世史。主に政治史・公武関係について研究。 現在は本業の傍らで歴史ライターとして活動中。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。