織田信長が実施した朝廷支援 信長は朝廷を”煩わしい”とは感じていなかった?

 戦国時代の革命児のイメージが強い織田信長。小説や時代劇ドラマなどの影響によって従来の信長の性格は、古い慣習を否定し、中世を終わらせて新しい政治体制を作ろうとしたと考えられてきました。当然、古くから存在する天皇や公家や、彼らによって組織された朝廷も信長にとっては煩わしい存在であったとみられてきました。

 しかし、「実際の信長はちょっと違うのではないか」とする研究も多く提示されるようになってきているようです。こうした研究状況をふまえたうえで、今回は信長と朝廷との関係について考えてみたいと思います。

戦国時代に困窮していた朝廷

 永禄11年(1568)9月、織田信長は足利義昭を擁立して上洛。14代将軍・足利義栄(よしひで)を擁立していた三好三人衆は織田軍に惨敗し、四国に落ち延びました。その前後には義栄が病死し、情勢は信長にとって優位に進み、10月18日には義昭が15代将軍に就任しています。以降、信長は本能寺の変(1582)で亡くなるまでの15年間、京やその周辺の政治情勢に深く関わっていくことになります。

 一方、戦国時代は、皇室や公家の所領が他人に略奪される「押領(おうりょう)」が頻繁に発生していました。また、朝廷の財政状態においては、室町幕府の衰退に伴って、幕府からの経済支援が減り続け、厳しい状況にありました。

 朝廷の困窮を示す代表的な事例として、即位礼の実施の遅延が挙げられます。即位礼は皇室行事のなかで最重要の儀式とされ、本来であるならば皇位を継承してから、さほど日を経ないで実施されていました。しかし、戦国時代の朝廷は資金不足によって、即位礼がなかなか実施できず、有力な戦国大名の資金提供によって、遅ればせながらもなんとか実施している状態でした。

 信長上洛当時の天皇であった正親町天皇も皇位継承から2年後、永禄3年(1560)に毛利氏の支援によって即位礼を実施しています。

 このように困窮していた朝廷には経済支援が必要な状況でした。

将軍就任直後の足利義昭の通達

 義昭が将軍に就任した直後の永禄11年(1568)10月21日には、幕府奉行人が京の市中に向けてある通達を発しています。(『言継卿記』永禄11年10月21日条)

 この通達は従来の禁裏御料所(皇室の所領)を保障する内容でした。義昭は従来の禁裏御料所からの税収(年貢・公事など)を改め、押領や未納などを取り締まることを京の市中に表明したものと考えられると思います。くわえて、信長からも同じような通達(副状)が出されていますので、信長もこの通達の内容に同意していたことがわかります。

 従来、上洛後に将軍となった義昭は信長の傀儡とされ、信長が主導して政権運営がなされていたと考えられていました。しかし近年の研究では、戦国時代における室町将軍は、畿内の政治面や軍事面における「実力者」に支えられながら、政権運営を行っていたと考えられるようになりました。

 これは義昭と信長の関係にも同様の構図が当てはまり、「実力者」である信長が、義昭を支える体制(「二重政権とも呼ばれています」)が元亀4年(1573)2月まで続いていたとされています。

 つまり、信長や義昭は上洛当初より、朝廷を財政支援する方針をとっていたのです。

公家・門跡を対象とした徳政令と新地給与

 上洛当初は良好な関係を維持していた信長と義昭ですが、やがて両者の間で対立が生じ、元亀4年(1573)7月、信長と義昭は軍事衝突に至っています。

 信長は義昭の軍勢を打ち破り、義昭を京都から追放しました。以降は信長単独による政権運営がなされましたが、朝廷への財政支援は引き続き行われていました。その一例として、天正3(1575)年3月の徳政令を取り上げます。徳政令とは簡潔にいえば借金を帳消しにする命令です。

 信長の徳政令の主な特徴は以下の4点です。

A、徳政令の対象は公家・門跡
B、債務一切の破棄を認める
C、公家・門跡領の全面回復を認める
D、廿年紀法の適用外

 Aの徳政令の対象については、特定の公家ではなく、公家全体が対象とされていたと考えられています。また、門跡も徳政令の対象に含まれていました。門跡とは皇族や公家の子弟が住職を務める寺院および住職本人を指します。このため、朝廷とは密接な関係でした。

 Bの債務放棄とCの公家・門跡領の全面回復に関しては、徳政令対象者に対象となる債務と土地支配にかかわる証状・返状を、織田政権に提出するよう義務付けていたことがわかっています。証状・返状の提出を義務付けることによって、徳政令の実施状況や土地の所有者を織田政権が把握することができました。ここから徳政令の遂行を確実にしたいとする信長の強い意志が読み取れるかと思います。

 しかし、徳政令の実施にあたっては当事者間で様々な係争がありました。債権破棄については徳政令の効果があったと考えられていますが、所領回復については、当事者の抵抗や複雑な権利関係などがあり、妥協を余儀なくされる場面が多くあったことが指摘されています。このため、公家・門跡領の全面回復は実現せず、所領回復の面では徳政令は充分な成果を上げることができませんでした。

 Dの「廿年紀法」とは、20年間その土地を所有していれば、たとえ不法な占拠であっても、20年間土地を実際に支配していた者を正当な土地所有者とする法です。室町幕府が過去に発布した徳政令は廿年紀法が適用されていました。しかし信長が発布した徳政令は廿年紀法の適用を限定しなかったことがわかっています。

 その一例として、公家の高倉永相が59年前に手放した土地を取り戻そうとした事例があります。該当の土地は徳政令の対象になりましたが、相手側の本能寺が断り、高倉永相には戻りませんでした。土地が戻らなかった理由は、先ほど指摘しましたが、当事者の抵抗や複雑な権利関係などがあったためと予想されます。

 このように今回信長が発布した徳政令は、充分な効果があったとはいえない側面がありました。しかし、この後11月に信長は公家や門跡に「新地」を給与していることが確認されています。その対象は徳政令のとき同様、公家・門跡の全体に及んでいることがわかっています。

 今までの経緯をふまえると、徳政令や新地の給与によって、信長は困窮していた公家・門跡を経済的に支援する意向を持っていたことは明らかであると考えられます。

おわりに

 足利義昭を奉じて上洛して以降、信長は朝廷に対して様々な財政支援政策を実施していきました。

 その中でも公家・門跡を対象とした徳政令の発布は、公家の困窮改善に直結し、ひいては朝廷の財政状態に好影響を与えるものでした。しかし、信長の徳政令は結果として思うような効果は得られず、最終的に信長が新しく土地を公家・門跡等に給与することとなりました。

 以上を踏まえると、信長にとって朝廷は ”保護すべき存在” ということがうかがえます。従来の古い慣習を否定する今までの信長像は、見直す段階にきているのかもしれません。今後の研究の進展が期待されます。


【主な参考文献】
  • 下村信博『戦国・織豊期の徳政』(吉川弘文館、1996年)
  • 久野雅司『中世武士選書40 足利義昭と織田信長』(戎光祥出版、2017年)
  • 柴裕之『織田信長―戦国時代の「正義」を貫く―』(平凡社、2020年)
  • 国書刊行会編『言継卿記』(続群書類従完成会、1998年)

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  この記事を書いた人
yujirekishima さん
大学・大学院で日本史を専攻。専門は日本中世史。主に政治史・公武関係について研究。 現在は本業の傍らで歴史ライターとして活動中。

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