室町15代将軍・足利義昭と朝廷の複雑な関係…幕府財政の悪化が及ぼした影響とは
- 2024/04/03
永禄11年(1568)10月、足利義昭は織田信長に擁立されて上洛し、念願の室町幕府15代将軍に就任しました。義昭といえば、信長との関係に注目が置かれることが多いですが、信長以外にも様々な人物と関係を構築していました。
そこで今回は義昭と朝廷・公家との動向に注目し、両者の関係を考察したいと思います。はじめに南北朝期からの室町幕府と朝廷・公家の関係を概観したうえで義昭の時代の状況を取り上げます。
※義昭は度々改名をしていますが、本記事では「義昭」で表記を統一します。
そこで今回は義昭と朝廷・公家との動向に注目し、両者の関係を考察したいと思います。はじめに南北朝期からの室町幕府と朝廷・公家の関係を概観したうえで義昭の時代の状況を取り上げます。
※義昭は度々改名をしていますが、本記事では「義昭」で表記を統一します。
室町将軍と朝廷
室町将軍と朝廷との関係について、基本的に室町将軍は朝廷を守護する立場にありました。厳密には「北朝」を守護していました。この背景には「南北朝の動乱」が関係しています。初代将軍の足利尊氏は、大覚寺統(南朝系)の後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕に協力し、建武政権の樹立に貢献しました。しかし、政策をめぐる方向性の違いから、両者の関係は決裂し、後醍醐天皇は尊氏を「朝敵」としました。
九州に落ち延びた尊氏は「朝敵」というレッテルを剥がすために、持明院統(北朝系)の光厳上皇を奉じました。後醍醐天皇方の軍勢を打ち破った尊氏は京都を奪還し、光厳上皇の弟・豊仁を即位(光明天皇)させ、ここに「持明院統による朝廷」=「北朝」が成立。この北朝から尊氏は征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開いています。
一方、後醍醐天皇は京を脱出し、大和国の吉野に逃れました。以後、吉野を拠点に北朝に対抗します。ここに「大覚寺統による朝廷」=「南朝」が成立しました。
以上の経緯から室町将軍(室町幕府)の政治的正統性は北朝によって保障されていました。このため必然的に室町将軍(室町幕府)は北朝の天皇・朝廷を守護する立場にありました。
3代将軍・義満のとき、「南北朝合一」がなされましたが、義満は後円融上皇、4代義持は後小松上皇、6代義教は後花園上皇の院別当を務めました。
院別当とは、上皇が院政を敷いた際の政務機関である「院庁」の最高責任者です。院庁は上皇配下の機関であることから、室町将軍は北朝の上皇・天皇の下に位置し、朝廷を守護、支える存在にありました。
このように朝廷(北朝)を支えてきた室町将軍でしたが、戦国時代になると、徐々に朝廷との関係に隙間が生じるようになりました。戦乱に伴って室町幕府の財政状態は窮乏化し、経済的な支援を満足に朝廷に対して実施することが困難な状態が恒常化するのです。
なかでも象徴的なのが、即位礼の実施です。通常なら新天皇が皇位を継承してから、さほど日を経ないで実施される即位礼は朝廷行事のなかで最重要に位置される儀式です。即位礼の実施には莫大な費用が掛かるとされ、その費用は室町幕府の資金援助によって賄われていました。しかし、戦国時代の幕府財政は悪化して資金援助ができませんでした。後柏原天皇(在位 1500~1526)や後奈良天皇(在位 1526~1557)の即位礼は、10年以上も延期された後で、ようやく実施されたほどです。
このように時期によって、室町将軍と天皇・朝廷との関係は変容していったのでした。
室町将軍と公家
室町将軍は朝廷を保護する役目を負っていたため、当初から公家との接点を持っていました。初代尊氏の頃は、戦乱が続いていたことや公家と付き合える程の教養が無かったため、必要最低限の付き合いであったとみられています。2代義詮の頃から公家との関係が深まり始め、3代義満の時期に飛躍的に密接な関係になったと考えられています。
6代義教の頃になると、将軍家との関係の深い公家が固定化されていきました。そうした公家は「武家昵近公家衆」と呼ばれ、日野・広橋・烏丸・正親町三条・飛鳥井・高倉等が知られています。
なかでも日野家からは将軍の御台所(正室)が多く輩出されました。とりわけ8代義政の御台所・日野富子は著名です。ところが12代義晴・13代義輝は摂関家の近衛家から御台所を迎えています。
将軍義昭と近衛前久
義昭は天文6年(1537)、12代将軍義晴の次男として誕生。母は近衛尚通の娘(慶寿院)であり、同母兄に13代将軍となる義輝がいます。足利家と近衛家は、婚姻関係を結ぶことで相互を支え合う体制となりました。特に義輝の時代、慶寿院の兄弟達(近衛稙家・大覚寺義俊・聖護院道増・久我晴通)が義輝を政治的に支える立場にあったことがわかっています。
永禄8年(1565)5月、義輝は三好勢の襲撃をうけて殺害されました(永禄の変)。このとき奈良にいた義昭は難を逃れ、義輝の後継として将軍の座を目指すために諸国の大名に上洛の支援を要請しました。このとき、近衛家の大覚寺義俊・聖護院道増・久我晴通等は義昭に協力したことがわかっています。なお、近衛家当主であった稙家は永禄の変の翌年に亡くなっており、義昭との関係はよくわかっていません。
さて、近衛家は稙家嫡男で、義昭の従兄弟にあたる近衛前久が継承しました。ところが前久は三好三人衆と関係を持ち、義昭のライバルであった義栄の14代将軍の就任に協力したため、義昭の不興を買ってしまいます。
永禄11年(1568)9月、織田信長の協力を得て上洛した義昭は、10月18日に15代将軍就任しますが、直後の11月、前久は京都を追われました。12月には正式に関白を罷免され、義昭の在京中は京に戻ることができませんでした。
このように義昭は、従兄弟であっても自分に協力しない場合は、厳しい対応をとったことがわかります。なお、後任の関白には義昭の将軍就任に協力した二条晴良が任じられました。おそらく義昭の意向があったものと推測されます。
朝廷への経済保障を表明する義昭だったが・・・
念願の将軍となった義昭は就任直後の10月21日、禁裏御料所(皇室の所領)を保障する通達を発しました。この通達の内容については以前執筆した記事「織田信長が実施した朝廷支援 信長は朝廷を”煩わしい”とは感じていなかった?」で言及しましたが、この通達から
- ① 従来の禁裏御料所からの税収(年貢・公事など)を改めて新将軍義昭が保障。
- ② 義昭は押領や未納などを取り締まることを京の市中に表明。
などが確認できます。また同日、信長からも同内容の通達(副状)が出されており、信長も義昭の通達の内容に同意していました。
ところが、『言継卿記』の永禄12年(1569)3月3日条に、以下の記録が残っています。
「武家御押領」
「去年公方衆違乱」
この場合、「武家御押領」にある ”武家” とは、室町将軍を指し、「去年公方衆違乱」にある ”公方衆” は将軍の家来衆を指します。そして、"押領" や "違乱"は、略奪や非合法で他人の土地を勝手に支配するという意味です。
つまり、この史料から確認できるのは、本来は朝廷を保護する立場にあるはずの幕府が、公家の所領を略奪していたということです。
信長から批判される義昭
さて、朝廷に関わることで義昭は信長から批判を受けています。信長が将軍義昭の行動を非難した「十七箇条異見書 」の第1条では、義昭が宮中への参内を怠っていると書かれています。そのなかで信長はかつて義輝も宮中への参内を怠り、神の加護無く不幸な最期を遂げたこと指摘し、参内を怠る義昭の姿勢を遺憾に思っているとしています。信長は義昭にしっかり参内するように求めました。
さらに第10条では、改元費用を捻出しない義昭の姿勢を批判しています。改元については朝廷からも催促があったようですが、このときに結局、改元は実施されずじまいでした。ただ、義昭を追放した直後、信長の経済支援によって改元が実施されています(「元亀)から「天正」に改元)。ここに朝廷に対する義昭と信長の姿勢の相違がみられます。
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おわりに
元亀4年(1573)7月、義昭は信長によって京都を追放されますが、このとき誰一人として、義昭に随行する公家はいませんでした。これまでの経緯を踏まえれば、義昭は朝廷関係者に嫌われていた、と考えられるのではないでしょうか。義昭の追放以降、信長在世中の朝廷は、織田政権の経済支援によって運営されていくのです。
【参考文献】
- 久野雅司編『シリーズ・室町幕府の研究 第2巻 足利義昭』(戎光祥出版、2015年)
- 久野雅司『中世武士選書40 足利義昭と織田信長』(戎光祥出版、2017年)
- 金子拓『織田信長<天下人>の実像』(講談社、2014年)
- 丸山裕之『図説 室町幕府』(戎光祥出版、2018年)
- 木下昌規『足利義輝と三好一族』(戎光祥出版、2021年)
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